46 誰も
希亞樹は靴を突っかけ、逃げ出すように家を飛び出していた。
じっとりとした強烈な熱気が容赦なく身体を包み込んでいくが、ただひたすらに足を動かす。目的地なんてなかったが、足は自然と通い慣れた最寄りの駅前へと向かっていた。
「あれ、希亞樹じゃん」
駅前のロータリーで足を止めた時、聞き慣れた声がした。
顔を向けると、そこにはクラスの友人たちがたむろしていた。
「……あ」
「おー奇遇だなっ! 買い物中か?」
「お前汗だくだけど大丈夫か?」
「いや……別に。ただ、ちょっと……」
「暇ならさ、これからカラオケいかね?」
「そうそう、涼もうぜっ! 新曲も歌いたいしっ!」
「あー…わりぃけど今財布持ってねえんだよ……」
勢いのまま飛び出したせいで、ポケットに突っ込んだままのスマホ一つしか持っていなかった。そのスマホも残りの数値は頼りない。
「いいって。あとで返してくれればさ…」
「なんだよ希亞樹ーお前もしかして家出してきたのか~?」
冗談に頷く気力も起きず、希亞樹は促されるままに友人たちと共にカラオケ店へと滑り込んだ。
自動ドアをくぐった瞬間に押し寄せる、キンッと冷えた空気。案内された薄暗い個室のソファに泥のように沈み込むと、激しい動悸が少しずつ収まっていくのを感じた。
すぐに爆音がスピーカーから流れ出し、上手いとも言えない友の歌声が響き出す。
そんな中、隣に座った友人が、ニヤニヤとした笑みを浮かべながら希亞樹の肩を小突いてきた。
「…なんだよ」
適当に飲み物とサイドメニューを注文し、タブレットを置く。
「なあなあシャルちゃんとはどうなんだよっ!」
――シャルロリア。
聞きたくもない名前が、ずっと付き纏ってくる。
希亞樹の脳裏に、彼女の最後の言葉が、そして地を這うような冷徹な声がフラッシュバックしていく。
「…なんもねえよ」
「嘘つくなよ~聞いたぞ~シャルちゃんとデートしたんだろ~? かーっ!! 羨ましいぜッ……!!」
バシンバシンっ! と、意味もなく背中を叩かれる。
「……羨ましいなら、あいつと付き合ってやれよ」
吐き捨てるように言った希亞樹の言葉に、それまでマイクのハウリングと爆音に包まれていた個室の空気が、一瞬だけ奇妙に静まった。
「あいつも俺みたいなやつより、お前らみたいなキレイな人と付き合いたいと思ってるだろうし……」
背中を叩いていた友人の手がピタリと止まり、ニヤニヤとしていた顔が困惑へと変わる。
「な~に言ってんだ?」
「もしかして、シャルちゃんとケンカでもしたかあ?」
一曲歌い終えた友人が、マイクを向けてきた。
ケンカ――そんな生やさしいものではない。
絶対的な拒絶、否定。
「つうか、そもそも俺はあいつとは付き合ってすらいねえし……」
「おいおいおい」
「モテる男は言うことが違うなーっ!」
友人たちは相変わらず、どこか他人事の、青春の甘酸っぱいトラブルとしか思っていないトーンで囃し立ててくる。
当たり前だ。
彼らにとってのシャルロリアは、ただの「可愛くて、ちょっと浮世離れしたお嬢様」でしかないのだから。
あの翡翠の瞳の奥に、どれほど昏い狂気が宿っていたか。
『狂ってるのはきあきくんの方だろっ!!』
耳の奥で、彼女の金切り声がまだリフレインしている。美亞未を「あの女」と呼び、排除することを微塵も躊躇わないような冷酷な横顔。
希亞樹からすれば、シャルロリアの方が『可笑しい』のだ。
「なあなあ、どうやって落としたか教えてくれよ~」
「希亞樹くんは手がはやいな~出会ってまだ一ヶ月くらいだろう?」
運ばれてきたポテトやオニオンリングを摘まみながら、友人たちが好き放題に言う。
「……」
希亞樹は考えていた。
思い返せば、美亞未との始めてのキスは、額への口付けからであった。
初めて姉の唇が額に触れた時のことは、もう思い出せない。
その時のキスは、きっと深い意味などないものであった。幼い頃の自分たちが、今こんな関係になっているなど、想像もしていなかった。
いつから、キスが特別な意味を持つようになったか。
――姉貴のことばっか考えちまう…。
美亞未のこと、シャルロリアのこと。
考えなければならないことが沢山あり、希亞樹の頭の中がぐちゃぐちゃになっていく。
「あのさあ……俺はシャルロリアと付き合ってねえよ。あいつが勝手にくっ付いてくるだけで、俺が本当に好きなのは、姉貴だっつうの……」
「……は?」
メロンソーダをすすっていた友人の喉が、不格好に鳴った。
スピーカーから流れる大音量の重低音だけが、やけに虚しく個室の空気を震わせている。
さっきまでニヤニヤと希亞樹の肩を小突いていた友人たちの顔から、一斉に血の気が引いていくのがわかった。
「……おい、希亞樹。今、なんて?」
「だから、俺が好きなのは姉貴だって言ったんだよ」
やけくそだった。
シャルロリアにすべてをぶちまけて、世界を決定的に壊してしまった後だ。
もう、誰に何を隠す必要があるというのか。
だが、友人たちの反応は、シャルロリアのそれとは全く違っていた。
「……あー、なるほどな。ブラコン的な? 『うちの姉貴マジ美人で自慢なんだわー』的ないつものやつか」
「焦ったぞ、一瞬ガチのトーンだったからビビったぜ!」
「そうそう! シャルちゃんへの照れ隠しに実姉を引き合いに出すとか……」
わはは、と引きつった笑い声が部屋に響く。
「冗談じゃねえよ」
希亞樹は冷めた目で、手元のストローをいじりながら呟いた。
「マジなんだよ。俺と姉貴は――」
「やめろって」
友人が真顔で希亞樹の言葉を遮った。その目は笑ってはいない。
「……それ以上は、ウケ狙いだとしても引くつうの。シャルちゃんが可哀想だろ」
ガツン、と頭を殴られたような衝撃があった。
誰も、自分の本当の気持ちなんて理解してくれない。
友人たちにとっては、ただの「悪ノリ」。
シャルロリアにとっては「絶対に赦されない、汚らわしい罪」。
「別にいいだろ。お前たちに迷惑なんて掛けてないんだし」
きょうだいだからなんだ。血が繋がっているからなんだと言うのだ。
誰にも迷惑を掛けてはいない、それが希亞樹の本音であった。
だから、どれだけ否定されようとも、もう隠すことはしないと決めたのだ。
「なにもおかしくなんてねえよ」
「いやー…おかしいって……」
友人がぽつりと呟く。
この気持ちを、誰かに理解してもらいたいわけでもない。
それでも、友人たちの態度は、希亞樹を苛立たせるには十分であった。
どうしてこんなにも否定されなければならないのか。
無性に腹が立ってくる。
シャルロリアとの関係は嬉々として聞いたのにも関わらず、姉である美亞未のこととなれば、まるで腫れ物に触れるように扱われる。
「じゃあ、何がおかしいのか教えてくれよ。俺、頭悪いから分かりやすく言ってくれ」
どうしてここまで言われなければならないのか。
希亞樹は、自分が何も間違えてはいないと強く信じている。
「だってさあ…きょうだいじゃん…?」
「だから何なんだよ。シャルロリアが良くて姉貴がダメな理由にならないだろっ!」
希亞樹の声は荒くなっていく。
――なんだよっ! 俺が悪いってのかよ……!
希亞樹は怒りが抑えきれずに、強く拳を握り締めていた。
「きょうだいは恋人にもなれないし、結婚も出来ないんだぞ…?」
「いいよ、別に。俺は姉貴とそんな風になりたいとは思ってねえよ。姉貴はずっと姉貴だっ! 俺は姉貴がいてくれればいいんだっ」
きっぱりと言い切った希亞樹に、友人たちは互いの顔を見合わせて、黙り込んでしまう。
「……もういいだろう、じゃあな」
重苦しい沈黙の中でソファから立ち上がり、希亞樹はカラオケ店を出ると、また独りになった。




