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覚悟

男に連れられ、私は遊女屋の中へ入った。


外から見た華やかさとは違い、中は静まり返っていた。


廊下には線香の香りが漂い、遠くから三味線の音が聞こえてくる。


「こっちだ。」


男に背中を押され、一つの部屋へ通される。


襖が開いた瞬間、中にいた少女たちの視線が一斉に私へ向いた。


「へぇ、新入り?」


「まだ子どもじゃない。」


「顔だけは可愛いね。」


笑っている。


でも、その笑顔はどこか冷たかった。


私は小さく頭を下げる。


「よ、よろしくお願いします……。」


その言葉に、一人の少女が鼻で笑った。


「挨拶なんかしても意味ないよ。」


「どうせすぐ泣くんだから。」


部屋のあちこちから笑い声が上がる。


私は何も言えなかった。


一人の少女が私の顎を指先で持ち上げる。


「へぇ……。」


「本当に綺麗な顔。」


その目がゆっくり細くなる。


「だから、気に入らない。」


その言葉と同時に、肩を強く突き飛ばされた。


私は畳へ倒れ込む。


「っ……。」


立ち上がろうとした瞬間、今度は別の少女が私の腕を踏みつけた。


「やめて……。」


「その目も嫌い。」


「ここはね、泣けば誰かが助けてくれる場所じゃないんだよ。」


周りの少女たちは笑っているだけだった。


助けてくれる人は誰もいない。


母に殴られた時と同じ。


町の子どもたちに囲まれた時と同じ。


私はぎゅっと目を閉じた。


その時だった。


「――そこまでにしな。」


静かな声が部屋に響く。


その一言だけで、部屋から笑い声が消えた。


襖の向こうから、一人の女がゆっくりと姿を現す。


黒く艶やかな髪。


夜を映したような瞳。


豪奢な着物をまとったその姿は、まるで夜そのものが人の姿になったようだった。


誰もが息を呑む。


部屋の空気が、一瞬で張り詰める。


「睡蓮姐さん……。」


少女たちは慌てて頭を下げた。


睡蓮は倒れている私を見下ろし、小さく息をつく。


「寄ってたかって一人をいじめるなんて、みっともないね。」


「でも姐さん、この子、顔が……。」


「だから何だい。」


睡蓮は少女の言葉を静かに遮った。


「その顔も、その先の価値も、あんたたちが決めることじゃない。」


誰も何も言えなくなる。


睡蓮は私の前へしゃがみ込み、静かに手を差し伸べた。


「立てるかい。」


私は少し戸惑いながら、その手を握る。


温かい。


吉原へ来てから、初めて触れた優しい温もりだった。


「……ありがとうございます。」


睡蓮は私を真っ直ぐ見つめる。


その視線は鋭いのに、不思議と怖くはなかった。


「名前は。」


「……鈴です。」


「鈴か。」


睡蓮は小さく頷き、立ち上がる。


「今日から、この子は私が預かる。」


部屋がざわついた。


「姐さん自ら?」


「そんなに見込みがあるんですか?」


睡蓮は振り返らない。


「磨けば光る石を、人任せにはしたくない。」


静かな一言だった。


けれど、それ以上反論する者はいなかった。


睡蓮は私へ目を向ける。


「おいで。」


私は小さく頷き、その後を歩いた。


案内された部屋は、不思議と落ち着く空気が流れていた。


睡蓮は腰を下ろし、私も向かいへ座る。


「礼儀、読み書き、三味線、琴、茶、華。」


「覚えることは山ほどある。」


「ここで生きるなら、一つずつ身につけな。」


私は唇を噛み、小さく頷く。


睡蓮はしばらく私を見つめると、静かに口を開いた。


「それから。」


「鈴という名前は、今日で終わりだ。」


胸が締めつけられる。


鈴。


綾乃ちゃんが何度も呼んでくれた、世界で一番大切な名前。


睡蓮は静かに続ける。


「今日から、お前は――春霧。」


「春の霧は、柔らかな光をまとい、人の目を惹きつける。」


「桜を美しく見せるのも、朝の山を幻想的に見せるのも霧の役目さ。」


「けれど、近づけば何も掴めない。」


「遊女も同じ。」


「美しくあれ。だが、本当の心は誰にも見せるな。」


「それが、この町で生き残る術だ。」


「……春霧。」


私はその名前を小さく口にした。


けれど、その響きはどこまでも遠く、まるで知らない誰かの名前のようだった。


「返事は。」


睡蓮の静かな声が響く。


私は唇を震わせる。


鈴のままでいたい。


綾乃ちゃんにもう一度その名前を呼んでほしい。


そう願っても、現実は何も変わらない。


ゆっくりと唇を開く。


「……はい。」


その返事とともに、人前から鈴という名前は消えた。


けれど、綾乃ちゃんが笑顔で呼んでくれたあの名前だけは、誰にも奪われないよう胸の一番奥へしまい込んだ。


忘れたかったわけじゃない。


捨てたかったわけでもない。


ただ、この町で生きるためにはそうするしかなかった。


私は静かに目を閉じる。


胸の奥で、綾乃ちゃんが「鈴」と呼んでくれた優しい声がかすかに響く。


その声も、交わした約束も、一緒に笑い合った日々も――。


私は心の奥底にある檻へ閉じ込め、そっと鍵をかけた。


二度と開けることはないと、自分に言い聞かせながら。

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