41 空白の隙間
「そうか」
短く返されたその言葉の真意を、美亞未はいつも読み解くことが出来ない。興味があるのか、ないのか判別がつかないのだ。
「調子はどうだ?」
「うん? 変わりはないよ」
美亞未は小さく頷き、視線を机の上の本に落とした。
美亞未にとって、リックスは安全基地だった。
弟との間に横たわる、誰にも言えない、名前のない泥沼のような関係。それを唯一知っていて、なおかつ軽蔑もせず、まるで難しい数式を解くように淡々と受け止めてくれる。
それが何よりも嬉しかった。
進路相談という口実で始まった二人の時間は、いつの間にか、美亞未にとって息を吸うための大切な隙間になっていた。
「そうか」
また同じ言葉を繰り返して、リックスは淡い微笑を浮かべた。
美亞未は机の上に置かれた、彼の手のすぐ近くに自分の手を置いてみた。触れるか触れないかの、もどかしい距離だ。
「母さんがね、もし私が留学したらアキが寂しがるねってさ……。なんていうか、そういう物理的なリセットをするためにしたいわけじゃないんだけどね…」
机の冷たさが、妙に現実味を帯びて感じられた。
ふぅ、っと一呼吸置いてから美亞未は続ける。空調の効いた空間は、ひやりとして心地が良い。
「逃げるためじゃないよ? ちゃんとね、興味あるよ留学。違う国で、違う空気の中で、自分をもう一度組み立ててみたいって。向こうで心理学とか、哲学とか勉強して……リックスくんみたいに、物事をちゃんと見つめられる人間になりたいのかも」
独り言のような語りを、リックスは静かに聞いてくれていた。
置いた手をもう少しリックスの方へと近づけた。今度は、指先が軽く触れた。
温かい。安心する温度がじんわりと伝わってくる。
「ねえ、『普通』ってなんだろうね」
弟への断ち切れぬ愛着と罪悪感。それを現実という都合の良い箱に押し込めようとしている自分に、美亞未は言い知れぬ欺瞞を感じていた。
「普通、か」
リックスの瞳がどこか冷たい硝子玉のように見えた。
「美亞未、プラトンはかつて、俺たちが現実と呼んでいるこの世界は、真実の姿ではなく、イデアの影に過ぎないと言った。君が今直面している、愛や家族、進路という目に見える現実の正しさも、ある側面から見れば、社会が都合よく作り出した影の一つに過ぎないのかもしれない」
突然始まった哲学的な話に、美亞未は小さく息を呑んだ。いつもの、リックスの思考実験が始まる合図だ。
「影……?」
「そうだ。血縁の愛、男女の愛。それらを明確に区別し、境界線を引くのは、社会の秩序を維持するための制度、つまり『影』のルールだ。だが、君の魂の奥にある渇望や迷いは、もっと根源的なものだろう? なら、どちらがより『普通』に近いと言えるのかな」
リックスの言葉は、美亞未の歪みを全否定もしなければ、肯定もしない。ただ、より深い混迷へと誘っていくようなものだった。
美亞未は、彼の手のすぐ近くにある自分の手を見つめた。
触れ合った指先から伝わってくるリックスの体温は、こんなにも温かいのに、彼の紡ぐ言葉は氷のように冷徹で、そしてひどく甘美だった。
「オレは君に、一人の少女として普通の恋をして欲しいと思うよ」
リックスの言うことは、いつも正論のように聞こえて、同時にひどく危険な崖の縁へと自分を誘い出しているようにも思える。
「…どうして、そんなこと言うの? リックスくんならわたしなんかよりももっと素敵な人とか選べるでしょう。背も高くてスタイル良くて髪も短い……」
「オレは君に知性を感じている。君と話しているととても有意義な時間を過ごせる。君はオレとは違う世界を見ているだろう? そんな君だから惹かれるんだ」
「え――」
「好きだ」
その言葉は、図書館の静寂の中にあまりにも自然に溶けて、一瞬、美亞未の耳には意味を持たない音の羅列にしか聞こえなかった。
リックスの表情は崩れない。いつものように整っていて、いつものように穏やかで、そしていつものように、その奥にある本心がひどく見えにくい。
けれど、触れ合っている指先から、確かに彼の熱が伝わってくる。
だから美亞未は、間の抜けた声を漏らすことしかできなかった。心臓が、耳の奥でうるさいほどの鼓動を鳴らしているのは、気のせいではない。
リックスから向けられる言葉は、いつも美亞未の歪んだ部分を解剖するためのメスのようだった。自分を映す鏡であり、安全な観察者。
それなのに、今彼が口にしたのは、もっと泥臭くて、生々しい、境界線を踏み越えてくるための言葉だった。
「え、リックス、くん……?」
美亞未は思わず指先を引こうとした。しかし、それよりも早く、リックスの長い指が、逃げるのを許さないように美亞未の手をそっと包み込んだ。
冷徹な言葉を紡ぐ唇とは裏腹に、その手掌は驚くほど温かく、そして力強い。
「君はオレが初めて興味を示した人だ。君が弟との関係に苦しみ、現実という名の『影』から逃れようともがいている姿は、確かに歪んでいるのかもしれない」
リックスは美亞未の目を見つめたまま、まるで愛を囁くような低く甘い声で続けた。
「だが、その歪みすらも、オレにとっては『特別』だ。君の知性が、その葛藤をただの自堕落に終わらせず、哲学的な問いにまで高めている。汚れていてもいい。軽蔑なんてしないさ。だからこそ、オレは君のすべてを知りたいし、すべてをオレのもので満たしたいと思うし、君を救いたいとも思う」
「特別……わたしが……?」
それは、美亞未が求めていた理解者としての全肯定のようでありながら、リックスは自分を一人の人間として求めていると言う。
それは、ドロドロとした泥沼から引き上げてくれる救いの手のようにも思えた。
「そうだ。オレの目を見て、美亞未」
リックスの青い瞳はどこまでも美しく、美亞未の視線を強く捉えて離さなかった。




