58 遠い光
「はい、これ寄せ書き」
友人がテーブルの向こうから色紙を差し出してきた。
開くと、隅から隅までびっしり文字で埋まっていた。下手なイラストの隣に「気をつけて」「向こうでも連絡してね」の文字。
「わっ、ありがとう〜! でも大げさだって、ほんの数ヶ月だよ? すぐ帰ってくるって」
笑いながら色紙を受け取り、美亞未は大事そうに胸で抱きしめる。
「ほんの数ヶ月でも寂しいもんは寂しいの! ミミがいなくなったら、誰が私の愚痴や恋バナの聞き役になってくれるっていうのよ〜!」
友はそう言って、大げさに肩を落とす。
テーブルの上には、食べかけのピザの箱やスナック菓子の袋、炭酸飲料のペットボトルが散らかっていた。
友の部屋の少し色あせたカーテンと、部屋を優しく照らす照明が、居心地のいい空間を作っていた。
「短期留学かあ。でもなんか急だよね。そんなこと一言も言ってなかったのに」
「うん。わたしも夏ごろに急にそういうのもいいかなって…思って…。親もOKしてくれたし、先生にちょっと言ってみたらあれよあれよと……」
「ふーん、やっぱあの留学生の先輩の影響だったりするの? あの人はもう帰ちゃったんだっけ?」
「あーミミ彼氏に会いに行く口実ってこと〜!? 真面目ちゃんにみえて、不真面目なんだから」
「も〜〜そんなじゃなくて、色々考えてだよっ! ちゃんと勉強しに行くのっ! 失礼だなっ」
好き勝手に言う友たちに、美亞未は唇を尖らせて反論する。
「はあ……でもミミがどんどん大人になって遠くに行っちゃうみたいで……ちょっと焦っちゃうな」
ぽつりと言われた言葉に、美亞未は「そう?」と返していた。
大人に、なっていく。
リックスを追いかけるようにして決めた、この短期留学。
自分のわがままで選んだ道の先にある、まだ知らない異国の景色。
それは美亞未にとっても、まだ少し現実味の薄い、だけど確実に近づいている未来だった。
「そんなことないよ。帰ってきたら、またこうしてここでお菓子食べよ? お土産、たくさん買ってくるからさ」
適当に作った笑顔で、改めて色紙を見つめ直す。胸の奥を、冷たい風がすうっと吹き抜けていく。
きっと彼女たちとこうして笑い合うのも、あと一年もないだろう。
最初の数週間は連絡を取り合うだろう。その内、新しい生活の忙しさに、時差を言い訳に、既読スルーが増えていき、帰国する頃には、お互いの共通言語は「おはよう」だけになってしまうに違いない。
――卒業したらきっともう会わないんだろうなあ…。
そんな予感があった。彼女たちは決して悪い人ではないし、思い出だってたくさんある。
だが、未来のビジョンに友たちの姿はない。繋がりなんて、簡単に切れてしまう。
「あ、そうだ! 向こうに着いたらさ、毎日写真送ってよ? イケメン映り込んでたら即共有ね!」
「はいはい、気が向いたらね」
友達とバカみたいな話をして笑い合いながらも、どうしても頭から離れない存在があった。
希亞樹。
まだ留学することすら何一つ知らない弟のことだった。
出発の日が迫っているというのに、美亞未はまだ希亞樹に留学の件を切り出せていなかった。
彼はまだ家に帰ってきてはいない。
おそらく、自分と入れ替わるように戻ってはくるはずだ。
「ミミ? どうしたの、急に黙っちゃって。もしかして、もうホームシック?」
「え? あ、ううん! 違うの、ちょっと感動しちゃってさっ」
慌てて色紙をバッグに仕舞い、誤魔化すように残ったジュースを飲み干した。
スマホの画面に目を落とすと、二十時を過ぎた頃だった。
「帰ってきたらまたパーティしようねっ」
「うん」
友の声に、小さく頷く。
「で、向こういったら何するの?」
「やっぱ本場のランドとか行っちゃう?」
「だから……遊びに行くんじゃないってば……まあでも……そうだな……」
赤茶の髪を指に絡めて独り言のように呟いた。
「髪でも切ろうかなあ。それで、ちゃんとした恋がしたい。普通の恋……」
愛とは何か、恋とは何か。
シャルロリアとの一件以来、頭の片隅でずっと同じことを考えていた。
希亞樹を愛しているから、リックスに恋をしたわけではない。リックスに恋をしたから、希亞樹を愛したわけではない。
この問いに正解はないのだろう、それでも美亞未は考える。
希亞樹のことを今も愛しているかと聞かれれば、もちろん愛していると答えるだろう。
だが、それが恋なのかと聞かれたら……そうではないとはっきり答えられる。
では、恋とはなにか――?
――わたしは…アキに何をしてあげられただろう…。
夜の冷たい空気が、火照った頬を撫でていく。駅へと続く夜道を歩きながら、手に持った小さな花束が、夜風に揺れてかすかに甘い香りを放っている。
友達が帰り際に持たせてくれた、ささやかな花束だ。
道の途中、美亞未はポケットの中でスマホを握りしめていた。
画面を点け、メッセージアプリを開く。
トーク画面の一番上にある「希亞樹」の名前。
指先が少しだけ震えているのは、寒さのせいではない。
『今日の夜、駅近くの公園でちょっと話せる?』
朝に送ったメッセージに、ようやく既読がつき、返事が来たのだ。
『わかった』
それだけの短い返信。
美亞未は小さく息を吐き出し、スマートフォンの画面を消した。
夜の公園は、昼間の賑やかさが嘘のように静まり返っていた。
街灯の淡い光が、誰もいない砂場や滑り台を寂しげに照らしている。
二つ並んでいるブランコへと近づき、片方にバッグと花束を置き、もう片方にそっと腰を下ろした。
チェーンを握る手が、鉄の冷たさでじんわりと冷えていく。
冬の夜空はいっとう綺麗だ。
砂粒のような星々が冷たい空気の上で、きらきらと輝いている。
ふぅ、と夜風を肺に取り込むと少しだけ心が落ち着いてきた。
空を仰げば、星はこんなにも輝いているのに、翳ってみえるのは何故だろう。
「ひとりって寂しいね」
時折、考えることがある。
もしリックスが自分たちの前に現れなかったらどうなっていただろうか、と。美亞未は自分の手のひらをじっと見つめる。
今まで抱き合ったり、キスをすることをしていた手だ。
希亞樹が望めば、なんでもしてあげられる。そう思っていた。
彼が向こうへ帰る前に、空港で問いかけてみた。
愛ってなに?
『愛は単純なものではない。目に見えないからこそ、愛という幻を錯覚してしまうこともある。
オレは君を愛している。この言葉に嘘偽りはないことを君は知っているだろう。この愛に名前をつけるなら、性愛が一番近いな。オレは君の中に入っていきたいし、君にオレを受け入れて欲しいと思っている。
愛は暖かいものだと思う。
隣人の温もりで暖め合うことも出来れば、自分の手を擦り合わせて暖めることも出来る。
愛は自由だ。それこそ、飛ぶ鳥のようにどこに向かって行くのか、誰の元に降りてくるのか、他者には分からない。愛にだって終わりはある。水源の水が永遠ではないように、いつか絶えてしまうものだ。
それは、星の輝きと似ていると思う。
星はいずれ消えてしまうものだ。
でも、その輝きや温もりが心に残っている者も多いだろう。愛もそれと一緒だ。愛は永遠でないからこそ美しい。
君と出会って、君を愛してやっと探し求めていた答えを見つけることが出来たよ』
美亞未は、自分の胸に手を当て、どくんどくんと脈打つ音を聞いていた。
ずっと変わらずに心の中にあるもの――。
希亞樹とキスをした時も、抱きしめ合った時も、それはずっとそこにあった。
そして、今も変わらずに。
――わたしの愛の形……。
愛とは何か、それを知った時はどうするのか。
「アキ……」
何度も呼んだ名前。
美亞未は夜空に向かって、手を伸ばす。
空は果てしなく遠い。
いつも近くにいたはずの弟は、今とても遠くにいるように感じられる。気のせいではないはずだ。
このままどんどん距離が開いてしまうのだろうか。この絆が、切れてしまうのだろうか。
そんな不安が胸に去来する。
もう、自分は希亞樹にとって必要のない人間になってしまうのだろうか。大切な弟を傷付けた挙句に、自分だけ幸せになろうというのか? それはあまりにも自分勝手で残酷な行為だ。
自分は幸せになる資格なんてない。
そんな気がしてしまう。
友人たちとの別れは寂しくはない。
リックスの別れは一時的でも、また会える。
希亞樹との別れは――。
「……姉貴」
待ちわびていた声がした。




