7 好奇心の先
『リックスくん…』
言葉を紡ぐ美亞未の唇を、リックスは網膜の裏に思い描いていく。薄ピンク色の形のよい唇は、リックスの興味をそそるには十分な素材であった。
――あの少女が…あんなことをするのか…。
美亞未が唇に手を当てた。その何気ない動作が艶めかしくみえ、リックスの心臓が跳ねた。
動揺を悟られぬように平静を装うと、美亞未から逃げるように電車から降りていた。
――オレはあの時なにを考えた? いや、これは好奇心を満たしたいだけだ…。オレの心を乱した君たちの真実が知りたいだけだ…。
「おーい、いつも以上に難しい表情しているな」
昼休み――図書室の奥まった席で、リックスが考え事をしていると、スチュワートが声を掛けてきた。今日は建築の本ではなく、何冊かの文庫本を片手に持っている。
「……声が大きい。図書室だぞ」
「悪い悪い。で、何考えごとしていたんだ? また愛?」
スチュワートが勝手に隣の椅子を引き、どっかりと腰を下ろした。リックスはため息をつきながら、手元の本を閉じる。表紙には『トーテムとタブー』と小さく書かれていた。
「タブー?」
スチュワートが見えた文字を言葉にした。
「好奇心だ。ただの」
「へえ」
スチュワートが低い声で笑う。リックスは窓の外に目をやり、しばらく黙っていた。
スチュワートが興味深そうに、リックスの顔を覗き込んでくる。
「タブーねえ…。お前、最近妙に哲学的な顔してるよな。愛の次は禁忌か?どんどん暗い方向に行ってるぞ」
リックスは小さく肩をすくめた。窓の外では、昼休みの校庭で生徒たちが騒いでいる。遠くから聞こえる笑い声が、まるで別の世界の音のように感じられた。
「余計なお世話だ。それに、ただの好奇心だと言ったろ。……人間がどこまで線を越えられるか、興味があるだけさ」
「線?」
スチュワートは顎を撫でながら、にやりと笑った。
「お前が見てる『線』ってのは、オレには見えない特別なものなのか?」 リックスは答えず、『トーテムとタブー』を指で軽く叩いた。
フロイトの分析は、原始的な禁忌を「抑圧」として語っていた。血縁の間で生まれる愛情と欲望が、文明の秩序を保つために強く禁じられる――。 だが、リックスが今考えているのは理論ではない。
羽衣美亞未の横顔。
弟である希亞樹と重ねられるその唇。
窓から見えた、あの短いキス。
朝の電車で見た、柔らかな微笑。
「線は線だ。境界線。その線を伸ばしたままにするか、切ってみるか、それとも別の所に繋げてみるか…超えてみるか、色々と考えているんだ」
「…なんだそれ」
「線が描くものが愛なのか、知りたい」
「詩人みたいだな」
「褒め言葉として受け取っておくよ」
リックスは立ち上がる。
この胸のざわめきが好奇心なのか、放課後に確かめることに決めた。
その日の放課後、リックスは生徒会室の前にいた。
学年が違う以上、学校で会える場所と言えばここくらいだろう。
中には誰もおらず、今日生徒会の仕事があるのかも知らない。
――流石に計画性がなさすぎたか……。
扉の前で腕を組んで立ったまま、リックスは小さく舌打ちをした。
事前に調べるという発想が、今日に限って抜け落ちていた。自分らしくない。
――好奇心というのは、人を間抜けにするものだな。
自嘲しながら、引き返すべきか。いや、せっかくここまで来たから待つべきか。
リックスは廊下の端へと移動して、壁に背を預けた。スマートフォンを確認すると、スチュワートから三件の未読メッセージが届いていたが、内容は確認せずにポケットへと戻した。
結局、しばらく待つことにした。
放課後の学校は、部活動へと急ぐ生徒たちの流れと、だらだらと帰路につく者とが混じり合い、ざわめきの密度がゆっくりと薄れていく。リックスはその流れに溶け込むように立っていた。
五分ほど経った頃だった。
階段の方から聞き慣れた笑い声が聞こえてきた。
「えー、嘘でしょ、全然気づかなかった!」
待ち望んでいた声がした。
友人と二人連れで廊下を歩いてくる。手には資料らしき紙の束を抱えているせいか、制服のリボンが少しだけ曲がっていた。
友人の方が先にリックスの存在に気づいて、小声で何かを言う。美亞未がこちらに視線を向けた。
「あ……」
彼女と目が合う。
「リックスくん。どうかしたの? 何か困りごと?」
「いや、そういう訳でもない。気にしないでくれ」
リックスは淡々と答えた。
友人と一緒にいるのは想定外だったからだ。
「ん、そう? またね、リックスくん」
「ああ、また、な…」
結局、その日は成果を得ることは出来なかった。




