49 『愛』の形
リックスと会うことに対して、罪悪感がないわけではなかった。
リックスから送られてくる短いメッセージに、どうしても胸の高鳴りを抑えることが出来ない。朝の通学時間、昼休みのちょっとしたメッセージのやり取り、放課後の図書館で二人きりの時間――。
春先のちょっとした出会いの頃とは違う、確かな湿度がそこにはあった。
これが本当の恋なのか、それともただの自己嫌悪の鼓動なのか、美亞未に区別はつかなかった。
放課後の生徒会室に、美亞未とリックスの姿はあった。
生徒会室の窓からは、橙色の夕陽が斜めに差し込んでいる。机の上に広げられた書類の山と、端正に並べられたペン立てが、静かな室内をより現実的に見せていた。
美亞未は書記の席で、文化祭の出店名簿をチェックしながら、時折ペンを止めては小さく息を吐いた。隣の席で待っているリックスが、静かに本を捲る姿が、妙に絵になっていた。
「……ごめん、もう少し時間かかりそうだし、先に帰っていてもいいよ」
「待ってるさ。それにもうすぐ読み終わる」
リックスは穏やかな声で答え、ページを捲る音を立てた。
流れる時間は、とても穏やかだ。
「そう? なんかいつも待っててもらってる気がするなあ」
待ち合わせより数十分早く居るのは、おそらく彼の性格からなのだろう。
美亞未はペンを置いて、軽く首を回した。
「はあ〜ちょっと休憩〜」
夕陽が部屋を橙色に染め、埃の舞う光の筋がゆっくりと揺れている。その中に、リックスの横顔が浮かび上がっていた。
「オレはこうして君といる時間が好きなんだ」
「え、あ、ありがとう…」
照れくさくなる言葉には、まだ慣れずに、美亞未はつい目を逸らしてしまう。
「なんかリックスくんといると時間がすごく早く感じる…。ああ…でもそれって、現実から逃げてるってことなのかあ……」
美亞未の声は小さく、ほとんど独り言に近かった。
指先で紙の端を何度も折り曲げては伸ばす。何をしていても落ち着かない。
胸の奥では、希亞樹の顔がチラチラと浮かんでは消えていく。あの寂しげな背中、最近ますます無口になった弟の存在がどうしても気掛かりであった。
弟を拒絶したのは『正しいこと』だと思いたかった。家族として、きょうだいとして、線を引かなければいけないと自分に言い聞かせた。
その『正しさ』の裏側には、リックスがいる。
「まだ、弟のことが気になるのか?」
リックスは少しだけ目を細め、本を閉じ、身体をこちらに向けた。
「……気になる、っていうか……」
幼い頃からずっと隣にいた弟が、今は遠い存在になっている。
「なんだかアキが……可哀想で……」
言葉にした途端、胸の奥がぎゅっと締め付けられた。
『正しさ』の反対側に追いやったのは、誰でもない自分だ。だが、その手を取って『こちら側』に連れて来ることは出来なかった。
「可哀想、か。……君はいつもそうだな。自分のことより、まず弟のことを考える」
「当たり前でしょ、だって家族だもん……。わたしが変なことしたせいで、アキがあんなに苦しんでる」
「君が『変なこと』をしているんじゃない。君はただ、愛されているだけだ」
リックスは低く、しかしはっきりと言った。
「愛、かあ……」
「それが弟からの愛であれ、オレからの愛であれ、愛されることに罪はない」
美亞未は目を伏せた。
リックスの言葉はいつも綺麗で、論理的で、耳に心地よい。
「ねえ、リックスくん」
「ん?」
「わたし……本当に、ひどいよね」
美亞未も紙束から目を離し、ようやくリックスの方を向いた。
「アキのこと裏切って、こうしてリックスくんと会ってる。家に帰ればまた、壁一枚隔てた部屋で息を潜めて……アキの『普通』を壊したのは自分なのに……最低だよ、わたし」
リックスは腕を組んで美亞未を見つめた。その青い瞳は、いつものように冷たくも温かくも見える、不思議な透明感を帯びている。
「最低だと思うなら、やめればいい。オレは君を無理に引き止める気はないよ。どうしたいかは、君が決めてくれ。君の選択をオレは否定しない」
「……またそんなこと言って」
美亞未は小さく笑った。笑うしかなかった。
リックスは立ち上がり、ゆっくりと美亞未の後ろに回り込んだ。肩にそっと両手を置かれた。その手のひらの重みと温かさに、美亞未の身体がわずかに強張った。
「少し……凝ってるな。君は今、選択を迫られているんだ。弟とのこれまでの『普通』か、オレとのこれからの『普通』か」
頭上から降り注ぐ声は、とても優しい。
「…そうだね」
「君が痛みを感じているのなら、君はまだ『正しい人間』である証拠だよ。……美亞未、オレも少し考えてみたんだが…君たちの関係は……」
リックスはそこで一度言葉を切り、美亞未の髪に顔を寄せた。柔らかい髪の匂いを吸い込むように息を吸う。
「……君たちの関係は、どこか母と子のようだな、と」
耳元で囁かれたその言葉に、美亞未の身体が小さく跳ねた。
母と、子。
あまりにも予想外で、けれど妙に腑に落ちてしまう奇妙な響きに、思考が一時停止する。
「母と、子……? 一つしか離れてないのに?」
「形の上ではね」
リックスは肩に置いた手にわずかに力を込め、凝りを解しながら、諭すように言葉を紡いだ。
その声には、どこか神父が迷える羊に真理を説くような、仄暗い厳かさが混じっている。
「キリスト教におけるマリアとキリスト、あるいは仏教における母性的な慈悲の概念のようなものだ。幼い頃から、君は彼にとっての世界のすべてであり、無条件の救いだったはずだ。心理学で言うエディプス・コンプレックスの変形かもしれないが、哲学的に見れば、弟にとっての君は大いなる母そのものなんだよ」
「はあ……何を言われているのかさっぱりで……」
美亞未はスマホを取り出して、さっき聞いたばかりの単語の意味を調べていく。
「母親という存在は、子供に命を与え、育む聖なるものであると同時に、時にその成長を拒み、自らの中に閉じ込めようとする母の闇も併せ持つ。弟――希亞樹が今、それほどまでに苦しんでいるのは、君という母なる神から拒絶され、楽園から追放されたからだ。彼は今、精神的な孤児として、世界に放り出されている状態のようなものだ」
リックスの言う通りだとしたら、自分が線を引いた行為は、単なるきょうだいの喧嘩などではない。一人の人間の世界を崩壊させたのだ。
「そう。だから君が覚えている罪悪感は、倫理的な裏切りに対するものじゃない。絶対的な救済者であるべき母が、我が子を見捨ててしまったという、根源的な神殺しの罪悪感だ。……美亞未」
リックスの長い指先が、美亞未の強張った頬をそっと撫でる。
「子供が親から離れ、自らの足で歩むためには、いつか必ず母殺しの儀式が必要になる。あるいは、母の側から残酷に突き放さなければならない。原罪を背負わなければ、人間は楽園を出て知性を得ることはできなかった。君のした拒絶は、アイツが一人の自立した男になるための、避けて通れない通過儀礼さ」
「イニシ……?」
「君がその痛みに耐えかねて、また彼を抱きしめてしまえば、彼は一生、君という母の胎内から抜け出せない。それは救いではなく、共依存という名の甘美な地獄だ」
「地獄……」
リックスの言葉は、美亞未の胸に深く、深く突き刺さる。何を言われているのか、殆ど理解は出来なかったが、彼といると、自分が犯した最低な裏切りすらも、世界の心理に基づいた高尚な選択であるかのように錯覚してしまう。
希亞樹を傷つけた免罪符を、リックスは洗練された哲学の言葉で、今まさに美亞未に授けようとしていた。
「だから、そう自分を責めるな。君は今、彼を息子から一人の男へ、そして自分を母から一人の女へと変革させる、大いなる痛みの最中にいるだけなんだ」
見上げたリックスの顔は、あまりにも美しく、そしてどこか冷徹な神のようだった。
美亞未は、リックスの手の温もりにすがるように、ゆっくりと瞳を閉じた。
頭の奥で、希亞樹の泣きそうな顔が、聞いたこともない教会の鐘の音にかき消されていくような気がした。




