変化
私は一度、大きく深呼吸をした。
大丈夫。
今日も「ただいま」と言えば終わる。
人形みたいに何も話さず、何も逆らわなければ今日も終わる。
そう自分に言い聞かせながら、震える手で家の戸を開けた。
「た、ただいま……。」
家の中は酒の匂いで満ちていた。
母は徳利を片手に酒をあおり、頬を赤く染めたまま私を睨みつける。
「……やっと帰ってきたか。」
その低い声に、思わず肩が震えた。
「お前を育てるのにも金がかかる。借金は増える一方……。」
母はため息をつき、私を見下ろす。
「産んだ意味もない子だと思ってたけど、ようやく役に立つ日が来たね。」
「え……?」
何を言われているのか分からなかった。
次の瞬間、母は私の腕を乱暴に掴む。
「いたっ……!」
抵抗する間もなく家の裏へ引きずられる。
そこには、見知らぬ男が立っていた。
男は私の顔をじっと見つめると、口元を歪める。
「ほぉ……。」
「噂どおりだな。」
「この歳でこの顔立ちか。将来が楽しみだ。」
男は品定めをするように私を見回し、不気味に笑った。
怖い。
どうしてそんな目で見るの……?
母は私の背中を押し、男の前へ突き出す。
「約束の金だ。」
男は懐から小さな袋を取り出し、母へ放った。
じゃらり——。
重たい金属の音が静かな路地に響く。
母は袋を開け、中身を確認すると満足そうに笑った。
その笑顔を見た瞬間、胸の奥がざわついた。
嫌な予感がする。
「じゃあ、この子は確かに預かった。」
男がそう言うと、母はあっさりと頷いた。
「好きにしてくれ。」
そう言って家へ戻ろうとする。
私は慌てて母へ手を伸ばした。
「お、お母さん!」
声が震える。
「お願い……!」
「どこへ行くの……?」
母は足を止めない。
一度も振り返らない。
まるで、最初から私なんていなかったかのように。
ガラリ、と戸が閉まる音がした。
その音で、私はすべてを悟った。
私は、お金と引き換えに売られたんだ。
「いや……。」
思わず後ずさる。
「帰りたい……。」
男は私の腕を強く掴んだ。
「帰る場所なんてもうねぇ。」
「今日からお前は、うちの商品だ。」
「いやっ!」
私は必死にもがく。
腕を振りほどこうとしても、大人の力には敵わない。
涙が止まらなかった。
頭に浮かぶのは、ほんの少し前まで一緒に笑っていた綾乃ちゃんの顔。
『また明日、ここでね!』
『うん! また明日!』
『絶対、来てね!』
約束したばかりだった。
「綾乃ちゃん……。」
声にならないほど小さく呟く。
「ごめんね……。」
「約束……守れそうにないよ……。」
男に引かれながら歩き出す。
夕焼けに染まる町は、さっきまでと何も変わらない。
変わってしまったのは、私だけだった。




