56 イノセント
「きあきくんは……お姉さんのことを赦せるの……?」
制服に着替え終えたシャルロリアが、ぽつりと呟いた。
二人は長椅子に座ったまま祭壇を見つめていた。
「……あのね、きあきくん」
希亞樹が答える前に、シャルロリアがまたぽつりぽつりと、降り始めた雨のように語り出す。
「ボクね……春にはドイツに帰るんだ。ほんとは後一年はいられるはずだったんだけど、色々あって……。だから……」
シャルロリアの身体が、希亞樹の身体へと凭れ掛かってきた。
「……そっか」
口から出たのは、そんな気の抜けた呟きだけだった。
問いかけられた美亞未を許せるかという重い足枷のような疑問と、春にはドイツに帰ってしまうという、決定された未来。
今の希亞樹の心には、不思議なほど境界線を作って染み込んでこない。
今の自分は、きっと一本の傘なのだと思った。
外から降り注ぐ激しい現実も、シャルロリアの切実な告白も、すべては傘に弾かれる雨のしずくみたいに、ただ表面を滑り落ちていくだけ。
空っぽの自分の中に溜まることなく、どこか遠い足元へと流れ去り、知らない間に消えていく。
「ねえ、きあきくん。ボクのフィアンセになってよ」
希亞樹の肩に頭を預けたまま、シャルロリアが小さく笑った。
その声音が少しだけ震えていることに気付いたが、希亞樹はただ、祭壇の上の薄暗い十字架を見つめ続けることしかできなかった。
「フィアンセになってくれたら、離れても一緒にいられるし、ボクはきあきくんを裏切ったりはしないよ……」
美亞未がいなければ、美亞未のことを知らなければ、シャルロリアとは愛し合えたかもしれない。その感覚は寂しいものだと思いながらも、美亞未の温もりを知ったのが偶発的なものであったとしても、そうなってしまった。
美亞未の熱は、水のようだと希亞樹は思う。
冷たい訳ではない。すべてを内包してくれる温かさが心地良かった。
平穏な夢を見ている時の様な、安心感がある。だからこそ、あの熱を手離したくはない。
しかし、今、希亞樹の隣にいるのは恋焦がれている姉ではなくシャルロリアという少女であり、希亞樹の視界には姉の姿はない。
「……キミのお姉さんと少し前に学校ですれ違ったんだ。その時に、隣に誰がいたと思う?」
「……」
「きあきくんだって、もう知っているんじゃないの? キミのお姉さんはもうきあきくんのことなんて見てないよ」
耳朶を震わせるシャルロリアの声に、希亞樹の身体が強ばっていく。
そうだ、自分は確かに知っている。
唇を噛み締めたのと同時に、希亞樹の脳裏にはリックスと美亞未が唇を合わせる姿が、フラッシュバックしていた。
学校の最寄り駅よりも手前の駅で、二人はベンチに座ってキスをしていた。
電車の中で希亞樹は、流れる景色の一瞬、まるでシャッターを切ったかのようにそのシーンだけが鮮明に見えてしまった。
あれは幻だ。
見間違いに決まっている。
そう激しく思い込みたかった。
流れる車窓のノイズが、自分の寂しさや不安と混ざり合って作り出した、質の悪い白昼夢。
そうであってくれと、心のどこかで必死に祈っている自分がいた。
美亞未が自分以外の誰かと唇を重ねるなど、あってはならない悪夢だと――。
けれど、それ以上に希亞樹を戸惑わせたのは、その瞬間に胸の奥から湧き上がってきた感情である。
裏切られたという猛烈な怒りでもなければ、胸を掻きむしりたくなるような悲愴でもない。
驚くほど、そこには激しい感情の起伏がなかったのだ。
ただ、ただ、果てしない喪失感と、冷え切った納得だけがそこにはあった。
まるで、最初から決まっていた世界の終わりを、予定通りの時刻に告げられたかのような気分であった。
どこか遠くの異国の出来事を眺めているような、他人事めいた冷徹さが頭を支配していく。
怒る資格さえ自分にはないのだと、突きつけられた気がした。
美亞未の心の中心にいたはずの自分が、いつの間にか外側へと弾き出され、ただの観客になってしまったことへの、静かな絶望と諦観。
美亞未の熱は、すべてを包み込む水のはずだった。なのに、あの雨の日に姉がリックスに捧げていた熱は、希亞樹の知らない、ひどく乾燥した別の何かに見えた。
姉のために買った花は、いつの間にか枯れていた。
「……お姉さんの心はもう別の人のだよ」
シャルロリアの指が、労るように希亞樹の手を撫でていく。
美亞未がリックスを好きならば、彼よりも自分を好きにさせればいい。
美亞未がリックスに心を奪われているなら、自分が奪い返せばいい。
そう思い続けていた。
「きあきくんは、お姉さんとどうなりたいの?」
「……え」
投げ掛けられた言葉の意味を、希亞樹は推し量ることは出来なかった。
ただふと、美亞未との触れ合いがなくなってからどれだけの時間が過ぎたのかを考えていたら、切なく寂しい気持ちでいっぱいになっていた。
「きあきくんにとって、お姉さんはなに?」
「姉貴は、俺の姉貴だよ」
酷く簡潔に答える希亞樹に、シャルロリアの双眸が揺らめく。
「ボクは、神さまのように優しくはないから、きあきくんがお姉さんがいいって思う気持ちは分からないよ」
「いいよ、それで。俺はお前に分かって欲しいとは思ってない」
希亞樹の手が、シャルロリアの腰を撫でていた。それは、無意識の行動であった。
「……そう、そっか」
希亞樹の実直な言葉に、シャルロリアは他人が決して立ち入れられない姉弟の血の深さと繋がりを感じてしまう。
勝てない――どう足掻いても、希亞樹の心には姉の姿がいる。改めてそれを突きつけられ、所詮この恋は片想いのままなのだ、と実感してしまう。
所詮、希亞樹とシャルロリアは錯覚でしか繋がれなかった。
「きあきくんは、本当にそれでいいんだ?」
念を押すように、シャルロリアが強い口調になった。
口にすることさえ憚られる禁忌を破ってさえも、希亞樹は姉を手にしようとしている。だが、その姉は弟の手を払いのけたのだ。
「キミのお姉さんはきあきくんのことを裏切ったんだよ? だから、もうきあきくんがどれだけ望んでもお姉さんは振り向いてくれない」
「俺さ……許すとか許さないじゃなくて、俺はまだ…姉貴に言いたいこといっぱいあったよ。昨日も今日も明日も明後日も、おはようって言って、おやすみって言って、これからもずっとそう言えるもんだと思ってた、ずっと一緒だって…でも、もうそれもないんだよな。姉貴のことまだ好きだぜ。でもさ、姉貴は俺のこと置いてリックスとこに行っちゃった。それが、姉貴の幸せならって思うけどさ……」
希亞樹は初めて、己の気持ちを他人に吐露した。幸せならそれでいい、と自分に言い聞かせながらも、納得出来ない部分もあった。
美亞未はリックスを選んだのだ。ならば、その選択を尊重しようと思う。それが希亞樹に出来る唯一のことであった。
シャルロリアは、静かに希亞樹の話に耳を傾けていた。
シャルロリアに本音を語れたのは、希亞樹自身も意外であった。
「きあきくんは悲しい?」
「多分……そうかも」
「そっか。じゃあ、ボクはきあきくんのために祈ってあげるよ」
両手を組んだシャルロリアが、祈りを捧げていく。
希亞樹は、その祈りの言葉に耳を傾けるが、何も入ってこない。
「……きあきくん。もし気が向いたらいつでも戻ってきていいよ。ボクは、きあきくんのこと待ってるから……」
――Caritas patiens est, benigna est...
紡がれた聞き慣れない言葉の羅列が、礼拝堂に染みこんでいく。
「……ボクは、お姉さんの気持ちがきあきくんに戻るようには祈らない」
希亞樹はわずかに眉を寄せた。
「……どうして」
「それは神さまじゃなくて、人間の欲だから」
静かな声色は、冬の空気によく似合う。
「でもね…きあきくんの悲しみが、いつか終わりますようにって。それだけは祈れるから」
『愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない。(コリント人への第一の手紙13章 04節より引用)』
希亞樹は十字架を見上げた。
愛とは何なのだろう。
奪うことなのか。
手放すことなのか。
待ち続けることなのか。
それとも、ただ誰かの幸せを願うことなのか。
答えは見つからない。
けれど今だけは、自分の中に残っているこの痛みだけが、本当に美亞未を愛している証なのだと思えた。
祈りを終えたシャルロリアが、希亞樹に微笑みかけた。シャルロリアの頬は濡れていた。
自分のために泣いてくれる子がいてくれるのは、嬉しいことだと思う。




