54 過ぎ去る時間
その日は雨であった。
灰色の空から降り注ぐ雨粒が、電車の窓を同じリズムでずっと叩いている。
美亞未は吊り革に掴まりながら、ぼんやりと薄暗い外の景色を眺めていた。
一週間ぶりの登校。
体調不良という名目で休んでいたが、本当はただ、家にいたくなかっただけだ。
「……美亞未?」
聞き慣れた声がすぐ後ろから聞こえてくる。
いつものように表情は冷静だが、瞳の奥に心配の色が浮かんでいる。
「あ、おはよー」
「……風邪と聞いていたが…まだ顔色が悪いな」
「そうかな……ちょっと寝不足と気圧かも。あ、でも咳とかはないし、大丈夫だよっ!」
美亞未は曖昧に微笑んで誤魔化してみせた。自分が上手く笑えていると思いたかった。
実際は、毎晩のように希亞樹の顔が浮かんで、罪悪感と後悔で胸が締め付けられていた。
母の激昂した声、父の気まずい視線、部屋の外で聞こえる家族の息遣い――すべてが重くのしかかっていた。
リックスは美亞未の横に並び、吊り革に掴まった。
車内は混んでいて、二人の肩が自然と触れ合う距離になる。
「なんかさあ…ずっと家にいると、息苦しくて……。学校に来た方が、頭が切り替わるかなって」
あはは、と笑いながら小さく息を吐き出す。
リックスの存在は確かに安らぎを与えてくれる。同時に「自分が弟を裏切っている」という事実に直面させる鏡でもあった。
「……なにかあったか?」
耳元で囁かれた声に、彼に隠し事は出来ないと悟ってしまう。
「あの……それは……」
「次で降りよう」
「え」
「久しぶりにサボるのもいいだろう」
次の駅で降りた二人は、改札には向かわずにベンチへと腰を下ろした。 雨音が屋根を叩く音が、二人だけの空間を包み込む。
「……リックスくん、ごめん。迷惑かけちゃったね」
美亞未は膝の上で指を組み、俯いたまま呟いた。
「迷惑じゃないさ。君が話したくなければ聞かないが……家で何かあったのか? ただの体調不良、というわけでもないだろう」
一週間、家に閉じこもっていた間のことを、誰にも話せずにいた。いや、話せるわけもなかった。
「あの…わたし…アキと……」
「知ってるよ」
あっさりと返ってきた言葉に、美亞未は目を瞬かせる。
「え……?」
「雰囲気で分かる」
「え、そ、そうなのっ!?」
瞬間的に、顔が熱くなっていき、美亞未は羞恥に両手で顔を覆った。
「き、気を付けるね……」
「で、話はそれだけか」
「え、う、うん…」
リックスの淡白な反応に、美亞未はどこか拍子抜けしてしまう。
「…なにも、言ってくれないの?」
「なにを言って欲しいんだ?」
「え……」
リックスの返しに、美亞未は言葉を詰まらせてしまう。
なにを言って欲しいのか、自分でも分からないのだ。
責めて欲しいのか、慰めて欲しいのか――。
「君はアイツとの関係を、オレに話してどうしたいんだ?」
「っ、それは、だから、わたしはリックスくんのこと…ごめん…」
「オレのことを振るなら放っておけばいい。オレとの思い出はなかったことにすればいい。だが、君は現にオレの隣にいる。……君はオレに、どうしてほしいんだ?」
「……っ」
捲し立てられ、美亞未は俯いてしまう。
どうしたい?
どうしてほしい?
自問自答を繰り返すが、答えは見つからない。
ただ、頼れるのがリックスしかいないと思ったから、こうして希亞樹とのことを打ち明けたのだ。
「ご……ごめんっ、ごめんなさい……」
なにも言えずに、ただ謝ることしか出来なかった。
そんな美亞未の様子に、リックスは小さく息を吐く。
「…君が謝る必要はない。元はといえば、オレが君たちの間に横入りしてきたようなものだ。君は誰に対して罪悪感を抱いているんだ? アイツと、そうなることを望んだ時、覚悟は出来ていたんだろう。何もかもを捨てて、アイツだけを選ぶ覚悟が……」
「それは……」
リックスの言う覚悟が出来ていたのか、と問われれば、答えはノーだ。
戸惑いや葛藤がなかったわけではない。
希亞樹のあの強い眼差しに見つめられ、希亞樹の熱い手に触れられて、切なくなる程の愛撫に、希亞樹が自分だけを求めてくれることが嬉しかった。
今なら希亞樹のことを繋ぎ止めておける――。
けれども、そんな自分の浅はかな考えを恥じたのも確かだ。
美亞未は、希亞樹に全てを捧げる覚悟を決めていたわけではなかったのだから。あの瞬間、リックスのことを忘れてしまったのも確かだ。
ただ、希亞樹の熱と己の欲に浮かされて、流されていただけなのだから。
「わたし、最低だ……。みんなこと傷付けた……。母さんも父さんもアキもあなたも……母さんはショックで倒れて……。父さんは優しくしてくれるけど、本当は叱られた方が良かったのかもしれない」
あの日の夜――。
シャワーを終え、リビングに戻ってきた美亞未の目に映ったのは、項垂れる母の姿であった。
泣きながら、こんな子に育てた覚えはない、情けない子だと、どうして、なぜ、と母が声を荒らげていた。
戻って来た美亞未の姿を見るなり、母は包丁を取り出して、刺そうとしてきた。それを止めに入った父は、手を切り、怪我を負ってしまった。
リビングが血で汚れて、美亞未は膝から崩れ落ちた。恐怖からではない。自分の浅はかな行動が、優しかった両親を傷付け壊してしまったことに、ただただ絶望した。
母は伯母の家で暫く静養することとなった。
自分を責める気持ちと、罪悪感で押し潰されそうだった。
家族だけではない。
暫くは家にいるように父に言われた。
誰も美亞未のことを、叱るものはいなかった。
むしろ、美亞未のことを心配してくれていた。
だが、その優しさはかえって美亞未には苦痛でしかなかった。一昨日は病院にも行き、念の為と、薬も処方された。こんな疲弊しきった心に、リックスの存在は美亞未にとっては救いの手に見えた。
「……君たちの関係が公になればどうなるか、想像は出来たはずだ。オレは、君に忠告したはずだ。向かうのは地獄だと――……」
美亞未は、何も言い返せなかった。
リックスの言う通りだ。
自分たちの関係は、決して肯定されるべきものでない、と、再三の忠告は受けていた。
後悔しても遅い。もう引き返すことは出来ないのだ。
「君は、こうしてオレに包み隠さずに打ち明けてくれた。それは、君の心はオレにあるということだろう?」
「……」
沈黙。
「…オレと弟、どっちが気持ちよかった?」
俯き押し黙る美亞未に、リックスが唐突に聞いてきた。
「……えっ……」
「弟とのセックスは良かったか?」
「……な、なに言って」
「同じ男として、知っておくべきだろう。…正直に言うと、オレはアイツに強く嫉妬している。君の心をまだ離さないアイツに…オレはアイツに負けたくない」
「わ、わたしのこと……まだ好きでいてくれるの? わたしはリックスくんのこと裏切ったのに……」
「君のことを諦めるつもりはない。前も言ったが、オレはそんな君だから好きになったんだ。オレは君を裏切らない。美亞未がオレを求めてくれるなら、何だってするさ」
「……リックス、くん」
美亞未の目には、いつの間にか涙が溜まっていたが、それを流すまいと必死に堪えていた。
「どうして、そこまで言ってくれるの……?」
美亞未の問いに、リックスは柔らかく微笑む。
「君が好きだから」
シンプルな答えだった。
「っ、!」
リックスの声音があまりにも優しくて、美亞未の胸が酷く締め付けられていく。
希亞樹との関係を知った上で、リックスは美亞未を理解し、愛しているのだと言ってくれた。
――わたしはどこまでも最低でイヤな人間だ……。
希亞樹とリックスには誠実でありたいと思うのに、現実はその真逆だ。生真面目な美亞未には、そのギャップで自己嫌悪に陥るには充分である。
リックスの優しさとは対照的に、自分がひどく汚い人間に思えて仕方がなかったのだ。
「でも、わたしは何もしてあげられないよ…きっと…」
「そんなことない。美亞未…またあの時のように、好きだと言ってくれないか?」
「それは……」
美亞未はまた、リックスから視線を外してしまう。
希亞樹を裏切って、リックスを裏切り、また希亞樹を裏切る――。
「今は…出来ない…。ごめん、でも、許してほしい」
美亞未は頭を下げた。
どうか、自分がしてしまった愚かな行為を許して欲しいと懇願する。
それが、今の美亞未が出来る精一杯である。
「…やめてくれ。オレは君にそんなことをさせたい訳じゃないんだ。…それに、本当に謝るべきなのはオレじゃないだろう。それは、君が一番良く理解しているんじゃないか?」
「…」
美亞未はゆっくりと、顔を上げる。頬は涙で濡れていた。
「……リックスくんの目がみたい」
何度も見ているリックスの瞳であるのに、なぜこんなにも綺麗だと思ってしまうのだろう。
青い瞳は、希亞樹のそれとは違う。
リックスの青色は、とても深くて静かに揺らめく炎のようだ。
それが、美亞未には、魅力的にも思えたのだ。
雨の音を聞くと、あの日のことを思い出してしまい、身体が熱くなっていく。
リックスの指先が、耳に触れ、首筋をなぞり、肩へと触れる。
「っ……ン…」
思わず、声が漏れてしまう。期待するように、キュッと腹の奥底が熱くなっていく。
「許されるなら…傷ついた君をたっぷりと愛してあげたいが…今はこれで我慢してくれ」
唇が重なる。
「ん……」
ちゅっ、とリップ音を響かせて、唇が離れていった。
心地良くももどかしいキス。もっと深くまで触れて欲しかった。あの雨の日以来、美亞未は身体が切なく疼くのを感じていた。
リックスからされたように、彼の指の感触や動きを思い出しながら、自分で慰めてみたが、うまくあの時のような頂きを感じることが出来ずもどかしさだけが募っている。
しっとりと濡れていく感覚は、美亞未を大いに煽っていく。
もっと触って欲しい。
そんな欲求ばかりが込み上げてくるのだ。
リックスがキスをしてくれたのに、身体も心もまだ足りないと訴えている。
もっと触れたい、キスをして欲しいと思ってしまう自分に、酷く嫌悪した。
けれども、そんな美亞未の気持ちを見透かすように、リックスは優しく名前を呼ぶだけだ。
「リックスくん……あの…」
まだ求めたい気持ちはあったけれど、美亞未の耳に聞こえるのは、希亞樹が自分を呼ぶ声だった。
「少し、長話をし過ぎたな、どうする? 何か食べていくか?」
「うん。…ありがとう。でも、今日はさすがに学校行くよ…友達も心配してるだろうし…」
「君の助けになるなら、オレは何も惜しまないさ」
ホームに電車が入ってくる。
名残惜しそうに、互いの指が絡み合う。
わずかな時間でも、感情の溢れるままに温もりを分け合っていく。
「リックスくんはサボるの?」
「ああ。もうサボりの気分だからな」
最後に美亞未は、リックスの手を頬へと寄せ、温もりを忘れないようにしてから、手を離した。
「……君はズルいな」
「ふふ……ごめんね?」
リックスは、いつものクールな表情で言う。それがどことなく可愛らしく思えて、美亞未も笑みを返し、電車へと駆け込んでいった。




