43 蜜月
ベッドの上に並べた下着を、ドライヤーで乾かしながら美亞未は自分が何故こんなことをしているのか、ふと冷静になって考えてしまう。
今、美亞未がいるのはリックスが使っている学生寮であり、彼の部屋である。
「…」
そして、美亞未はガウンのみで下には何もつけてはいない。
「……」
部屋の主は、三階にあるランドリーで濡れた服と靴を、洗濯と乾燥させに出ていた。美亞未がシャワーを使っている間は、友達の部屋のシャワーを借りたと言った。
さすがに下着までリックスに渡すのは抵抗があったので、手洗いをして現在絶賛乾かし中というわけである。
「……え?」
美亞未は一人声を上げる。
改めて部屋の中を見渡し、呆然とする。
「いや、いやいや……」
当然といえば当然なのだが、リックスの私物や服やらが無造作に置かれており、とても生活感に溢れている。
普段、リックスが過ごしている空間に、美亞未はいるのだ。
「だ、だめでしょ…これは…」
自分が今置かれている状況に、美亞未は今更ながらに焦りと羞恥を抱き始めていた。
流れに流されてこんな所まで来てしまったが、これはさすがにまずかったのではないか。
リックスのプライベートな空間を、土足で踏み荒らしているような気分になってくる。
「うわわ…」
美亞未は頭を抱えた。
意識し始めると、途端に落ち着かなくなってしまう。初めて訪れる場所は、そわそわしてしまう。
ましてや異性の部屋であるなら、なおさらだ。
「どうしよう……」
『下心はないからな…?』
確かに彼はそう言った。
ならば、こちらが変に意識してしまうのは失礼ではないか。
下着が乾くまでのこの時間すら、妙に長く感じられた。
「もういいかなあ……」
雨音だけだと心が落ち着かず、美亞未は意味もなく声を出していた。
ドライヤーを止め、下着を付け直したのと同時に、部屋のチャイムが鳴った。
ビクっと美亞未の肩が跳ねる。
リックスがランドリーから戻ってきたのだ。
タイミングが良いのか悪いのか、美亞未は慌てて、ドアを開けに行った。
「乾いたぞ」
「ど、どうも~……」
ランドリーバッグを受け取り、そそくさと部屋へと引っ込もうとするが、リックスの足がそれを阻む。
「待て」
「……な、なに?」
美亞未はおそるおそるリックスを見上げる。
「いや、オレの部屋なんだが……」
「あの、き、着替えるからちょっと待って…っ!」
「…そうか、そうだったな。…すまなかった」
「ううん! お邪魔してるのこっちだし、すぐ着替えるからっ!」
バタンッ! と一旦ドアを閉めて、ガウンを脱ぎ、乾燥機ですっかり温まった服に袖を通す。
脱いだガウンをバスルームへと置き、再びドアを開けた。
時間にして、一分ほどだろうか。
「お待たせ……」
そう言って、リックスを部屋へと入れた。
リックスも美亞未もベッドに腰を掛けて、何を話すわけでもなく静かな時間を過ごす。
「…雨やまないね」
窓の外を見ると、先程よりも雨足は強くなっており、ガラスを激しく叩いている。
「明日の朝には止むそうだ」
「そうなんだ。てっきりゲリラだと思ったけど……」
「なにか飲むか?」
立ち上がったリックスが、棚からグラスを取り出し、冷蔵庫を開けた。
「オレンジジュースはないが、水かお茶かコーヒーになるがどうする?」
「あ、じゃあ水もらおうかな…」
「分かった」
冷蔵庫から冷えたミネラルウォーターのペットボトルを取り出し、透明なグラスにトクトクと注いでいく。
その背中を見つめながら、自然な会話が出来ているだろうかと考えてしまう。
「ほら」
「ありがとう」
差し出されたグラスを受け取ると、リックスは元の場所には戻らず、椅子に腰を下ろした。
一口含んだ水は驚くほど冷たくて、火照っていた身体に染み渡る。喉を鳴らして飲み干していく内に、動転していた頭も次第に冷静さを取り戻していく。
「……雨ってさ、宇宙でも降るのかな」
窓の外を眺め、ぽつりと呟く。
「……降るさ。地球とは、少し形が違うけれどな」
独り言のつもりであったが、リックスは椅子の背もたれに体を預け、天井を仰いだ。少しの間を置いてから、また静かに口を開く。
「ある天文学者が言うには、ある星では鉄の雨が降り、またある星ではガラスの雨が横殴りに吹き荒れるらしい。あるいは、土星や木星の奥深くでは、ダイヤモンドの雨が降っているとも言われている」
「ダイヤモンド……?」
グラスをヘッドボードに置き、リックスの言葉に耳を傾ける。リックスの声は、雨音に混じって、どこか遠いところから響いてくるように心地よかった。
「ああ。果てしない闇と圧倒的な圧力の中で、炭素が結晶となって降り注ぐんだ。ロマンチックに聞こえるかもしれないが、それは同時に、誰も触れることのできない孤独な輝きでもある」
リックスは視線を天井から美亞未へと移し、ふっと目元を和らげる。
リックスの語るものが冗談なのか、本当のことなのか、美亞未には分からない。
「そう考えると、不思議だと思わないか? 宇宙の雨は、触れれば命を奪うような過酷なものばかりだ。だが、この地球の雨だけは、オレたちの渇きを潤し、命を育む。今、窓の外で世界を遮断するように激しく降るこの雨も、何億年も前から形を変えて、宇宙の中でこの地球だけに許された恵みなんだ」
リックスが、デスクの上に置いたままになっているコップに目を落とし、指先でその縁をなぞっていく。
「宇宙の広大さに比べたら、この部屋も、オレたちがこうして雨宿りをしている時間も、ほんの一瞬の瞬きに過ぎない。……だからこそ、その一瞬を誰かと共有できるのは、ダイヤモンドの雨よりもずっとロマンチックだろう?」
その答えに、美亞未は小さな微笑をこぼす。
「相変わらずだね」
「なにがだ?」
「そういうところ」
不思議そうにしているリックスに、美亞未はくすくすと笑う。
「ロマンチストな方が好きだろう。それとも雨は星の涙なんていう、さらにロマンチックな方が好みだったか?」
リックスは少しだけからかうように片方の眉を上げ、悪戯っぽく微笑んだ。
「もう、からかわないでよ……っ」
「揶揄ってないさ」
リックスが椅子から立ち上がって、また隣に座り、腰を抱き寄せてきた。
「わっ」
「…帰るならタクシーを呼ぶよ。この雨だと歩いてもまた濡れるだけさ」
「あ、う、うん、そう、だね……」
腰を抱かれたまま、美亞未は視線を彷徨わせる。
――そうだ、帰らないと……。
頭では分かっているのだが、身体が動かない。
リックスの体温が心地良くて、このまま眠ってしまいたかった。
――どうしよう、まだ…帰りたくない…。
希亞樹には悪いとは思う。しかし、今、美亞未が求めて止まないのはリックスなのだ。
リックスの体温と雨の音、そして、この不思議な空間がそう思わせるのだろう。
「…どうする?」
「ぇっ、な、なに、が…?」
心の内を見透かされたような問いかけに、ぼっと頬が一気に熱を持っていく。
「美亞未…少し手を借りるぞ」
「へっ!?」
そう言うなり、美亞未の手を取ったリックスは迷いのない動きで、自分の左胸へと引き寄せた。
「わッ…!?」
薄いシャツ越しに触れたリックスの胸は、驚くほど熱い。
そして手のひらを通じて、ドク、ドク、と、力強く規則正しい、けれどどこか急いたような鼓動がダイレクトに伝わってくる。
「オレだって、さっきから余裕があるわけじゃない。好きな子の前なんだ……」
低く、少し掠れた声で呟いた。
宇宙のロマンチックな話をしていた時の、あの涼しげな表情の裏で、彼もまた自分と同じように、張り裂けそうなほどの緊張と衝動を抱えていたのだ。
「あ、こんなにバクバクしてるんだ……」
「ああ。君が思っている以上に、オレは君に惹かれているんだ。宇宙がどうとか言ったが……今オレの頭の中にあるのは、この雨の音と、オレの部屋に君がいるっていう事実だけだ。この鼓動が、その証拠だよ」
リックスの強い視線が、美亞未の瞳を真っ直ぐに射抜く。
からかうような色はもうどこにもない。そこにあるのは、隠しようのない真摯な熱量だった。
好きだと言われるのは嬉しいことだと思う。
彼の瞳には自分が映っている。美亞未だけが映るその情景が、何よりも美しく見えた。
青の拡がりの中に入ってみたいとも思う。
「わたしね……リックスくんといると、自分が分からなくなる時があるの……。好きになりたいと思う気持ちは確かにあるよ。でも……」
その先はやはりまだ、口にできなかった。
だが、リックスには伝わったのだろう。
リックスの視線から逃れるように、美亞未は顔を横に向けてしまう。
「わたし…変だよね? なんだか…離れたくないって、思ってる……」
美亞未は甘えるように、リックスの胸に身体を寄せていた。
「そんなことはない。それが普通の感情なんだろう。だが……あいつのことはいいのか」
その問いかけに、美亞未は弟のことを忘れていたことに気が付いた。
「…アキとは…一緒にいない方がいいんだよ」
美亞未の声は悲しげであった。
「だって、きょうだいだから…。リックスくんだって、そう言ったでしょ…だから…」
「オレをあいつの代わりにするのか?」
「そんなこと……」
美亞未は首を横に振って否定する。
「アキの代わりになんて思ってない。アキは希亞樹だけだし、リックスくんはリックスくんだけだよ」
美亞未はリックスの手を取って、今度は自分の胸に押し当てた。
「リックスくんの体温って…落ち着くんだよね…。だから、もう少し、ここにいても、いい…?」
瞬間、リックスの目元がわずかに見開かれ、次の瞬間には、愛おしさを堪えきれないといったように、美亞未の身体を強く抱きしめ返した。窓を叩く雨の音はさらに激しさを増していく。
しかし、二人の世界を完全に遮断するその豪雨さえも、今はただ、二人だけの時間を祝福する心地よいBGMのように響いていた。
「……ああ、構わないさ」




