48 空気
夏休みはあっという間に、過ぎ去っていった。
二学期が始まり、教室に顔を出すと、シャルロリアは希亞樹の隣から離れていた。あんなにくっ付けていた机は元に戻され、教室のほぼ中央へと移動した彼女の背中は、いつもよりひどく冷たく見えた。
教室では、もう誰も「シャルちゃんと希亞樹どうなった?」などと詮索するものはいない。
噂は、夏休み中に妙な形で広がっていたらしい。
「なんかヤバい空気になったらしいぞ」「羽衣、姉貴がどうとか言ってただろ?」という、半分冗談めかした、しかし確実に距離を置くような空気。
家でも、状況は同じだった。
美亞未と希亞樹の会話は、ほぼ完全に途絶えていた。
「おはよう」も「おやすみ」もなく、ただ家にいるだけの隣人のような存在――。
目が合っても、美亞未はすぐに視線を逸らす。希亞樹も、もう無理に話しかけようとはしなかった。
夜、壁一枚隔てた部屋から感じる姉の僅かな息遣いを聞きながら、希亞樹は天井を見つめてるだけの日々が続く。
――姉貴、俺のこと、もう嫌いになったのかな……。
そんな疑問すら、口に出す勇気はなかった。
出せば、きっと取り返しのつかない言葉が返ってくる気がしたからだ。
美亞未との間にあった確かな温もりが、静かに、だが確実に手のひらから離れていく。
そんな鬱屈した休日の午後のこと。
希亞樹はリビングのソファに沈むように座り、ぼんやりとテレビを眺めていた。
特に見たい番組があるわけでもない。ただ、部屋に一人でいるのも退屈で、スマホで動画を見るのも飽きたので、ちょっとした気分転換のようなものだった。
「おー希亞樹。こっちに顔を出すなんて珍しいな」
上から父の声が降ってくる。
「んーまあ…たまにはテレビの気分もあるんだよ」
適当なことを言いながら、テレビからは目を離さない。
「そうか。…ところで、希亞樹少し痩せたか?」
「別に。普通だよ」
「んーそうか? 夏バテなんじゃないか?」
父特有のどこか呑気ながらも鋭い視線が、希亞樹に注がれていく。
「母さんも、お前が元気なさそうだって心配してたぞ。希亞樹の元気がないと、家の中が暗くなるからなあ」
「夏バテつうか、最近眠れないんだよな…」
「そうか。なら、また一緒に釣りでもどうだ? 疲れたらぐっすり眠れるだろう」
「行くわけねえだろ……」
テレビの画面では、バラエティ番組のタレントたちが大声で笑っている。
その賑やかさが、今の希亞樹の孤独をいっそう際立たせていた。
「…そうかあ。まあ無理には誘わないがな」
そうか、が口癖になりつつある父の呑気な誘いを突っぱねると、リビングに少しだけ気まずい沈黙が流れた。
その間も、テレビの中のタレントたちは相変わらず大爆笑を続けている。その笑い声がひどく耳障りで、希亞樹はリモコンを手に取り、ボリュームを二段階下げた。
父の気配が離れていく。
冷蔵庫を開けた音と共に、コップに注ぐ氷の音が、カランと静かに響いた。
「そういえば、シャルロリアさんとはどうなんだ?」
カラン、ともう一度氷が鳴る。麦茶を注ぐ音が重なり、リビングに冷ややかな現実が戻ってきた。
「どうもなにも…なんもねえよ」
なるべく平坦な声を絞り出す。今はもう友達だと説明する気もない。
「ん~そうなのかあ? まぁ、プライベートなことだからな。あまり首を突っ込むようなことはしないがな……美亞未は夏の間に彼氏が出来たのか、今日も出掛けていったなあ……」
父の言葉は、本当に何気ないものであった。
「……え?」
下げたはずのテレビの音が、一瞬で耳から消え去った。
希亞樹の身体が、ソファのクッションに深く沈んだまま硬直する。
「ん、知らなかったのか? まあお前たち最近話してるの見ないからなあ……ほら、近頃はよくお洒落して出掛けてるだろ。さっき、嬉しそうにスマホ見ながら出て行ったぞ。相手の子が誰かは教えてくれんが、まぁ、年頃の娘だからなあ」
父は麦茶の入ったコップを片手に、ははといつも通り呑気に笑った。
その笑い声が、今の希亞樹にはひどく遠く、そして酷薄なものに見えた。
美亞未に、彼氏。
頭の芯が、冷たい氷水をぶっかけられたように急速に冷えていく。
ここ最近は、美亞未との会話は途絶えていた。目が合えば逸らされ、拒絶され、まるで透明な壁で隔てられたような日々。
てっきり、あの「シャルロリアとの噂」や、姉弟の間に生じた歪みのせいで、彼女も苦しんでいるのだとばかり思っていた。
――なんだよ、それ……。俺のこと無視してるくせに、姉貴は他の誰かと笑ってたのかよ……。
「……姉貴に彼氏なんて気のせいだろ」
喉の奥から、辛うじてそれだけの言葉をひねり出した。
声が震えていないか、それだけが心配だった。
「お、なんだ。美亞未に先を越されて悔しいのか? 希亞樹も頑張れよー」
「だから、何もないって言ってるだろっ!」
思わず声が尖る。
父は「おっと、すまない」と両手を軽く挙げておどけてみせ「じゃあ、書斎に戻るからな」とリビングを後にした。
再び訪れた静寂の中で、テレビの中のタレントたちは相変わらず無邪気に笑い転げていた。
希亞樹はリモコンを掴み、今度は電源ボタンを強く押し込んだ。
画面が暗転し、リビングに完全な沈黙が訪れる。
胸の奥から湧き上がってくるのは、激しい焦燥感と、やり場のない嫉妬、そして——底知れない恐怖だった。
美亞未が遠くへ行ってしまう。
あの優しかった姉の温もりが、自分ではない「誰か」のものになっていく。
気がつけば、希亞樹はポケットからスマホを取り出していた。
履歴を開く。
一番上にある「美亞未」の名前。
最後にまともなメッセージをやり取りしたのは、もう一ヶ月以上も前のことだ。
液晶画面を見つめる希亞樹の指先は、微かに震えていた。
胸のざわつきを抑えきれず、スマホをソファに放り出すと、勢いよく立ち上がった。
そのまま廊下へ向かい、先ほど閉まったばかりの父の書斎のドアをノックもせずに開ける。
「なあ」
「お、なんだ希亞樹。やっぱり釣りに行く気になったか?」
デスクの椅子をくるりと回転させ、父が振り返る。
希亞樹はドアノブを握ったまま、胸の奥に引きずり込まれそうな重い問いを、そのまま口にした。
「……普通って、なんだ」
「ん? なんだいきなり。哲学か?」
「そうじゃなくて……。さっき、姉貴に彼氏ができたかもって時『年頃の娘だから当たり前だ』みたいに言っただろ。学校でも、家でも、みんな『普通はこうだ』とか『普通あんなこと言わない』とかさ……。そもそも、その『普通』ってなんなんだよって気になって」
シャルロリアからの拒絶に、教室に出来た腫れ物に触るような空気。そして、自分を避けて外へ行ってしまう姉。
周りのすべてが狂っていくような感覚の中で、希亞樹はせめて明確な基準が欲しかったのかもしれない。
父は一度だけ「ふぅむ」と唸ると、椅子に深くもたれた。
「『普通』ねぇ……」
それから少し考えるように天井を見上げ、希亞樹へと視線を戻した。
「さっきまで、リビングでバラエティ見てただろ」
「……それが?」
「極端な話、芸人が奇抜なボケをする。誰かが『それ普通じゃないだろ!』ってツッコむ。すると客が笑う。結局の所『普通』ってのは、みんなが『そうだそうだ』って思える範囲のことなんだよ」
「は?」
父の言葉に、希亞樹は眉を顰めた。
「法律みたいに誰かが決めてるわけじゃない。百人いたら百人が、なんとなく『そういうもんだよな〜』って思ってる空気みたいなものだ。だから、その空気から外れると変な目で見られる。人間、自分と違うものを見ると少し怖くなるだろ。だから、あいつは『普通じゃない』って言葉で線を引く。そうすると不思議と安心できる」
「……線を、引く」
希亞樹はその言葉を、喉の奥で苦く転がしていく。
シャルロリアが引いた線。
友人たちが自分との間に引いた線。そして美亞未が自分との間に引き、そして今、他の誰かをその線の内側へ招き入れようとしている現実。
すべてがその空気という得体の知れないものの仕業だと言うのだろうか。
「じゃあさ」
希亞樹はドアノブを握る手にぐっと力を込めた。
指先が白くなる。
「その『普通』から外れた奴は、どうすればいいんだよ。ただ外側で、みんなが安心するための見せ物にされてりゃいいのか?」
剥き出しの棘を含んだ声だった。
「外れたら外れたで、別の場所を探すだけさ。あるいは、その線を自分で引き直すのもいいんじゃないか」
「引き直す……?」
「ああ。最初は一人でも、『これが自分の普通だ』って胸を張って生きて、いつの間にか『それもアリかもな』って、賛同する人たちが集まってくることもある。……まあ、それには相当な覚悟と、エネルギーがいるかもしれないがな」
父はそう言って、デスクの上の麦茶を飲んでいく。
「希亞樹。お前が今、何に息苦しさを感じてるのかは、父さんには正直なにも分からん。だけどな……『普通』ってやつに無理に自分を当てはめようとして、擦り切れる必要はない」
そこで父は言葉を区切り、まっすぐに希亞樹の目を見た。
「その空気から外れるってことは、周りからの優しさや、今まで当たり前だった温もりを、一時的に失う覚悟もいるってことさ。自由は、案外冷たいもんだからな」
「冷たい……」
不思議とその言葉が、今の希亞樹の胸に深く刺さった。
美亞未のいない部屋の冷たさ。シャルロリアの背中から漂う冷気。もうすでに、自分はその冷たさの中に放り出されているのではないか。
「……なんか変なこと聞いて悪かったな」
希亞樹はそれ以上、父親の言葉を聞いているのが耐えきれなくなり、逃げるように書斎のドアを閉めた。
自室に戻り、ベッドに倒れ込む。
天井の模様はいつもと変わらないまま、何も答えてくれない。
――自分で、線を引き直す?
そんな大それたことができるわけがない。
自分はただ、元に戻りたいだけだ。美亞未が隣にいてくれるあの眩しい日常に――。




