47 深淵
人の感情の中で最も醜いのが、嫉妬であるとシャルロリアは常々感じている。
思い出すのは、病に伏せていた頃。
何事もないように、窓から見る外を遊び回る子どもたちの姿を酷く妬む醜い気持ちは、今でも思い出せる。空を飛ぶ鳥にさえ嫉妬していた。
不自由なく自由気ままに青空を横切る翼を見上げるたび、シャルロリアの胸にはどす黒い泥のような感情が渦巻いた。
なぜ、あんなちっぽけな生き物が持っている自由を、自分は与えられていないのか。
ただ息をして横たわっているだけの肉体が、酷く惨めで、忌々しかった。
けれど、本当にシャルロリアを苛んだのは、たまに見舞いに訪れる友人たちの存在だった。
「今日も素敵なお部屋ね」
「そんなに綺麗なドレスを着て、まるでお人形さんみたい!」
彼女たちが向ける、羨望の眼差し。それがたまらなく嫌だった。
友人たちは、シャルロリアが置かれた「とても裕福なお嬢様」という立場だけを見て、その裏にある底なしの絶望には気づきもしない。
彼女たちが放つ無邪気な羨みが、シャルロリアには「あなたは贅沢な檻の中で死んでいくだけの存在ね」という嘲笑に聞こえて仕方がなかったのだ。
「はい、これ。ママがどうぞって」
「でも口に合うかな……?」
差し出された色鮮やかな果物も、玩具も、彼女たちの健康な肌の輝きと、外の埃や匂いをまとった衣服の前には何の価値も持たなかった。
「わあ……いつもありがとう」
シャルロリアはいつも優雅な微笑みの下に、黒い感情を隠した。
彼女たちを羨み、同時に彼女たちから羨まれる。
その双方向の歪んだ感情の応酬こそが、シャルロリアに確信させたのだ。――人の感情の中で最も醜く、そして救いがないもの、それこそが「嫉妬」なのだと。
だが、その『醜さ』こそが人をもっとも突き動かす原動力にもなる。
シャルロリアは、美亞未に深い嫉妬の情を燃やしていた。奥底で燻っている黒い感情は、日に日に増していく。
希亞樹から一途な想いを受ける美亞未が、妬ましくて、卑しくてしょうがない。
『俺が好きなのは姉貴だっ!』
希亞樹の告白は、まさに魂の叫びだった。
だからこそシャルロリアは、余計に許せないのだ。
恋を覚えた相手が、清らかな存在ではなかったことに。
自らの想いを、禁忌によって汚されてしまったことに。なぜ『他人』である自分よりも『家族』である美亞未を選ぶのか。
シャルロリアは『答え』を知りたかった。
同じ女であるのに、美亞未と自分、一体何がそんなに違うのかと――……。
「…『罪を犯す者は、悪魔から出た者である。悪魔は初めから罪を犯しているからである』『黎明の子、明けの明星よ、あなたは天から落ちてしまった』」
シャルロリアは聖書の一節を口にしていた。
「…お嬢様、音を間違えていますよ」
小さな教会に、シャルロリアの姿はあった。
パイプオルガンの音色は、シャルロリアの心情を反映しているかのように、荘厳で、力強く、しかしどこか哀切な音色を奏でていた。
夕方のことである。と、いっても初夏の頃と比べれば日の沈みも次第に早くなり、もう夜といっても差し支えはない。
メイドの指摘に、シャルロリアの指が止まる。
「心を騒がせるな、か……」
シャルロリアの言葉は、すべて独り言だ。
「あは、ごめん。今日はもう終わりにしようかな」
「承知しました。では、帰り支度を……」
いつもと変わらない微笑を浮かべて、シャルロリアは鍵盤から手を離し、立ち上がる。
夕方の祈りの時間は、シャルロリアにとって一日のうちで一番好きな時間であった。
どんなに心がささくれ立っていても、自然と穏やかになる。それはまるで、母の腕で眠っているようだとシャルロリアは感じていた。
しかし、ここ最近は心の平穏を保ててはいない。その原因が希亞樹であり、美亞未であることも分かっているが、シャルロリアにはどうすることも出来ずにいた。
そんな天使の闇を柔らかく照らすのは、鮮やかな色彩のステンドグラスだ。
その煌びやかさが、シャルロリアの瞼に焼き付いた。
「ねえ…。ボクとは何が違うのかな?」
ちょうど背を向けていたメイドに、シャルロリアは問いかけてみた。
「お言葉ですが、何がでしょうか……?」
シャルロリアの問いに、メイドは困ったように言葉を探す。
「血の繋がりに、ついて……かな」
「血……血縁についてですか?」
「うん」
メイドは困惑したように、しかし主人の問いを無下にすまいと言葉を絞り出していく。
「…そうですね…それは、変えようのない『事実』、でしょうか。どれほど拒もうとも、選ぶことも捨てることもできない、命の出発点そのものですから」
「出発点、か。そうだね。選べないからこそ、人はそこに運命なんて大層な名前をつけたがる。ボクが大きな家に生まれたのもパパやママの血があるからだよね」
シャルロリアは小さく息を吐き、鍵盤の蓋を静かに閉じた。
血縁という名の呪縛。
それは、他者がどれほど美しく、どれほど純粋な想いを積み重ねようとも、決して侵入することを許さない絶対的な領土だ。
美亞未と希亞樹。
二人の間にあるのは、愛や恋といった流動的な感情の前に、世界の形そのものを決定づける始原の約束なのだろう。
――他者であるボクは、どれだけきあきくんを想っても、きあきの『外側』にしか存在できない……。
どんなに言葉を尽くし、心を尽くしても、自分と希亞樹の間には『私と汝』という決定的な断絶がある。
だが、美亞未と希亞樹の間には、最初からその境界線が存在しなかった。例えるなら、二人は同じ一つの根から分かれた二つの枝なのだ。
これほど不条理な敗北があるだろうか。
シャルロリアが燃やす嫉妬の本質は、美亞未という個人への憎しみではない。自分という存在が、どれほど努力しても『血』という先天的なイデアの前に無力であるという、存在論的な絶望だった。
「お嬢様……?」
メイドの心配げな声が飛ぶ。
「分かっているよ。……ねえ、人間って滑稽だと思わない?」
シャルロリアは振り返り、夕闇に沈むステンドグラスを見上げた。光を失ったガラスは、ただの暗い石の壁のように冷徹だった。
「神さまは人間を『個』として作ったはずなのに、血という枷で他者と結びつけ、それを侵せば『罪』だと宣う。……ボクがどれだけ望んでも手に入らない『一体性』を、罪という形で所有しているんだ」
禁忌を犯すということは、世界のルールを書き換えるということだ。
共に罪の深淵へ落ちていける唯一の存在がいるというのは、きっと心地がいいものなのだろう。
「ボクがどれだけ正しく、美しくあろうとしても、その背徳の完成度の前には、ただの退屈な観客にすぎない……」
胸の奥で、どす黒い泥が結晶へと変わっていく。
嫉妬とは、持たざる者が持つ者を羨むだけの感情ではない。自らの存在の根源的な不在を突きつけられる、精神の飢餓だ。
「ふふ、おしゃべりが過ぎたね。帰ろうか」
シャルロリアはいつもの完璧な微笑みを顔に張り付かせ、ゆっくりと歩き出した。
足音が静かな礼拝堂に響く。
希亞樹の気持ちを、他人のメイドが代弁することなど不可能だ。
希亞樹と美亞未がなぜ想い合うのか、それは二人だけのものだ。
それはきっと、二人が血の絆以上の強い何かで結ばれている証でもある。
その何かとは何なのか、他者にとってひどく難しく、言葉にするのは不可能なものなのだろう。
「ボクは時々、悪魔ってなんだろうって考える時があるよ」
シャルロリアは、ふとそんなことを言った。
「悪魔……ですか」
メイドは、その言葉の意味を測りかねる。
「うん。ボクと同じ、人の形をしているのかな?」
シャルロリアの言葉はひどく曖昧で、メイドは困惑した。
「なんでもない。ふふ、でもそうだね、ボクが『裁き』を下してあげる。きっとそれが、正しさなんだろうね」
他者であるからこそできる、最も冷酷で、最も美しい拒絶の証明。
シャルロリアの瞳には、神の秩序に従う意志が、静かに、しかし深く宿っていた。




