第10章 王都から来た魔導士
翌朝、エレナはいつもより少し早く目を覚ました。
最初に感じたのは、暖炉の残り火の温かさだった。
次に、自分の手を包む大きな手。
隣を見ると、ヴィクトルが眠っていた。
昨夜、部屋の中央に吊られていたカーテンは外された。半年以上、二人を隔てていた布は、今は壁際に畳まれている。
寝室は一つになった。
ただ、それだけのことなのに、世界が変わったように思えた。
ヴィクトルは眠っている時、起きている時より少し幼く見える。眉間の力が抜け、呼吸も穏やか。額に灰色の混じった黒髪が少しカールしてかかっている。
エレナがそっと手を抜こうとした時、ヴィクトルが低く呟いた。
「……エレナが隣にいる……」
エレナは動きを止めた。
「可愛い……朝から……危険……」
エレナは顔が熱くなった。
「起きてから言ってください」
すると、ヴィクトルの目がゆっくり開いた。
しばらく、彼はエレナを見つめていた。
「……今、何か言ったか」
「おはようございます」
「おはよう」
少し遅れて、ヴィクトルは自分がエレナの手を握っていることに気づいたらしい。
けれど、離さなかった。
むしろ、指先に少し力がこもる。
「眠れたか」
「はい。あなたの寝言はありましたが」
「何を言った」
「カーテンは戻さない、と」
「それは言った覚えがある」
ヴィクトルは真面目に頷いた。
エレナは少し笑う。
「それから、朝から危険、と」
「……」
「何が危険なのですか」
「君だろうな」
起き抜けに、何を言っているのか。
エレナは布団の中に顔を半分隠した。
「そういうことは、もう少し段階を踏んでください」
「前も同じようなことを言われたな」
そう言いながら、ヴィクトルの視線はやわらかかった。
昨夜までとは、少し違う。
今ここにいるエレナを見て、幸せそうにしているヴィクトル。
エレナはそれが嬉しかった。
けれど、その甘い空気に浸っていられたのは、ほんの短い間だけ。
今日は、王都から魔導士が来る。
父の本を探りに来るかもしれない者。冬至祭の準備に紛れて、北方の屋敷を調べるであろう者。
朝食の席で、ヴィクトルはいつもよりエレナを見ていた。
「ヴィクトル様」
「何だ」
「私の顔に何かついていますか」
「ついていない」
「では、なぜそんなに見るのです」
「……昨夜、カーテンを外したから」
エレナは手を止めた。
「見られると食べにくいです」
「では控える」
「控えなくてもいいですが、」
「では少しだけ見る」
「表現が変です」
2人のやりとりを耳にしながら、侍女長のマルタが横で静かに給仕をしている。彼女の表情は真面目だったが、口元が少しだけ緩んでいた。
おそらく、もう知っているのだろう、寝室のカーテンが外されたことを。
エレナは周りから微笑ましく見られていることに恥ずかしくなったが、すぐに気持ちを切り替えた。
今日は、新婚夫婦の甘い朝だけではない。
罠の始まりでもあるのだから。
昼前、王都から魔導士が到着した。
名はセドリ。
表向きは、王都のハーヴェル工房所属の魔術灯調整師。
三十代半ばほどの男で、茶色の髪を後ろで束ね、旅用の外套をまとっていた。礼儀正しく、声も穏やか。見た目だけなら、腕のよい職人に見える。
だが、エレナはすぐに違和感を覚えた。
腰の道具入れ。
金具に刻まれている文様が、工房のものとしては少し硬い。監査院系の封印補助図形に似ている。やはり北方を探りにきた者のようだ。
エレナが視線だけでそれを示すと、隣に立つヴィクトルがわずかに頷いた。
以前なら、彼は隠すようにエレナを一歩後ろに下げただろう。
今は違う。彼はエレナを隣に立たせている。
そのことに、エレナより一緒に立ち向かう気概を強くした。
セドリは丁寧に頭を下げる。
「お初にお目にかかります。王都ハーヴェル工房所属、調整師のセドリと申します。冬至祭に向け、灯具の確認に参りました」
「グレイヴ辺境伯だ」
ヴィクトルは短く答えた。
「こちらから依頼を出した覚えはない」
「はい。王都側の工房より、例年の点検候補として派遣されました。こちらに紹介状もございます」
セドリは封書を差し出す。ヴィクトルは受け取り、封を切らずに後ろの騎士へ渡した。
「確認する」
「もちろんでございます」
セドリの表情は崩れない。
エレナは穏やかに声をかけた。
「遠いところをありがとうございます。北方は初めてですか?」
「はい、奥様。噂には聞いておりましたが、空気が澄んでいて美しい土地ですね」
「寒いでしょう」
「そうですね。王都育ちには、少々こたえます」
自然な受け答えだった。
だが、彼の視線はときおり屋敷の奥へ流れる。大広間。南回廊。そして、北棟へ続く廊下。魔術書庫のある方角だ。
「魔術灯の確認は、大広間と南回廊までだ」
ヴィクトルが言った。
「他の棟には近づくな」
「承知しております。なんでも古い書庫があるとか」
「誰に聞いた」
「王都でも、辺境伯家の蔵書は有名ですから」
セドリは穏やかに微笑む。
上手い。あからさまな失言ではない。けれど、探っている。
エレナは首を傾げた。
「魔術書庫にご興味が?」
「魔導士としては、古い蔵書にはどうしても目がなくて」
「私はまだ、入れてもらえません」
「それは残念ですね」
「夫が心配性なので」
エレナがそう言うと、ヴィクトルがわずかにこちらを見た。
その視線は少し非難がましい。だが、怒ってはいない。
むしろ「それをここで言うのか」という顔だった。
エレナは微笑んだまま続ける。
「最近、ようやく少しだけ信用されてきました」
「奥様を大切になさっているのですね」
「ええ。大切にしすぎるくらい」
セドリの笑みが、一瞬だけ深くなった。何かを測った。
辺境伯は妻を過剰に守っている。妻は魔術書庫へ近づけない。しかし妻は好奇心が強い。そう読んだのだろう。
読ませたのだ。
エレナは内心で静かに息を吐く。罠は、もう始まっている。
到着したその日には、セドリに大広間の魔術灯を確認させた。もちろん騎士が二人つく。さらに、エレナとヴィクトルも少し離れて観察した。
セドリの手つきは、本職そのものだった。灯具を外し、魔力回路を確認し、古い結界石の劣化を見抜く。そこに嘘はない。
だが作業の合間、彼の指先は何度か床や壁の魔力の流れをなぞった。灯具の調整ではない。屋敷の結界を読んでいる。
エレナは低い声で言った。
「北棟までの結界の流れを探っています。王都式の隠蔽魔術の前処理に似ています。魔力の逃げ道を探している」
「見えるのか」
「完全には。ただ、癖があります」
ヴィクトルが一瞬、エレナを見る。その目には、心配と、誇らしさが同時にあった。
「無理に近づくな」
「見るだけです」
「それでもだ」
「はい」
ヴィクトルは視線をセドリから逸らさないまま言った。
「君の目が必要だ」
必要とされている。エレナは胸が温かくなるのを感じた。
「はい」
ヴィクトルの指が、ほんの一瞬だけエレナの手に触れた。人目がある。だからすぐに離れた。それでもエレナには十分だった。
作業の終わり、セドリは丁寧に礼をした。
「大広間の灯具はおおむね良好です。冬至祭前にもう一度、本調整を行えば十分でしょう」
「今日はここまでだ」
ヴィクトルが言う。
「宿は外門近くに用意してある」
「ありがとうございます。明日残りの灯具を確認しましたら王都へ戻ります。追加の結界石を取り寄せて、冬至祭直前にもう一度参ります」
「そうか」
セドリはエレナへ向き直った。
「奥様。読書用の魔術灯も、必要でしたら次回調整いたしましょう。王都式のものは目が疲れにくくなります」
「それは助かります」
「ええ。またその頃に」
またその頃に。
冬至祭の前に、彼は戻ってくる。その言葉は、宣言のようだった。
夜、読書室で二人はセドリの動きを整理した。机には屋敷の簡易図が広げられている。
エレナはヴィクトルの隣に座っていた。以前なら、向かい合って座っていた。今は自然と隣にいる。
近い。肩が触れそうになるたび、ヴィクトルが少しだけ緊張する。そのたびにエレナは、少しだけ可笑しくなった。カーテンを外しても、彼の慎重さはすぐには消えないらしい。
「大広間、南回廊、外門。許可した範囲はここまでだ」
ヴィクトルが地図を指す。
「けれど彼は、北棟までの結界の流れを確認していました。魔術書庫に興味を持っているのは間違いありません」
「父君の本が、魔術書庫にあると思っている可能性が高い」
実際には本物の証拠は分散を始めている。だが、相手にはそう思わせる。
「奴が王都へ戻って、誰に報告するか追わせる」
「弟君に?」
「すでに伝令を出した。レオンが王都で見張る」
エレナは頷いた。
「冬至祭直前に戻ってくるなら、その時が本番でしょう」
「ああ」
「では、罠を作りましょう」
ヴィクトルが眉を寄せる。
「君を囮にはしない」
「分かっています」
「だが、君の考えも聞く」
エレナは地図の北棟を指した。
「魔術書庫に、まだ原本があるように見せます。セドリが探っていた北棟へ、偽の保管情報を流す。冬至祭の人が増える時に彼が動けば、捕らえられる」
「危険だ」
「危険です。ですが、こちらが場所と時間を制御できます」
ヴィクトルは深く息を吐いた。
「偽の本を用意する。魔術書庫に保管されたように見せる。セドリが戻るまでに、北棟の結界を一部わざと甘くする」
「甘く見せる、ですね」
「ああ。実際には二重に張る」
方針は決まった。エレナは地図を見下ろしながら言った。
「迎え撃ちましょう」
「……そうだな」
ヴィクトルの声が少し沈む。
彼は思い出している。一度目の冬至祭。間に合わなかった夜。
エレナは、机の下でそっと彼の手に触れた。ヴィクトルが驚いたようにこちらを見る。
「私を一人にしないのでしょう」
「しない」
「なら、あなたも一人で戻らないで。あの夜に。私はここにいます」
「……ああ」
彼は、エレナの手を握り返した。強く。けれど、痛くないように。
その夜、二人は同じ寝室に戻った。カーテンがない、それだけで部屋の空気は違っていた。
エレナは寝台の端に腰掛けながら、少しだけ緊張していた。
昨夜はカーテンを外した直後で、気持ちが高ぶっていた。今日は、現実としてこの距離が続くのだと分かる。
エレナはヴィクトルへ手を伸ばす。
「こちらへ」
ヴィクトルは一瞬止まった。
「いいのか」
「毎回聞くのですか」
「おそらく、しばらくは」
「あなたらしいですね」
ヴィクトルは慎重に近づき、エレナの隣に座った。
肩が触れる。昨夜より自然だった。エレナは自分から彼の腕に寄り添った。
ヴィクトルが息を止めている。
「呼吸してください」
「している」
「止まっていました」
「少しだけだ」
こそばゆいやり取りに、エレナは笑った。
ヴィクトルも、小さく笑う。
「エレナ」
「はい」
「口づけてもいいか」
昨夜と同じように、律儀な問いだった。
エレナは頬を赤くしながらも、彼を見上げる。
「はい」
ヴィクトルの手が、エレナの頬に触れた。
唇が重なる。
昨日より少しだけ自然で、少しだけ長い口づけだった。優しく確かめるように。急がないように。
今のエレナの意思を、何より大事にするように。
唇が離れると、ヴィクトルは額を寄せたまま低く言った。
「これから、君を危険に近づける。それが怖い」
「私も少し怖いです。それでも、あなたの隣にいます」
エレナはヴィクトルの胸に頬を寄せた。
その夜も、ヴィクトルの寝言は近かった。声も、息遣いも、すぐそばにある。
「今日も賢かった……心強かった……怖かった……好きだ……」
「明日からも……守る……隣で……」
エレナは彼の手に力を込めた。
「ええ。隣で」
翌朝セドリは王都へ戻って行った。
彼が去ってから、冬至祭へ向けた罠は本格的に動き出した。




