42 雨の中に
好きだ――。
その言葉が、耳の奥から脳へ、ゆっくりと時間をかけて染み込んでいく。
リックスはなおも、美亞未の目をまっすぐに見つめている。その綺麗な青い瞳の中に、顔を真っ赤にして、マヌケな表情で固まる自分の顔が映っていた。
希亞樹への罪悪感だとか、留学のあれそれだとか、プラトンのイデアだとか、今まで頭の中でこねくり回していた難しい問題が、すべて一瞬で消し飛んでしまった。
今、美亞未が直面しているのは『目の前の男の子に告白された』という、あまりにも生々しくて、普通すぎる現実だ。
「リ、リックスくん、あの、えっと、それって――」
言葉がうまく紡げない。指先は微かに震えていた。
リックスの温かい体温が、まるで熱病のように自分の肌に移ってくる気がして、美亞未はたまらなくなってきゅっと指を丸めていた。
その仕草に、リックスの手が離れていく。
「……少し、驚かせすぎたかな」
困ったように眉を下げて微笑むリックス。余裕のある態度すら、今の美亞未には刺激が強すぎた。
このままここにいたら、心臓が破裂するか、あるいは彼のペースに全部巻き込まれてしまう。
ガタンっ!
図書館に似付かわしくない音と共に、美亞未は立ち上がっていた。
「ご、ごごめんっ! わたし、ちょっと…外で頭冷やしてくるッ…!!」
早口に告げて、リックスから逃げるように美亞未は図書館から飛び出していた。
「す、すぐ戻ってくるからっ! 多分っ…!」
「あ、美亞未…」
静かな図書館の中で、周囲の数人が不審そうにこちらを見る。美亞未はそれらに小さく頭を下げながら、自動ドアへと向かっていた。
「はあ……びっくりしたあ……」
外にあるベンチに腰を下ろして、大きく息を吸い込み、そして吐き出す。胸の動悸は一向に収まらない。
手のひらで自分の両頬を挟み込んでみると、恐ろしいほど熱を持っていた。
「…好き、かあ……」
美亞未は、ぎゅっと目をつぶった。
頭を冷やそうと外に出てきたのに、夏の熱気のせいで、余計に思考がこんがらがっていくようだった。
「好き、だなんて…そんなこと言われても……」
困る――。
そう思いながらも、ジリジリと肌を焼く陽射しの中で、美亞未の脳裏に浮かぶのは、リックスのあの綺麗な青い瞳だった。
――アキ……。
同時に、弟の姿が浮かび上がってくる。
「でも…本当は…好きになっていいかも……なんて……」
熱気にやられた頭で、ぽつりと、本当に小さな独り言のつもりで溢した。言葉にして自覚した瞬間、心臓がさらに跳ね上がる。
「――本当に、いいのか?」
「ひゃッァあっ!?」
突然、すぐ上から降ってきた聞き慣れた声に、変な声と共に、ベンチから飛び上がる。
慌てて振り返ると、そこには追いかけてきていたリックスが立っていた。いつも通りの涼しげな表情……のはずなのに、その青い瞳は驚きに微かに見開かれ、どこか必死な色が混ざっている。
「り、リックスくん!? いつからそこに――」
「今、オレのことを好きになってもいい、と言わなかったか?」
「えッ、き、気のせいだよっ……!!」
再びリックスに背を向け、美亞未は全力で走り出していた。
セミの声と激しい動悸に溺れそうになりながら、美亞未はただひたすらに足を動かしていた。
「美亞未!」
背後から自分の名前を呼ぶ声が聞こえた瞬間、心臓が跳ね上がった。振り返らなくても分かる。
あの彼が、何事にも動じない彼が、自分を追いかけて走っている。その事実だけで、美亞未の頭はさらにパニックを起こした。
――無理、今は無理……! どんな顔して会えばいいのか分からない!
美亞未はショートパンツの裾を揺らしながら、図書館の敷地を飛び出し、住宅街の路地へと逃げ込んでいた。
リックスを拒絶したいわけじゃない。ただ、彼から注がれる強烈な熱量と、自分の内側で渦巻く希亞樹への想いごちゃ混ぜになって、すべてが決壊しそうだった。
狭い路地をがむしゃらに駆け抜け、大通りの喧騒から外れた小さな児童公園に滑り込んだ。
美亞未は、錆びついたブランコの支柱にしがみつくようにして、激しく上下する肩を落ち着かせようとする。
しかし、夏の容赦ない熱気と、全速力で走った疲労、そして何より心臓を焦がすような緊張のせいで、呼吸は浅いままだ。
「は、はぁ……っ、ふぅ…あっつ…」
久しぶりに全速力で走ったせいか脚が疲労で微かに震えている。額からは、ボタボタと汗が流れ落ちていき、顔をびしょびしょに濡らしていった。
「……美亞未」
だが、休む間もなくまたすぐ近くで、弾んだ息遣いと共に名前を呼ばれてしまう。
「げっぇ……」
ゆっくりと顔を上げると、リックスがそこにいた。
普段なら額に汗一つ浮かべず、涼しげな顔をしている彼が、今は前髪を乱し、胸を大きく上下させている。その端正な顔はほんのり赤みを帯びていて、彼もまた、自分を追って必死に走ってきたのだという事実が、生々しく突きつけられた。
「リ、リックスくん……っ」
「待って、くれ……はあ…。別に、無理に答えを求めているわけじゃないんだ……。と、とりあえず、そこで休まないか……」
リックスはそう言いながら、ベンチを指さした。
「う、うん…そうだね……」
奇妙な追いかけっこが、ようやく終わる。
自然と肩が触れ合いそうになる距離で、並んでベンチに腰を下ろした。
木漏れ日が、美亞未の白い生脚と、リックスの伸ばした長い足の上に斑模様を作っている。
「…久しぶりに全力で走ったな」
「あ、あー…なんかごめん……」
「いや、謝るのはオレの方だ」
ハンカチで滴る汗を拭い、リックスは苦笑しながら、息を整えるように深呼吸を繰り返す。
「……雨、降りそうだね」
空を仰ぐと、あんなに青かったはずの空がいつの間にか灰色の雲に覆われていた。
風が吹くと、雨の匂いがした。出かける前に母に言われた言葉を思い出す。
――傘、持ってきてないや……。
「そうだな。今日はもう終わりにするか。送っていくよ」
「うん……」
美亞未が腰を浮かせた、その時だった。
ポツ、ポツポツ――っと、空から雨粒が降ってきたのは。
「あ、降ってきた……」
ゴロゴロと、地響きのような雷鳴が轟いたかと思えば、一瞬にして視界が白く煙り、容赦ない大粒の雨が、二人を襲う。
「ちょっ、いきなりすぎ…っ!」
大粒の雨が容赦なく美亞未の肌を叩く。
オフショルダーのトップスは一瞬で水を吸って肌に張り付き、視界は雨のカーテンで遮られ、冷たい水滴が、上がっていた体温を冷ますように降り注いでいく。
「美亞未、こっちだ!」
リックスに手首を掴まれ、導かれるままに美亞未は足を動かした。
彼が目をつけたのは、公園の中央にぽつんと佇む、コンクリート製のドーム型遊具だった。中が空洞になった秘密基地のようなその場所に、二人は滑り込むようにして飛び込んだ。
中は薄暗く、二人入るとそれだけで一杯になるほどの狭さだった。
外では激しい雨音がドームの壁を打ち鳴らしている。地響きのような遮断された轟音の中で、美亞未は壁に背中を預けた。
隣では、同じように壁に背を預けたリックスが荒い息を吐いている。
ブロンドの髪が、濡れて額に張り付いて、水滴が彼の端正な輪郭を伝って、鎖骨へと流れ落ちていく。その姿は、いつもの哲学的な観察者ではなく、泥臭く雨に降られた、ただの男の子そのものだ。
「降られちゃったね…」
「雨が落ち着くまではここで雨宿りでもするか」
「うん…」
美亞未は小さく頷く。
雨宿りの狭いドームの中、外は遮るもののない豪雨。
外の世界から完全に切り離されたような、二人きりの空間。
――二人きりか……。
美亞未は体育座りの姿勢のまま、濡れた膝をぎゅっと抱え込んだ。
――どうしよう……。狭い、近すぎる……。
告白されたことへのパニックと、逃げ出してしまった気まずさ。そこにこの密室状態が加わって、美亞未の頭は完全にキャパシティを越えていた。ドームの壁に自分の心臓の音が跳ね返って、リックスにまで聞こえてしまうんじゃないかと本気で焦る。
「美亞未」
「な、なに…?」
「…ちょうど、この近くに寮があるんだが……来るか…?」
湿気のせいか、リックスの頬は赤くなっていた。
「え?」
「ずぶ濡れのままだと帰れないだろう?」
「ま、まあ…そうだけど……」
確かにこのまま雨が止んでも、濡れ鼠のまま帰るのも億劫だ。
「先に言っておくが…下心はないからな…?」
美亞未は目をパチくりと瞬かせた。
「……え、じゃあお言葉に甘えて……?」




