55 ヨシャパテの谷
家を追い出されてから一ヶ月。言い換えればホテル暮らしも一ヶ月経った。
この暮らしにも慣れ、案外悪くはないと希亞樹は思い始めていた。
全く家に帰れないわけではない。
週に何回かは父からの誘いで、家で食事をすることもあるが、その場に美亞未の姿は絶対になかった。
春に、母と離婚することになったと父から聞かされた時、希亞樹はなんと答えればいいか分からずただ押し黙ることしか出来なかった。
母はそのまま、伯母の家で暮らすようで、暫く引っ越しの準備や離婚手続きやらで忙しくなるらしい。『色々と話あったんだがなーお前たちの顔を見るのが辛いらしんだ』と、父は困ったように笑っていた。
日々はただ無常に過ぎていく。
希亞樹は自分の身体がまだ空っぽで、満たされていない気がしていた。
かつてそこにあった魂がすっぽりと抜け落ちて、今は中身のないゾンビのような自分が日々を送っている――そんな気分だった。
「きあきくんっ」
放課後のことだ。
ずっと忘れていた愛らしい声に、名前を呼ばれた。
もう終わった関係だと、シャルロリアのことを忘れていた事実に、希亞樹は後ろめたさを感じていた。
シャルロリアとの関係が、あんなにも稀薄なものだったのかと、自覚してしまうからだ。
「……なんだよ」
しかし、今こうして自分を求めてくれている存在を無視することも出来なかった。
「……ねえ、今からボクとデートしない?」
「は?」
「ほら、夏休みに約束したでしょ? ボクのお気に入りの場所に連れていくって……きあきくんずっと元気なさそうだし……」
希亞樹は一瞬、言葉を失った。
シャルロリアの笑顔は、あの日の狂おしい瞳とは違って、いつもの天真爛漫なものに戻っていた。
けれど、その笑顔の裏に、微かに残る冷たい影を、希亞樹は見逃さなかった。
「……今から?」
「うん。今から。きあきくんがイヤなら、無理にとは言わないけど……」
シャルロリアは少しだけ首を傾げて、希亞樹の顔を覗き込むようにした。その仕草は相変わらず可愛らしいのに、希亞樹の胸には複雑な感情が渦巻いていた。 怒りたい。
あの拒絶、冷たい言葉、「汚らわしい」と言われた記憶が、まだ胸の奥で燻っている。
だが――。
シャルロリアは関係ない。
結局、姉との関係を拒絶したのはシャルロリアだけではなかった。
母も、父も、友人たちも、学校の空気も、みんな同じように自分を遠ざけた。
彼女の拒絶は『普通』の反応だった。
こうしてまた何事もなく話しかけてきてくれたシャルロリアを恨むのは、ただの八つ当たりだ。
希亞樹は小さく唇を噛み、視線を逸らした。
「……いいぜ。どうせ暇だしな」
「本当!? やったー!」
シャルロリアの顔がパッと明るくなる。
その無邪気な笑顔を見ていると、夏休みの思い出がよみがえってきて、胸が少しだけ温かくなった。
同時に、姉の顔がチラついて、すぐに冷える。美亞未のことを考えてしまうと、またシャルロリアのことを忘れてしまう。
二人は並んで校門を出た。
空はすでに夜に染まり始め、吹き付ける風も夏に比べればもう冷たい。
希亞樹はふと空を見上げて、気づいた。
――冬が近い。
あの夜から、家族はバラバラになり、自分はホテル暮らし。季節が変わるのも気づかないほど、毎日を虚ろに過ごしていたのかと、自分でも驚いてしまう。
「きあきくん、寒くない?」
「……別に」
「ふふ、でも耳が赤くなってるよ?」
シャルロリアはくすくす笑いながら、希亞樹の手を握ってきた。
「あ、おいっ……!」
「寒いから! いいでしょっ!」
その指先の温かさが、意外に心地よくて、希亞樹は小さく肩をすくめた。
シャルロリアは、ただのきっかけだったのかもしれない。
本当の原因は、自分と姉の間にあった『普通じゃなかった何か』にあるのだから。
「で、どこ行くんだ?」
「秘密。きあきくんが喜びそうな場所だよ」
「ふーん」
希亞樹はシャルロリアの小さな頭を見つめながら、このまま、シャルロリアと『普通』の関係になれるのだろうか、と考えていた。
ぼんやりとアスファルトを見つめながら歩いていた希亞樹の思考は、シャルロリアの小さな手の温もりに浸食され、どこか現実味を欠いていた。
だから、その暗がりに気づくのが遅れた。
「きあきくん。足」
「ん?」
シャルロリアの足が止まったので、自然とこちらの足も止まった。
希亞樹のすぐ目の前にはいつか降った雨の残りか、夜の鈍い光を反射する水溜まりが広がっていた。
あと半歩踏み出していれば、靴ごと泥水に突っ込んでいたところだった。
「きあきくん、ぼーっとしすぎだよ」
「…あーそうだな」
シャルロリアは自分が希亞樹を救ったと言わんばかりに少し胸を張ると、足元の黒く淀んだ水面をのぞき込んだ。
「ねえ、きあきくん。ボクね、時々考えるんだ」
「なにを?」
「こういう小さな水たまりには魚はいないよね」
シャルロリアは真面目な顔をして、突飛なことを言い出した。
希亞樹は思わず、その小さな頭と水溜まりを交互に見つめてしまう。
「は? いるわけないだろ。ただの雨水だぞ? まー微生物ならいるかもな」
「うん。でもさ、同じ水なのに魚がいないのって不思議だよね」
「そりゃ、雨と一緒に魚なんか降ってきたら外歩けねえだろ」
「あは、それもそうだね! でもさ、竜巻とかで巻き上げられた魚が降ってくるニュース、ボク見たことあるもん。だからここにも、一匹くらい寂しいお魚が泳いでるかも」
大真面目に変なことを喋りだしたシャルロリアに、希亞樹は呆れを通り越して、少しだけ張り詰めていた肩の力が抜けるのを感じていた。
シャルロリアが水溜まりの縁にしゃがみ込もうとしたので、希亞樹は手を引いてそれを止めた。
「いねえよ。こんなのただの地面の凹みだ。水の中に何もないし、この水もどこにも行かない」
言いながら、希亞樹は自分の言葉が、今の自分自身に突き刺さるような錯覚を覚えた。
家族という大きな流れから切り離され、行き場を失って街の片隅に溜まっている自分。この濁った水溜まりのように、どこにも繋がっていない。
「……そうかなあ」
シャルロリアは少し寂しそうに微笑むと、希亞樹の顔を見上げた。その瞳の奥にある冷たい影は、まるでこの水溜まりの底のように深くて、覗き込んではいけないような気がした。
「少し寄り道しちゃったね。じゃあ、いこっか。ボクのお気に入りの場所」
「……あぁ」
希亞樹は自ら、シャルロリアの手を少しだけ強く握り返し、水溜まりを大きく跨いで歩き出した。
「ほら、ここだよ」
たどり着いたのは、小さな教会であった。
ステンドグラスから射し込む光が、教会内をより神秘的な雰囲気にしている。
荘厳な場所は、希亞樹には落ち着かない。
「ふーん、ここがお前のお気に入りの場所なのか」
「うん、そうだよ」
シャルロリアに手を引かれるまま、希亞樹は最前列の長椅子に腰を落ち着かせる。
「俺、こういう場所苦手だな」
「ふふ、そうなんだ」
シャルロリアは希亞樹の隣に座ると、そっと手を重ねてきた。
「お、おい…」
「こうやって、二人きりになりたかったんだ。ずっと……」
シャルロリアの細い指が、希亞樹の指を絡めていく。
「それにしたってくっつき過ぎだろう…っ」
温め合うように身を寄せられ、シャルロリアの息遣いが間近に聞こえる。
「だって、デートだもん」
「う……」
有無を言わせない瞳に見つめられて、希亞樹は言葉に詰まってしまう。
「ねえ、きあきくん」
シャルロリアの唇が耳元に近づき、甘い声が鼓膜をくすぐる。
「何だよ……」
くすぐったくて仕方ない。だが、シャルロリアの体温は不快ではなかった。
「…ボク、希亞樹くんのためならなんだってしてあげられるよ」
「は……?」
シャルロリアが何を求めているのか、希亞樹には分からなかった。
「こんなことだって…」
シャルロリアの手が、スラックス越しに希亞樹の太ももへと触れる。
「あ、おいっ…!?」
官能を呼び起こすように、シャルロリアの手が、希亞樹の肉体を撫でていく。
「きあきくんが望むならなんだって…」
熱を孕んだ声が、希亞樹の耳奥へと染み入る。
「何言ってんだよ、お前っ」
「そのままの意味だよ」
シャルロリアの唇が、希亞樹の頬に触れ、柔らかな感触が、一瞬だけ伝わる。
「きあきくん」
シャルロリアの細い腕が、甘えるように希亞樹の首に絡みついてきた。
「きあきくん、ほらボクを見て。お姉さんじゃなくて…ボクを…」
熱に浮かされた翡翠の瞳が、希亞樹を射抜いた。
「ここならさ、誰も見てないから、大丈夫だよ?」
「だ、大丈夫なわけっ……! お前が好きな神さまだってみてんだろっ!」
「ふふ、きあきくんはそんなこと気にしているの? 平気だよ、神さまならきっとボクたちを祝福してくれるから……」
「そんなわけあるかっ!」
シャルロリアの声音と体温は、希亞樹の孤独の中に容赦なく染みこんでいく。
ずっと誰にも触れられず、誰からも必要とされず、ただ泥水のように溜まっていた自分の身体を、一度は拒絶した少女が今、狂おしい程に自分を求めている。
「きあきくんはね、今は迷子になっているんだよ」
「はあ?」
シャルロリアは首に絡めた腕に僅かに力を込め、さらに距離を縮めてきた。彼女の衣服から漂う、微かに甘い、けれどどこか人工的な香りが鼻腔を突く。
「きあきくんは、ただ寂しいだけ。お姉さんに惑わされて、少し迷子になっちゃっただけだよ。ボクがね、正しい場所に連れ戻してあげる。ボクが、きあきくんの『普通』になってあげるから……」
「シャルロリア、お前……」
「ねえ、きあきくん。ボクを抱きしめて? お姉さんの名前を忘れるくらい、強く」
吸い込まれそうな瞳から、希亞樹は視線を逸らせなくなっていた。
美亞未を忘れることなんてできない。どれだけこの温もりに溺れようとしても、自分の身体の芯にある空洞は、美亞未という存在が抜け落ちた跡なのだから。
――それが出来れば、苦労なんてしてねえよ……。
「ふふ、照れてるの?」
シャルロリアの手が、希亞樹の胸へと触れ、ついにスラックスの上からまさぐるように触れてくる。
「うわっ!?」
希亞樹は咄嗟にシャルロリアの手を掴むが、シャルロリアは構わずに撫で擦ろうとしてきた。
「ボクと気持ちいいことしようよ」
「な……っ」
シャルロリアの甘い声が、理性をくすぐってくる。きっと、普通の男ならば陥落しているのだろう。
「ね、いいでしょ?」
シャルロリアは瞳を潤ませて、ぐいぐいとしつこいくらいに身を寄せてきた。
「だ、だめだって! 何言ってんだよッ…!!」
希亞樹は慌てて首を横に振り、ひとまわりもふたまわりも小さな身体を、ひとまず引き剥がした。
「……どうして?」
「ど、どうして、って、そりゃ……」
希亞樹の網膜には、美亞未の姿があった。
美亞未のことがどうしても思い浮かぶのだ。目の前にいるシャルロリアは、自分を求めているのに、希亞樹の心には美亞未しかいない。
「もしかして、お姉さんのことを考えている?」
「……」
図星である。
「大丈夫だよ」
シャルロリアはまた無遠慮にスラックスの上から、ぎゅっと握ってきた。
「おわっ!? ちょ、ちょいまて、よッ…!? というか、いきなり過ぎだろっ!?」
上手く言えないが、シャルロリアと気持ちいいことはしてはいけない気がした。
「お姉さんのことなんか、ボクが忘れさせてあげるからっ」
「だから、やめろって…」
シャルロリアと、少しばかり距離を取る。と、シャルロリアの瞳が寂しそうに揺らめいた。
「……シャルロリア?」
少し強く言い過ぎただろうか――。
「だって、きあきくんずっと元気ないから……ボクが慰めてあげないと、って思って……。そうだよね、さすがに急すぎたよね……。ごめんね…」
「お、おう……?」
何事もなかったかのようにシャルロリアは、いつもの調子で微笑を浮かべた。
「でもさ……ボクがこんなことするのは、きあきくんだけだよ……?」
二人の間に、一人分の距離が開いたまま、シャルロリアが不意に制服を脱ぎ始めたのだ。
「…!? お、いっ!?」
突然の行動に、希亞樹の声が裏返ってしまう。
ブレザーを脱ぎ、躊躇うこともなくワイシャツのボタンをすべて外して、白い布を脱ぎ捨てた。
露になったのは線の細い肢体に、慎ましい胸を隠す下着である。
「ちょっ…!? ぇ…ッ!?」
シャルロリアは腕を後ろに回して最後の砦であったそれさえも外し、希亞樹の前にすべてをさらけ出す。
「……っ、!!」
どくり、と心臓が強く脈打つ。
見てはいけない。そう思いながらも、シャルロリアという少女の持つ神秘さと美しさに、どうしても目が離せない。
シャルロリアの素肌は、まるで白磁のように美しく、教会のステンドグラスから差し込む光が、白い肌を更に艶やかに魅せていた。
そんな白さの中に、息づくように、まるでシャルロリアの羞恥を体現するかのように色づくものも確かにあった。
「ねえ、きあきくん……ボクを拒まないで……」
シャルロリアの指先が、希亞樹の手に触れ、絡みつく。
「……っ」
その指先は冷たくて、どこか震えていた。
喉がカラカラに乾き、まともな声が出ない。
脳裏では「目を逸らせ」「服を着せろ」と理性が狂ったように警鐘を鳴らしている。しかし、彼女の放つ異質なまでの美しさが、希亞樹の身体を金縛りのように縫い付け、視線を釘付けにしていた。
「ボクはただ……きあきくんに愛されたいだけなんだ」
シャルロリアはそのまま希亞樹の胸に飛び込むように抱きついてきた。
「うおっ……!?」
一瞬のことに希亞樹は反応できず、そのまま長椅子に押し倒される形になってしまう。
「おまッ……! なにすんだよ!」
「ふふ、ごめんね。でも……もう少しだけこうさせて。ね、元気でた?」
シャルロリアの甘えるような声色に、希亞樹はそれ以上何も言えなくなってしまう。
『ボクはただ……きあきくんに愛されたいだけなんだ』
先ほどのシャルロリアの言葉が、頭に響く。
愛されたい気持ちは、シャルロリアも同じなのだ。
希亞樹は美亞未から、シャルロリアは希亞樹から。
「…」
シャルロリアの熱を全身で感じながらも、希亞樹は美亞未の温もりを思い出していた。
この時でも、希亞樹の心を刺激するのは美亞未なのだ。
「……お前さ、本当に俺なんかのどこがいいわけ?」
ふと浮かんだ疑問が、そのまま声に出てしまう。
希亞樹の目はシャルロリアではなく、教会の高い天井を見つめていた。
「きあきくんは、ボクの『憧れ』なんだ」
「憧れ…?」
と、言われてもいまいちピンとこない希亞樹である。
「うん。ボクはね、きあきくんみたいになりたかったんだ」
「俺みたいに……?」
「きあきくんは、ボクの持っていないものを持っているから」
シャルロリアは顔を上げ、じっと希亞樹を見つめた。
「だから、ボクはそんなきあきくんに憧れているんだ」
「へー」
シャルロリアの言う『憧れ』がどういう感情なのか、今の希亞樹には理解しがたいものであった。
「きあきくんは……ボクのこと嫌い?」
「嫌いじゃないけどさ」
「じゃあ……好き?」
「……好きになってもいいとは思ってる」
そう言うとシャルロリアは小さく微笑んだ。
「ねえ、きあきくん……」
希亞樹の胸から、シャルロリアの温もりが離れていく。
そして、シャルロリアの手が、再び希亞樹のものへと触れた。
「わっ、なっ、なにすんだよッ……!」
「気持ちいいことしようよ」
「そ、それは……」
「それとも……やっぱりお姉さんがいいの?」
シャルロリアがぺろり、と自身の唇を舐めた。その仕草が妙に大人に見えて、希亞樹の心臓は早鐘を打ち続ける。
「う……そりゃ…姉貴は俺の特別だし…」
「いいよ、ボクをお姉さんの代わりにして……。ボクがきあきくんを『人間』にしてあげるから……」
シャルロリアの指が、じじっとスラックスのチャックを下げていき、その中へと触れてくる。
「きあきくんのして欲しいこと、教えて?」
「ねえよ…そんなの……」
希亞樹の目は、まだ履いたままのスカートを見ていた。この下にあるものが簡単に想像出来てしまうからだ。
「……じゃあさ、俺の舐めれるのかよ?」
希亞樹としては、意地悪をしたつもりだった。
「できるよ」
だが、シャルロリアは嬉しそうに笑い、頷いたものだから、希亞樹はたじろいでしまう。
「え、ま、マジかよ…っ」
「うん。でも、ボク、初めてだから上手く出来るか分からないけどね…」
迷いのない翡翠の瞳が真っ直ぐに見つめてくる。純粋すぎる熱量に、希亞樹は急激に頭が冷えていくのを感じた。
背中を伝うのは、快感ではなく冷や汗だ。
「っ、て、おい! 待て、待てって!」
本当にやりかねない――嫌な確信が、希亞樹の身体を跳ね起きさせた。
中のものを取り出そうとするシャルロリアの手を慌てて掴み、引き剥がす。そのまま大急ぎで、スラックスのチャックを引き上げる。
「な、なにやろうとしてんだよ……。今のは冗談! 冗談だから本気にするなって!」
声が裏返り、不自然に大きく教会内に響く。
悪趣味な冗談を言って、シャルロリアが引くのを期待していた。あるいは「はしたないよ」と怒って、いつものように拗ねるのを待っていた。それなのに、彼女は完全に引き金を引く覚悟をしているのだ。
シャルロリアは突き放されてもなお、表情を崩さなかった。素肌を晒したまま、ゆっくりと首を振る。
「ボクは、本気にしたいよ。きあきくんが、お姉さんの代わりでもボクを一瞬でも求めてくれるなら、ボクはそれを本物にしたい。冗談なんかで終わらせたくないよ」
シャルロリアが再び希亞樹の膝へと這い寄ってきた。衣服を介さない生肌の、どこかひんやりとした、けれど内側に確かな熱を孕んだ感触が希亞樹の太ももに伝わる。
「お姉さんじゃ、きあきくんを『普通』にはしてくれない。だって、あの人はきあきくんを壊しちゃう人だもん。ボクなら、きあきくんを元に戻してあげられる。だから、本気にしてよ……」
すがり付くようなその言葉は、優しさのようでいて、呪いのようにも聞こえた。
「……お前、俺を普通に戻したいって言うけどさ」
半裸の姿をずっと目にしているわけにもいかず、希亞樹はシャルロリアの小さな身体をとりあえず抱きしめていた。
希亞樹は掠れた声で呟いた。
「俺は、最初から普通じゃないんだよ。姉貴のことが頭から離れない時点で、もう手遅れなんだ。お前がそんなに傷つく必要も頑張る必要もない」
「手遅れなんかじゃないよ。ボクが、上書きしてあげる。きあきくんの中に残ってるお姉さんの足跡を、全部ボクが消してあげるから……これは、裁きだから」
ステンドグラスから零れる冷たい月光が、二人の影を教会の床に長く引き延ばしていた。
「……」
目の前でなりふり構わず自分を「普通」に引き戻そうとする少女の姿は、滑稽で、痛々しくて、そして――かつて美亞未に拒絶され、世界から切り離された自分の姿にも見えた。
希亞樹は長椅子の上に散らばっていた彼女のワイシャツを拾い上げ、その細い肩にそっと掛けた。教会の冷気が、彼女の露出した肌を容赦なく冷やしていくのが分かったからだ。
「服、着ろよ。風邪ひくぞ」
それが、振り絞った言葉だった。




