52 失楽園
「あなたって子は…ッ! ほんとに……っ!!」
母の手が希亞樹の肩を掴み、美亞未から引き離した。
そのまま平手を希亞樹の頬へ打ち付けようとした刹那、美亞未の叫びが空間を震わせた。
「待ってっ!!」
美亞未は咄嗟に、母と希亞樹の間に身体を割り込ませ、希亞樹を庇うようにして両手を広げた。
「母さん、違うのっ……!」
「何が違うって言うのよっ!? あんた達今なにをしているのか分かってるのッ…!? もう子どもじゃないのよっ……!!」
母の目には、怒りとも悲しみともつかない感情が滲んでいるように見えた。
「母さん…っ、ごめ、ごめんなさい……っ」
希亞樹はあまりにも突然のことに何も言えず、ただ呆然と姉の背中と母を交互に見やることしか出来なかった。
「あきは…希亞樹はなにも悪くないの…っ! 全部わたしが悪いの!」
美亞未は希亞樹の前から退かずに、母を見上げる。
「だから、アキを叱らないでッ…! 怒るのも叩くのも全部わたしにして……ッ!!」
美亞未が必死に母に訴えかけている。
「…あ、姉貴」
そんな姉の姿に、希亞樹はようやく声を絞り出すことが出来た。
シャルロリアの時以上にまずいことになっていると、流石の希亞樹でも知覚するが、何を言っていいのか分からないでいた。
「ミミ…っ! あんたは何を言ってるのよッ……!!」
美亞未の態度に、母の怒りと悲しみが増して声が荒くなっていく。
「どうしてそんな子に……あんな…ミミが…誰よりもいい子だったのに……」
母の目からは、ボロボロと涙が零れ落ちていった。
大人たちは、始まりは希亞樹からだと思い込んでいた。だから、姉が弟を庇ったことで、それが間違いであったと気付くのだ。
そうなってしまった事情を、認めることは出来ない。
そして、母の腕がもう一度振り上がったのを、希亞樹は見た。
だが振りあがった腕が降ろされることはなかった。騒ぎを聞きつけた父が、母の腕を掴んでいた。
「……今はやめるんだ」
「でも、あなたっ…!」
「いいから」
父は取り乱す母を落ち着かせながら、姉弟の方を一瞥した。
「とりあえず、美亞未はシャワーを浴びて…リビングで少し話を聞くよ。希亞樹は……今日はもう寝るんだ。自分の部屋でな?」
「あ、うん…分かった…おやすみ…」
母と違い、父の声音はいつもと変わらないものであった。穏やかでどこか呑気さを感じる声色。
父の言葉に、希亞樹は素直に頷いていた。
母を支えながら父は、姉の部屋を後にしていく。
「……ごめん」
父の後に続くように、美亞未も半裸のまま希亞樹の元から去って行く。部屋を後にする際に、小さく謝罪の言葉を漏らした美亞未の声は、希亞樹の耳にははっきりと届いていた。
「あ、……」
去って行く姉の背に手を伸ばすが、パタン、と静かにドアが閉められる音だけが返ってきた。
嵐が過ぎ去った。
一人取り残された希亞樹は、半ば放心状態のままベッドの上で仰向けになり、天井を見上げた。
「なんか、全部夢みたいだ……」
美亞未とあんなことをしたのも、両親に見られたのも、何もかもが現実味を帯びていない夢の中の出来事だったように思えた。
だが……希亞樹の体には確かな感覚が残っている。
美亞未の温かさも、柔らかな肌の感触も全てはっきりと残っている。
だから、夢ではなく現実なのだ。
美亞未との行為は、希亞樹にとってはまさに特別なものであった。
それが、悪いことなのだろうか。
母の激昂に、姉の謝罪、父はどこか気まずそうにしていたのが、希亞樹にはすべてが理解が出来なかった。
――好きだから…。姉貴のこと全部知りたい…それがいけないことなのか?
いくら考えても、答えは出なかった。
「…またしてえな」
ぽつりと呟く。
夢のような出来事を思い返すと、また勃然としてくるのを感じた。
「…」
希亞樹はそっと、自身のものに手を添える。
「姉貴…」
希亞樹は美亞未の感触を思い出しながら、自慰にふける。
「……姉貴っ……!」
そして、あっという間に果ててしまった。
「はぁ……」
疲労感に、希亞樹は大きく息を吐く。
美亞未のベッドの上で自慰をしてしまったから、このまま怒られるだろうか、と思う。今は、叱られたい気分であった。
「……寝よ」
考えるだけ無駄だと自分に言い聞かせ、希亞樹は気怠い身体を起こして、自室へと戻る。
朝が来れば、またいつもの日常になる、希亞樹はそう思い、瞼を閉じた。
「…希亞樹。悪いんだが、一週間…いや、暫くはホテルで寝泊まりしてくれないか?」
「……え」
朝。いつものように着替えて朝食を食べに階下へ降りると、そこに母の姿もなく、テーブルの上は空っぽであった。
父は、朝の挨拶もなく、開口一番にそんなことを告げてきた。
「今日は、学校は休んでいい。先生にはもう連絡してある。ああ、お金のことは心配するな。とりあえず着替えとかの準備をしてくれ」
「ホテル泊まりは別にいいけどさー母ちゃんは?」
美亞未はリビングのソファに座ったまま、俯いている。テレビは付けっぱなしで、今は明るいコマーシャルが流れていた。
「……姉貴は大丈夫なのか?」
美亞未は俯いたまま、こちらを一瞥することもしない。
父は、横目で美亞未を一瞬だけ捉え、また希亞樹へと向き直る。
「母さんは…ま、まあ心配するなっ! 美亞未も今日は学校は休むから、希亞樹はなにもしなくていい」
「…? なんだよそれ…なんか俺だけ仲間外れ…って、父ちゃんケガしたのか?」
父の左手に包帯が巻いてあることに気づき、何気なく問うた。昨日はなかった筈だ。
「あ、ああ…。ちょっと朝食を用意しようとして失敗してな……。絆創膏がなかったから応急処置だよ。たいしたケガじゃないんだがな…はは、心配してくれてありがとうな」
「ふーん」
父は気まずそうに笑うと、希亞樹の肩を押し、リビングから階段へと移動させる。
「…母ちゃんに謝った方がいい?」
昨日の母の怒り方は、尋常ではなかった。あの様に声を荒らげ、感情を剥き出しにしている姿は、生理的な恐怖を抱いてしまう。それと同時に、あの瞬間の母は、マンガやゲームに出てくるような『倒すべき敵』にも見えてしまった。
美亞未が庇ってくれていなければあの手は、自分を叩いていただろう。
あの後、代わりに美亞未が叱られ叩かれたのだろうか、と考えると、美亞未にも謝らなければと思うのだ。
「……希亞樹一つだけ覚えていてくれ。父さんも母さんも、二人のことを嫌いになったわけじゃないんだ……。ただ、少し…そうだな。考える時間が必要なんだよ」
「……?」
父の言葉の意味は分からなかった。
「ああ、そうだ。制服や充電器なんかは忘れずに持っていくんだぞ」
「んー」
父に促され、希亞樹はまた自室へと戻り、泊まりに必要な荷物をまとめていく。
父と母の様子に疑問を抱きつつも、今すべき事を淡々とこなしていく。
「じゃ、行ってくる」
「ああ、気をつけてな」
見送りは父だけであった。
「……姉貴は?」
美亞未の事が気になって、仕方がない。
「美亞未はまだ……そっとしておいてあげてくれないか」
「……わかった。じゃあ、行くな」
父の言う事を素直に聞き、そのまま家を出た。
「気をつけてな」
父はもう一度だけ、希亞樹にそう声をかけた。




