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馴染みのある声が、美亞未の耳朶を打つ。
名前を呼ばれて、美亞未は顔を上げた。
「あ、座る…?」
「いや、いいよ」
ブランコに置いていた荷物に、伸ばしかけていた手が止まる。
弟との久しぶりの会話は、思いのほか以前と変わらないものであった。
「ごめん…急に呼び出したりして…」
「…寒くねえのこんな所にいてさ」
希亞樹はコートのポケットに両手を突っ込み、寒さのせいか少し肩をすくめている。
「わたしは平気。むしろこのくらいがちょうどいいかも」
吐き出す息が、夜の暗さに溶けていく。
「なんだそれ」
しばらく見ないうちに弟の雰囲気はどこか大人びていて、自分の知らない時間があったのだと、現実を突き付けられた。
「で、話って」
ポケットから手を出さないまま、希亞樹が低く静かな声で促す。
美亞未はブランコのチェーンを握る手にぐっと力を込め、冷たい鉄の感覚を確かめてから、意を決して口を開いた。
「わたしね、留学することにしたの。数ヶ月間の、短期留学だけど」
公園の静寂の中に、美亞未の声だけが響く。
希亞樹の眉が、ほんの一瞬だけピクリと動いた。けれど、驚いて声を荒らげることも、責めるような視線を向けてくることもなかった。ただ、じっと美亞未を見つめ返している。
「あいつ……リックスのところに行くのか」
その名前が出た瞬間、美亞未は心臓が跳ねるのを感じた。隠すつもりはなかったけれど、言い当てられると、やはり自分の卑しさを実感してしまう。
「……うん。リックスくんを追いかけるっていうのも、理由のひとつ。でもね、それだけじゃなくて、わたし、ちゃんと色んなものを見て、勉強して、考えたいの」
「ふーん」
希亞樹は視線を落とし、つま先で地面の砂を軽く払った。
「…別にいいんじゃねえの。姉貴の人生なんだし、俺がどうこう言ったところで、もう決まってんだろ」
突き放すような言葉。だけど、その声は怒りに満ちているわけではなく、どこか諦めに似た、寂しい響きを帯びていた。
「……ずっと黙っててごめんね。どう言えばいいか…分からなくて…」
「…気にしてねえよ。今、ちゃんと言ってくれたし…」
「…っ、!」
その言葉に弾かれるように立ち上がると、希亞樹の胸の中へと飛び込んだ。
「ぁ、姉貴…っ!?」
希亞樹は驚きの声を上げたものの、しっかりと抱きとめてくれた。久しぶりに感じた希亞樹の温もりが心地良くて、美亞未は目を瞑る。
希亞樹の腕の力が強くなる。抱擁の力強さに、美亞未は希亞樹が男であると改めて実感する。
希亞樹の心臓の音が聞こえてくる。その音は速く、大きく脈打っていた。
それが自分の心音と重なる。
美亞未も希亞樹の背中に回した手に、力を込めていく。希亞樹の感触を、手のひらいっぱいに記憶していく。
誰もいない公園で、ただ二人は抱き合っていた。お互いが目の前にいることを実感するように、お互いの温もりを感じ合うように、存在を確かめるように――。
「希亞樹っ…希亞樹ッ……!!」
縋るように、美亞未は希亞樹の名前を呼んでいた。幼いころから呼んでいたいつもの呼び名ではない。
希亞樹という一人を、美亞未は自らの声で刻みつけようとしていた。
もうすぐこの温もりを、手放さなければならないのだ。
夜空に輝く星々は、いつか消えてしまうものかもしれない。リックスが言ったように、愛にだって終わりはあるのかもしれない。
けれど、美亞未と希亞樹の間にあるこの歪で、だけど確かな絆は、形を変えながらもここに残り続けると信じていたい。
「…姉貴、泣くなよ。姉貴は俺の姉貴だろう」
希亞樹が美亞未の髪を梳く。その優しい手つきに、もっと触れていたいと思った。
「姉貴、俺……」
希亞樹が何かを言いかけた時、美亞未は希亞樹の胸から顔を上げた。
「ごめん……。今は何も言わないで」
美亞未の言葉に、希亞樹は黙って頷いた。
「ありがとう……来てくれて」
「当たり前だろ」
「希亞樹…愛してるよ、ほんとに愛して…」
美亞未の手が、希亞樹の頬を撫でていく。希亞樹の手が、美亞未の手に重なった。
二人の視線が絡み合う。
最後にもう一度だけ、キスをしたいと思ったけれど、それはできなかった。抱擁の時、確かに二人の熱は共有され溶け合っていった。それが、よろこびと言わずなんであるか。
重ねられた手を、美亞未はぎゅっと握り返していた。
あぁ……と、喘ぎにも似た美亞未の声は、白い吐息になって消えていく。
「アキ……ありがとう。希亞樹が弟で良かったよ。ずっと愛していられるから……。希亞樹もそう思ってくれたら、嬉しい…。希亞樹と一緒だった時間は全部宝もので、こんなダメなわたしにはもったいないくらいの時間だった。希亞樹が弟で良かった……幸せ者だよ」
美亞未の瞳に光る涙が、希亞樹の心を打つ。
美亞未の言葉は、決別を内包していることは希亞樹にも直感的に分かる。分かってしまったからこそ、何も言えなくなるのだ。
ただ美亞未の瞳を見つめるしか出来ない。同じ時間感覚の共有は、誰よりも美亞未と近い存在でいられた自信はある。
それも、この夜で終わりだ。
「…姉貴」
希亞樹が美亞未の名を呼ぶ。
「うん……?」
「……俺も、姉貴の弟で良かったよ」
「ありがとう」
美亞未はもう一度だけ、希亞樹に抱き着いた。
美亞未の身体を受け止めた希亞樹は、両腕に力を込めて、彼女の肩に腰、そして背中に回した。
美亞未の肌の心地良さを感じながら、これが本当に最後である、と――。
希亞樹の瞳から涙が一筋だけ流れたが、それは冬の夜風がすぐに連れ去ってしまった。
美亞未の温もりを、希亞樹もまた忘れないように刻み込む。こうして、ずっと抱き合っていれば、また愛し合えるかもしれないと、夢のようなことも考える。
流星が二人の頭上を駆けていったが、それは誰にも知られることなく消えた。
「姉貴……」
希亞樹は腕の力をそっと緩めると、美亞未の身体を自分から離した。
最後に指を伸ばして、美亞未の唇に触れてみた。ゆったりと動いた唇の柔らかさが、希亞樹に切なさを運んできた。




