8 気づき
最近の美亞未は、朝から妙に楽しげだ。
好きなアーティストのライブ近々があるわけでもなく、ジャムも変えたわけでもない。
――なにかあった?
夕飯を終え、自室に戻った時、希亞樹は何気なく姉にメッセージを送っていた。
――なにが?
返事はすぐに来る。
――最近たのしそうにみえる
――そ?
――きになる
――別になにもないって
――きになる
――しつこい
電話に切り替えてみたが、相手にされなかった。
スマホを枕の上に放り投げて、天井を仰いだ。
別になにもない。
それが嘘だとは思わない。思わないが、納得もできない。
姉のことは分かるつもりでいた。
機嫌がいい時と悪い時、テンションが上がる話題と下がる話題、笑う時の目の細め方と、怒る時の眉の動き。
長年同じ屋根の下で暮らしていれば、言葉にしなくてもだいたい読める。
だから余計に、今の美亞未が読めないのが、希亞樹は気に入らなかった。
楽しげ、というより――うまく言えないが、そうどこかふわふわしているのだ。
希亞樹はもう一度スマホを手に取り、画面を開く。
美亞未の写真を指でなぞって、止めた。
――オレが知らない何かがある。
それだけは確かだった。
翌朝、希亞樹はいつもより一時間ほど早く起きていた。
理由はない。
ただ、気がついたら目が覚めていた。
洗面所に向かうとすで姉が顔を洗っていた。
「あれ、今日早いじゃん」
鏡越しに美亞未が声を掛けてくる。
「まぁな」
素っ気なく返して、美亞未と場所を入れ替わる。
「なあ姉貴」
今度はこちらが鏡越しに姉の背に声を掛ける。
「なに」
「何かあったんだろ」
「ないって言ってるじゃん」
「じゃあなんで楽しそうにしてんの」
「人が楽しそうにしてちゃダメな理由は?」
美亞未が振り向く。その顔は、まだしっとりと濡れている。
声色は不機嫌ではない。
普段の姉にはない種類の余裕が、その表情に滲んでいるように、希亞樹には見えた。
「……ダメじゃないけど」
希亞樹は言葉を濁した。
追いかけようとしている自分と、追いかけたら何かが変わる気がして躊躇っている自分が、同じ胸の中にいる。
「…アキってさ」
美亞未がタオルをフックに掛けながら言った。
「人のことよく見てるよね」
褒めているのか、からかっているのか、判断がつかない声だった。
「……姉貴のことだけだよ」
気がついたら口から出ていた。
美亞未は少しだけ目を瞬かせて、それから「そ」と短く言った。笑いも、咎めもしなかった。
ただ洗面所を出ていく背中を、希亞樹はしばらく見ていた。
「あれ、アキも行くの」
玄関で靴を履く美亞未の隣に、希亞樹は乱暴にスニーカーを突っかけた。
「ん」
短い返事を返す。
帰宅は自然と同じことになることもあったが、一緒に登校するのは、久しぶりなことだ。
外は薄曇りで、空気がまだ少し冷たかった。並んで歩きながら、美亞未は希亞樹を目にして自分はスマホに夢中になっていた。
希亞樹はその横顔を盗み見た。
いきなり手を掴んで驚かせてみようか、そんなイタズラが過ぎるが実行には移さない。
駅に着くまで、会話らしい会話はなかった。
ホームに降りると、ちょうど電車が滑り込んできた。乗り込んで、吊り革をそれぞれ掴む。
普段乗らない朝のラッシュは、息ができないほどではなかった。
電車が次の駅についた時のことだ。
「羽衣」
低く、静かな声が聞こえた。
希亞樹の身体が、反射的に強張った。
――警戒。
美亞未が顔を上げるのが見えた。
その表情が、ぱっと、という表現がぴったりなほど自然に明るくなる。
「あ、リックスくん、おはよう」
「ああ。……ん、今日は弟と一緒なのかか」
リックス・ティルミだ。
人の間をかき分けて姉の後ろについた。
金色の髪、青い目。
希亞樹の記憶にある通りの顔が、静かにこちらを見ていた。
一応挨拶をするべきか迷って、希亞樹は結果口を閉じることにした。
「なんか今日は早起きみたいでさ」
美亞未が何でもないように言う。リックスは希亞樹に軽く視線を向けてから、また美亞未に目を戻した。
「そうか」
それだけだった。
三人の間に、しばらく電車の音だけが流れた。希亞樹は吊り革を握る手に、少しだけ力を込めた。
――なんで姉貴はあいつと話す時だけああいう顔をするんだ。
明るいとか楽しそうとか、そういう言葉では足りない。
なんというか、少し背筋が伸びているような、そういう表情だ。
希亞樹に対してする顔とは、種類が違う。
「この間はありがとう」
リックスが言った。
「気にしないでっ! お互いさまだしっ!」
二人にしか分からない会話が、聞こえてくる。
リックスは淡々とした口調なのに、美亞未はそのたびに小さく相槌を打ったり、少し笑ったりしている。
希亞樹はその会話に割り込むことも出来ずに、ただ黙って、二人の間に流れる空気を見ていることしか出来なかった。
次の駅でどっと人が乗り込んできて、車内の密度が上がった。押されるように、希亞樹は美亞未から少し離れた位置に移動させられ、美亞未とリックスは、逆に近くなった。
――これが、疎外感ってやつ?
希亞樹はその瞬間、なんとなく理解した。
確信ではない。証拠もない。ただ、美亞未がここ数日ふわふわしていた理由が、輪郭を持ち始めた気がした。
リックスが何かをしたわけではないのだろう。ただ、この男と話す時の姉の顔が、楽しそうにみえる。
それだけで、胸の中に重たいものが落ちてくる感覚があった。
次の駅のアナウンスが流れた。
「ここで降りる」
リックスの声が聞こえた。学園前より一つ手前の駅だった。
「少し寄るところがある。またな、羽衣」
リックスが人をかき分けて降りていく直前、一瞬だけ希亞樹と目が合った。
何かを言うでもなく、何かを込めるでもなく、ただ静かな目だった。
扉が閉まって、電車がまた動き出す。
「……なんだあいつ」
希亞樹は小さく呟いた。
リックスが降りた後も、美亞未はしばらくリックスが消えたドアの方を見ていた。
それに気づいた時には、視線を窓の外へと逃がした。
流れていく景色の中に、自分の顔が薄く映っている。
その表情が、あまり好きになれなかった。




