第1章 白い結婚なのに寝室は同じ
エレナ・ラングレーは、北方の寒さを少し甘く見ていた。
馬車の扉が開いた瞬間、冷たい空気が頬を打った。
寒い、と思うより早く、肺の奥に冷気が入り込んでくる。
今は三月、王都にはもう春の気配があったというのに、ここはまだ真冬。北方は寒いというより、誰かの冷えた息を吹きつけられているよう。
白い息を吐きながら馬車を降りると、目の前には灰色の石造りの屋敷があった。
グレイヴ辺境伯邸。
今日からここがエレナの暮らす場所になる。
そして、この屋敷の主がエレナの夫になる人だ。
辺境と王都のつながりを強くするため、王家からの勅命を受けた政略結婚相手。まだ一度もお目にかかっていない。
二十歳のエレナは、これまで恋愛らしい恋愛は知らずにきた。
男性が苦手なわけではないけれど、友人たちがこぞって褒め称える貴公子にあまり興味を覚えず、付き合いで話を合わせる程度。恋愛に積極的でない態度が表に出ていたのか、熱心に言い寄ってくれる殿方は現れなかった。
燃え上がる恋愛は物語で読むには楽しいが、自分は登場人物のようにはなれないだろうと自覚していた。友達からも「エレナにはまだ恋は早いのよ」と言われていた。
いつかは自分も恋焦がれる人と出会うのだろうか、となんとなく思っていたところへ、この度の政略結婚が決まった。結局「恋」を知らないまま嫁ぐのを残念に思ったものの、自分はこれで良かったのだろう、とすんなり受け入れて、この度北方までやってきたのだった。
「お疲れでしょう、奥様」
出迎えた侍女長が、丁寧に頭を下げる。
「長旅でしたもの。すぐに暖かいお茶をご用意いたします」
「ありがとうございます」
エレナは微笑んで答えた。
その時、屋敷の大扉の前に立つ長身の男性と目が合った。
ヴィクトル・グレイヴ辺境伯。二十七歳。
二年前、父から辺境伯位を継いだ若き領主。魔法騎士としても名高く、北方の魔獣討伐では何度も功績を挙げているという。
黒に近い灰色の髪。
鋭いが、整った顔立ち。
背筋はまっすぐで、礼装を着ているのに、なぜか剣を抜いた時の姿を想像できる。
無口で冷静。王都では「氷の辺境伯」と呼ばれている。
その噂に違わず、ヴィクトルは表情一つ変えずにエレナを見ていた。
見ていた、というより、彼はエレナを凝視していた。
そのヴィクトルの様子に、エレナは初めての対面という緊張よりも、自分の髪飾りが曲がっているのかしらと心配に思った。あるいは、馬車を降りる時に裾を踏んでしまったのかしら、と。
だが、確認する前にヴィクトルが一歩近づいてきた。
「エレナ・ラングレー嬢」
低い声だった。
「長旅、ご苦労だった」
「お気遣いありがとうございます、グレイヴ辺境伯様」
エレナは動揺を隠して、丁寧に礼をした。
ヴィクトルは何か言いかけた。唇がわずかに動く。
けれど、彼は結局、何も言わなかった。ただ、ほんの一瞬だけ、痛みに耐えるような顔をした。
エレナは首を傾げる。今日が初対面なのに、目の前の夫となる男性は、まるで長い旅の果てに失くしたものを見つけたような顔をしていた。
そして次の瞬間には、無表情に戻っていた。
「中へ。外は冷える」
「はい」
エレナが歩き出すその前へ、ヴィクトルがさりげなく手を差し出した。段差があったからだろう。
エレナは自然にその手を取った。革手袋越しでも分かるほど、彼の手は大きかった。
ほんの短い接触だった。
けれどヴィクトルの指先が、わずかに強張った。エレナが顔を上げると、彼はもう前を向いていた。
無口で妙な人。というのが、彼への第一印象だった。
北方に嫁ぐと決まった時、王都で色々な噂を聞いた。
辺境伯は冷酷だとか。
魔獣相手に笑いながら剣を振るうとか。
婚約者候補が三人逃げたとか。
最後の噂については、侍女が興奮気味に語っていたが、真偽はかなり怪しい。
恋愛経験がないとはいえ、結婚相手のことは気になる。
あらゆる「冷酷な夫」を想像しながらここまでやってきたが、目の前のヴィクトルを見る限り、冷酷というより、表情を置き忘れてきた人という印象だった。
何かを必死に押し殺している人。
何を押し殺しているのかしら?と疑問が浮かんだが、今日のエレナにそれを深く考える余裕はない。
政略結婚当日である。
お相手は無口なようだし、接触の少ない、気楽な結婚生活になるかもしれないわ。
そう思うことにした。
その日の午後に行われた婚礼は、思っていたより簡素だった。
北方の領主らしく、華美な装飾は少ない。
けれど参列者の顔つきは真剣で、辺境伯家への敬意が感じられた。
ヴィクトルの両親は参列していなかった。体調が悪いわけではなく、現在は領地内の療養地で半隠居の暮らしをしていると聞いている。
代わりに、父君からは丁寧な祝辞が届いていた。
母君からは、エレナ宛てに手編みの肩掛けが贈られていた。
王都には弟と、嫁いだ妹がいるらしい。
どちらも今日は来られなかったが、後日改めて祝いの品を送ると手紙があった。
家族関係は悪くないようで、エレナは少し安心した。
式の間、ヴィクトルはほとんど喋らず、エレナと目を合わすこともなかった。
けれど誓約書に署名する時、エレナの手が少し冷えていることに気づいたのか、何も言わずエレナが暖炉の近くへ立てるよう位置を変えた。
細かい。無口だが、気遣いはできる人らしい。
式が終わり、形ばかりの祝宴も終わると、エレナはようやく一息ついた。
慣れない屋敷、慣れない人々、慣れない夫。
そして何より、寒い。
北方の屋敷は暖炉が多いが、それでも王都の屋敷とは違う。廊下の空気が明らかに冷たい。
エレナは侍女のリーナに案内され、寝室へ向かった。やっと自分の部屋で落ち着ける、と思いながら廊下を進んでいて、ふと気づく。
「こちらが、私の部屋ですか?」
「はい。正確には、旦那様と奥様の寝室でございます」
エレナは足を止めた。
「……旦那様と?」
「はい」
侍女は当然のように答える。
エレナは少しだけ沈黙した。
政略結婚とはいえ、寝室が同じでもおかしくはない。おかしくはないのだが、ヴィクトルは式の前に淡々と言っていた。
この結婚に夫婦としての義務は求めない、と。
つまり、恋愛感情はなし、お互い干渉しない、必要以上に近づかない、という白い結婚のつもりで、エレナはその場で了承したのだったが。
「……寝室は同じなのですね」
「はい」
侍女は、やはり当然のように答えた。
「北方では、夫婦の寝室を分けると暖房の効率が悪いので」
「暖房の効率」
思わず復唱してしまった。
ここで、暖房効率が出てくるとは思わなかった。
扉が開かれる。
中は広い寝室だった。大きな暖炉があり、厚い絨毯が敷かれている。
壁には冬用の重い布が掛けられ、窓には防寒用の二重の覆いがある。
部屋の中央には、天井から厚いカーテンが吊られていた。そのカーテンによって、部屋は左右に区切られている。
暖炉のあるこちら側に、エレナの寝台。
カーテンの向こうには、おそらくヴィクトルの寝台。
なるほど。
同じ寝室だが、部屋の中で分割しているらしい。
エレナはしばらく黙って眺めた。
なかなか斬新な白い結婚ね。
リーナが丁寧に説明してくれた。
「旦那様から、奥様側は特に暖かくするよう仰せつかっております」
「旦那様が?」
「はい。足元が冷えないように、と」
エレナは瞬きをした。
足元が冷えることなど、まだ誰にも言っていない。
たしかにエレナは冷え性だ。王都でも冬は寝る際に湯たんぽを使っていた。
だが、ラングレー伯爵家から侍女を連れて来なかったため、細かなエレナの身の回りのことを知る者は北方にはおらず、ましてやヴィクトルがそれを知っているはずがない。
「……気の利く方なのですね」
「ええ。旦那様は奥様のために、急に細かく指示を出されました」
「そうですか」
エレナは微笑んだが、内心では首を傾げていた。
初対面の政略結婚の相手に、用意が細かすぎない?
その後、侍女たちがひとまず身の回りを整えてくれた。先に送っていた荷物も無事に届いていた。
少し落ち着いたところで、リーナから、本は既に魔術書庫に収めてあると聞かされた。
「魔術書庫?」
「はい。旦那様のご指示で、本類はそちらがよろしいのではと。屋敷の中でも湿気が少なく、保存に向いておりますので」
エレナは頷いた。
彼女は魔力こそ少ないが、魔法理論が好きだった。
嫁入り道具も、衣装より本の方が多いくらいである。
父から預かった一冊も、その中に混ざっている。
北方で落ちついたら、辺境伯本人に渡しなさい。
王都の者や使者には預けてはいけない。
父はそう言っていた。
ただ、今日はさすがに疲れている。ヴィクトル本人と落ち着いて話せる時に渡せばいいだろう。
そう思い、エレナは一旦そのことを脇に置いた。
そうして、夜が深まり。
湯浴みを済ませ、寝間着に着替えたエレナは、寝台に腰掛けていた。
部屋は暖かい。
たしかに、暖房効率という説明は嘘ではなさそうだった。
問題は、部屋の中央にある紺色の厚いカーテンである。
同じ部屋。厚いカーテン。別々の寝台。近いのか遠いのか、判断に迷う。
と、不意にカーテンの向こうから低い声が聞こえた。
「エレナ」
「っ!!……はいっ」
エレナは少し背筋を伸ばした。
「今日は疲れただろう。早く休むといい」
「……ありがとうございます。辺境伯様も」
「ヴィクトルでいい」
意外な言葉に、エレナは目を瞬かせた。
「よろしいのですか?」
「夫婦になった。名で呼ぶ方が自然だ」
白い結婚なのに。寝室は同じで、名で呼ぶのは自然。
この結婚、細部がかなり独特な気がする。
「では……ヴィクトル様」
「……」
カーテンの向こうが静かになった。
エレナは首を傾げる。
「ヴィクトル様?」
「……問題ない」
「何か、問題があったのですか?」
「ない」
声が少し硬い。
名前を呼ばれただけで問題が発生しかけたらしい。
ますます妙な人。
お休みなさいと声をかけて、エレナは布団に入った。
暖かい。
足元には小さな魔導具が置かれているらしく、じんわりと熱が伝わってくる。
夫婦としての義務はないと言われている。寝台は別。カーテンもある。
ならば、ひとまず安心して眠ろう。
そう思って目を閉じた。
ところが、眠りに落ちかけた頃。
カーテンの向こうから、かすかな声が聞こえた。
「……エレナ」
エレナは目を開けた。
「はい?」
返事はない。
寝息が聞こえる。
どうやら、ヴィクトルは眠っているらしい。
寝言ね。
エレナは少しだけ肩の力を抜いた。
だが、その直後。
「……花嫁姿が……綺麗だった……」
エレナは完全に目が覚めた。
今、何て言ったの?
カーテンの向こうから、低く掠れた声が続く。
「言えばよかった……いや、言うな……近づくな……」
エレナは布団の中で固まった。
昼間のヴィクトルは、花嫁姿について何も言わなかった。
綺麗とも、似合うとも、形式的な褒め言葉すらなかった。
それなのに、寝言では言うらしい。
しかも、言えばよかった、という反省付きで。
どういうことだろう。
エレナはそっと上体を起こした。
カーテンの向こうは静かで、物音も聞こえない。
だが、少しするとまた声がした。
「寒くないか……足が冷える……毛布を……」
エレナは自分の足元を見た。
暖かい。毛布も十分ある。というより、最初から準備されている。
「……なぜご存じなのかしら」
小声で呟く。返事はない。相手は寝ている。
しかし寝言は止まらなかった。
「エレナは……我慢するから……気づけ……」
エレナは困った。
これは聞いてよいものなのかしら。
夫の寝言。聞こうとして聞いているわけではない。同じ寝室にしているのは向こうの都合なのだから。
つまり、これは不可抗力。
そう判断して、エレナはもう一度布団をかぶった。
しかし、眠れるはずがなかった。
「笑うと……危険だ……」
カーテンの向こうで、ヴィクトルが苦しげに呟く。
エレナは眉を寄せた。
笑うと危険? 何が?
すると、答えのように次の寝言が聞こえた。
「俺の心臓に悪い……」
エレナは頭まで布団をかぶった。
昼間は無口で無表情だった夫が。
式の間、必要最低限しか喋らなかった夫が。
白い結婚を宣言した夫が。
寝言で妻を褒めている。しかも、かなり具体的に!
「……これは」
エレナは小さく息を吐いた。
「想定していた政略結婚と、少し違うわね」
いや、少しどころかかなり違う。
白い結婚とは、もっと乾いたものだと思っていた。
互いに干渉せず、礼儀だけを守り、必要な時だけ夫婦の顔をするものだと。
ところが現実は、同じ寝室の中央にカーテンが吊られ、その向こうで夫が寝言によって好意らしきものを漏らしている。
これは白いのか。それとも、白いふりをした何かなのか。
エレナには判断がつかなかった。
ただ一つ分かることがある。
ヴィクトル・グレイヴは、噂ほど冷たい人ではない。
むしろ、冷たさの下に、何かがありすぎる。
その何かが何なのかは、まだ分からない。
カーテンの向こうから、また声がした。
「……エレナ……守る……」
その声は、それまでの甘い寝言とは違っていた。
低く、苦しく、祈るようだった。
「……絶対に……」
エレナは息を潜めて、布団から顔を出した。
北方の夜は静かだった。
暖炉の火が小さくはぜる音だけが、部屋に響いている。
エレナは目を閉じた。
明日の朝、夫に聞いてみようか。
あなたは寝言でずいぶん饒舌なのですね、と。
いや、やめておこう。
初日からそれを言うのは、少し意地が悪い。
ただし、忘れるつもりもなかった。
エレナは分からないものを、そのままにしておく性格ではなかった。
夫の寝言。過剰な気遣い。妙な白い結婚。
そして、守る、という言葉。
この結婚には、何か隠されている。
そう思いながら、エレナはようやく眠りに落ちた。
カーテンの向こうで、ヴィクトルがもう一度だけ呟いた。
「エレナ……生きている……」
その声を、エレナは夢の入り口で聞いた。
意味は分からなかった。
けれどなぜか、とても悲しい声だと思った。




