60 コンクルージョン
「……ただいま」
玄関を開けて小さく呟く。が、返ってくる言葉はない。
二人分の靴がなくなったたたきは、まだ見慣れない。
靴を脱ぎ捨て、希亞樹は階段を上がり自室へと向かう。
カバンをベッドへ放って、制服はハンガーに掛ける。
始まりに比べると、終わりというものは実に呆気のないものである。
隣の部屋はすでに主はなく、物音一つしない。
今でも美亞未とシャルロリアとの出来事は夢のようだと思うことがある。
希亞樹は椅子に座り、スマホを手に取った。いつだったか教えてもらったシャルロリアのSNSを開く。
画面の向こうで、シャルロリアはあの天使のような笑みを浮かべていた。もう、希亞樹のことなど忘れたかのように。
この胸を占めている猛烈な喪失感は、すべては自分が作り出した幻覚で、最初から誰もいなかったのではないかとさえ思えてくる。手を伸ばせばまだ届きそうなのに、壁の向こうにはただ、冷たい虚無が広がっているだけだ。
いいねを押してから、希亞樹は一階へと降りた。
母と美亞未が去ってからの生活形態も、少し変化していた。
父は現在、リモートワークと出社が半々の生活を送っている。
家にいる時間は増えたものの、仕事がある父と、学校のある希亞樹。すれ違いが多いことに変わりはなかった。
必然的に、希亞樹は自炊をするようになっていた。
冷蔵庫を開け、中にある数少ない食材を見つめる。美亞未がいた頃は、彼女が適当に作った料理を、囲む食卓の気配があった。
だが今の冷蔵庫には、生きるためだけに調達した最低限の野菜と肉が、整然と並んでいる。
「……何、作っかな」
ぽつりと呟いた声が、換気扇の回る音にかき消される。
テレビを付け、慣れない手つきで包丁を握る。
トントンとまな板を叩く音だけが、やけに大きく響いた。
大雑把に刻んだネギが、まな板の上で散らばる。
適当に買ってきた豚肉と一緒にフライパンへ放り込むと、じゅう、と油の弾ける音が沈黙を破った。
ふと、点けっぱなしにしていたテレビの画面に目をやる。
液晶の向こうでは、海外の壮大な大自然を映し出すドキュメンタリー番組が流れていた。どこか異国の、果てしなく広がる青空。
そこを群れをなして飛んでいるのは、真っ白な渡り鳥だと、ナレーションが告げる。
「鳥かあ…」
炒め物の手を止め、希亞樹はぼんやりとテレビを見つめていた。
彼らは国境なんて関係なく、ただ自分の行きたい場所へ、生きるために必要な場所へと翼を広げて飛んでいく。誰に縛られることもなく、自由そのものの姿で。
鳥を運ぶ風はどこから吹いて、どこへ連れて行くのだろう――。
一つ分かることは、あの鳥たちはきっと風がなくとも、一人でも飛べるということだけだ。
希亞樹の心に、一抹の寂しさが過ぎていく。
「あちっ、…!」
パチッと油が跳ねて手の甲に当たり、希亞樹は我に返った。
慌ててフライパンを振り、火を止める。
皿に盛り付けられたのは、お世辞にも上手とは言えない、彩りの乏しい男の料理だ。
テレビの中の鳥たちは、すでに画面の端へと消え去り、次のシーンへと移っていた。
最後に抱きしめた美亞未の熱は、まだ手のひらの中にある。
血の巡りがある限り、この熱がある限り、魂は繋がっている。
だから、どこへ飛んでいこうともいつだって帰って来られる場所は、ここにある――と、信じてみようと思う時もある。
――俺が一番……誰よりも早く好きになったのに……なんであんなやつに取られるんだよ……。
別れが、こんなにも早く訪れるなんて想像もしていなかった。
悔しくて流した涙は、何度もある。しかし、もう姉はここにはいないのだ。
夢のような喪失感の中で、自分が今こうして包丁を握り、火を使い、食事をしていることだけが、唯一の現実だ。
姉のいないこの家で、自分の足で立つための、これが最初のステップなのかもしれないと、思うことが今は慰めであった。




