籠の中の鳥
月がまるで私を嘲笑うかのように冷たく夜道を照らしていた。
私は荷車に揺られながら小さく膝を抱える。
流れていく景色をぼんやりと眺めても、涙は止まらなかった。
「綾乃ちゃん……。」
何度その名前を呼んでも、返事が返ってくることはない。
『また明日ね。』
『うん! 絶対だよ!』
ほんの少し前まで笑い合っていたはずなのに、その約束は遠い夢のように感じられた。
荷車は暗い夜道を進み続ける。
どれだけ願っても、時間は戻ってくれない。
やがて荷車は大きく揺れ、ゆっくりと止まった。
「着いたぞ。」
男に腕を掴まれ荷車から降ろされる。
目の前には見上げるほど大きな門がそびえ立っていた。
提灯の明かりが通りを照らし、三味線の音色が夜風に乗って響いている。
色鮮やかな着物をまとった女たちが歩き、人々は笑いながら酒を酌み交わしていた。
そこは、今まで見たことのない華やかな世界だった。
「……きれい。」
思わず言葉が漏れる。
けれど、男は鼻で笑った。
「今日からここがお前の家だ。」
その言葉の意味が、最初は理解できなかった。
家……?
ここが?
違う。
私の帰る場所はここじゃない。
私の帰る場所は――。
「……嫌。」
首を横に振る。
「帰りたい……。」
震える声がこぼれる。
「綾乃ちゃんのところに帰る……!」
私は男の手を振りほどき、来た道へ走り出そうとした。
けれど、一歩も進めなかった。
ぐいっと腕を引かれ、そのまま地面へ倒れ込む。
「離して!」
必死にもがく。
「お願い……!」
「帰らせて……!」
涙で前が見えない。
男は大きくため息をついた。
そして――。
「黙れ」
パシンッ。
乾いた音が夜の花街に響いた。
私はその場に倒れ込む。
頬が熱い。
何が起きたのか分からない。
ただ、涙だけがこぼれ落ちる。
「誰か……。」
小さく声を漏らす。
けれど、誰も動かなかった。
道を歩く人たちは、こちらを見るだけ。
すぐに興味を失ったように視線を逸らしていく。
助けてくれる手はない。
差し伸べてくれる人は、どこにもいない。
……いつもそうだった。
母に傷つけられた時も。
町の子どもたちに囲まれた時も。
誰も私を助けてはくれなかった。
ただ一人――。
綾乃ちゃんを除いて。
だから余計に思った。
「帰りたい……。」
「綾乃ちゃんのところへ帰りたい……。」
「ごめんね……綾乃ちゃん。」
涙が止まらなかった。
男に腕を引かれながら、私は歩き出す。
しばらく進むと一軒の大きな遊女屋の前で足が止まった。
建物の表には太い木の格子がはめられていた。
その向こう側には、色鮮やかな着物をまとった女たちが静かに座っている。
道行く男たちへ微笑み、ときには優雅に袖を揺らす。
誰もが息を呑むほど美しい。
けれど――。
その瞳には光がなかった。
笑っているはずなのに、誰一人として幸せそうには見えない。
私にはその格子は鳥籠にしか見えなかった。
美しい羽を持ちながら、空を飛ぶことを許されない鳥たち。
どれだけ着飾っても。
どれだけ綺麗に笑っても。
あの格子の外へ出ることはできない。
そして――。
今日から、私もその鳥籠の中で生きていく。
足がすくむ。
もう一歩も動きたくない。
「行け。」
男に背中を押される。
私はふらつきながら、一歩を踏み出した。
もう二度と、綾乃ちゃんの待つ場所へ帰ることはできない。
あの日交わした約束も、もう守れない。
私は静かにもう二度と出ることのできない常世の街中へと足を進めた。




