4 夜の回想
羽衣希亞樹は朝からずっと苛立っていた。
原因は一つ。
今朝の出来事だ。
姉の隣にいた留学生の青年――。
美亞未は「優しかったよ」と何気なしに笑って話したが、希亞樹にはその笑顔が気に入らなかった。
姉が他の男のことを「優しい」と言うのが許せない。
ムカムカムカと小さな嫉妬心が、希亞樹の身体を支配していく。
頭からあの青年の顔が消えない。
背が高くて、金髪で、目が青くて――いかにも絵になるタイプだ。
スマートフォンの画面はすでに零時を過ぎている。
部屋の電気は消したが、まだ眠れないままだ。
暗闇をぼんやりと見つめながら、希亞樹は壁一枚隔てた隣の部屋にいる姉の姿を思い浮かべていく。
もう寝ているだろうか。
まだ起きているだろうか。
希亞樹は目を閉じた。
スマホを手に取って、画面を開いて、何をするでもなくまた閉じた。
眠れない夜というのは、余計なことばかり考えさせる。
きっかけは小さなことだった。
『アキー。また泣いてるの? ほら、いたいのとんでけ~』
思い返せば、幼い姉弟ならばありふれた光景の一つだったのかもしれない。
擦りむいた膝に、美亞未の小さくて柔らかな手が触れる。
『え? まだいたいの…? う~ん、じゃあ……』
ちゅっ。
と、希亞樹の額に美亞未の唇が触れた。
『これはね、おまじないなんだよ。ミミとアキだけが知ってるひみつだよ』
そう言って姉は人差し指を唇に当て微笑んだ。
『うん! わかった! ありがとうお姉ちゃん』
そう笑い返すと美亞未も嬉しそうに笑った。
そんな思い出が、希亞樹の記憶には鮮明に残っている。
転んで痛がっているとき、怖い夢を見て眠れない時、迷子になって見つけてもらった時――希亞樹が泣いていると、姉はいつもおまじないをしてくれた。
その関係は今でも続いている。
数日前も当たり前のようにキスをした。
「あっ」
「ぇ、わっ!?」
希亞樹と美亞未の声が重なり合う。
がちゃっと、声掛けもせずに姉の部屋の扉を開けたら、美亞未と目があったのだ。
帰宅したばかりなのか、ちょうど制服を脱いでいる最中だった。
希亞樹の目に、肌色とは別の色が飛び込んで来た。
「ご、ごめんっ!」
慌ててバタンっ!と、音が出る勢いで扉を閉めると、すぐに「ノックしろっていつも言ってるでしょ!」と、扉越しに怒鳴り声が聞こえた。
「わ、わざとじゃねーって」
希亞樹も扉越しに言い返す。
記憶が正しければ、生徒会の業務で姉は帰宅が一時間ほど遅れると聞いた。
「…で、なんの用?」
部屋着になった美亞未が扉を開け、ごく普通に希亞樹を部屋へと招き入れる。
「充電器貸してくんね? 学校に忘れてきてさ…」
「はあ? なにそれ…」
呆れながらも、美亞未は余っているコードを手渡してくれた。
「朝返してね」
「サンキュー…。って、姉貴この本買ったんだ」
ふと、本棚に目をやると今話題になっている本が帯付きで入っていた。買おうか迷っていたもので、自然と手が伸びる。
「あ、ちょっと触らないでよっ! まだ読んでないんだからっ…!」
しっしっと、追い払うように美亞未が手を動かす。
「なんだよ、姉貴のケチ。読まないならオレが読んでやるのに」
と、言いながら希亞樹は自室に戻らずに、美亞未のベッドへと腰をかける。
「アンタが先に読むとネタバレしてくるじゃん」
「じゃあ、早く読めばいいじゃん」
「わたしにはわたしのペースがあるのっ! 用がないならもう出てくっ!」
ピっと美亞未が部屋の扉を指さす。
「…んーまあ、あれしようぜー。今日課題いっぱい出てさーやる気出ないんだよなー…ぁ、なんて…」
希亞樹が自身の唇を差し出しながら、姉へと提案する。
「…調子に乗らない」
「いいじゃんか別に。減るもんじゃないし。…多分」
「しない。わたしも色々やることがあるから早く部屋戻ってな」
リビングに降りようとする美亞未の腕を、希亞樹は掴んでいた。
「待ってよ」
「待たない、離して」
「したい」
「しない」
ああ言えばこう言う。
こうなってしまえば、いくら美亞未が拒絶しようとも譲らないのが希亞樹だ。
ぐいっと腕を引っ張って、隣に座らせる。
「わっ、ちょっ……!?」
「減るもんじゃないしいいじゃん」
もう一度同じこと言い、姉の唇に乾いた唇を重ねていた。
「ん、むっぅ…」
唇を重ねた勢いのまま、ベッドへと姉を押し倒す。
「ちょっと…」
長い髪がベッドの上に広がる姿が、希亞樹は好きだった。
顔が離れて、またキスを繰り返していく。
ふに、ふにゅ、と唇の感触を確かめ合うように、何度も触れ合わせていく。
「ちょ、ちょっと、もういいでしょ……」
美亞未の手が、希亞樹の肩を押し返そうとする。
「もうちょっとしたい」
「だーめ」
「じゃあさ、」
ぼすん、っと希亞樹は最後に美亞未の胸に顔を埋めた。
「あっ、な、っ!?」
「やっぱ姉貴の胸気持ちいいなあー」
「こ、こらっ! いきなりなにすんのよっ!」
ぐりぐりと頭を左右に動かして、その感触を楽しむ希亞樹。
すーはーすーはーと、胸に顔を埋めながら、美亞未の匂いを嗅ぐように息を吸い込んでいく。
「それ、くすぐったいからっ! ひゃ、ぁっ…!」
不意に、美亞未の口からは高い声が漏れた。
その声に希亞樹の動きも、ピタリと止まってしまう。
「へ、変な声出すなよ…っ!」
胸から顔を離した希亞樹の頬はとても熱かった。
「誰のせいだとッ…! もう、希亞樹…クラスの子にもこんなことしてないでしょうねえ」
「は、はぁ!? するわけないだろッ! オレは姉貴だからしてんだっ!」
「なら、いいけど…。いや良くないか…?」
「…姉貴は、オレとキスしたくないの?」
「なぁに、急に……」
「オレは、姉貴とキスしたり胸さわったりするの、すげー気持ちいいよ」
希亞樹のストレートな物言いに、美亞未は「あー……」ともごもごと口を動かした。
「だから、もっといっぱいしたい」
「希亞樹は…強引なのっ! さっきだって、ダメだって言ったのにさ…っ!」
美亞未がぷいっと横を向いた。
「じゃあ、キスしたい」
「ダメだ」
希亞樹が改めて欲望を口にするが、美亞未ははっきりと拒絶した。
希亞樹はむっと口をへの字に曲げる。
「オレばっかりしたいって言ってるじゃんか…っ! 姉貴はオレのこと嫌いなのか?」
「なんでそうなるわけ…」
反れた視線が、また元に戻る。
「だってオレはもっとしたいっ。姉貴のこと好きだから…大好きだからさっ」
「……っ!」
ぱちくりと、美亞未の目が大きく見開かれ、瞬きすらも忘れた。
そうして、姉弟の間に何とも言えない沈黙が流れた。
ブォォ――……と車が通り過ぎる音、チャリンチャリンと自転車がベルを鳴らす音、待ってよーと友達とはしゃぐ子どもたちの声が、外から聞こえてくる。
「なあ」
沈黙を先に破ったのは希亞樹であった。
「姉貴」
「な、なに?」
美亞未はごくりと唾を飲み込んだ。
「オレのこと嫌い?」
「……き、らいじゃない」
「じゃあ好き?」
「……す、」
美亞未の言葉が終わる前に、希亞樹が身を乗り出して、もう一度美亞未と唇を重ね合わせた。
「んっ……」
美亞未と希亞樹の額からは、つぅ、と一雫の汗が落ちていく。
まだ成長途中の細い希亞樹の手が、美亞未の肩を抱き、そのまま身体の線を確かめるようにゆっくりと下へと降りていく。
どくん、どくん、と互いの心音が聞こえるくらいに感情が昂っていく。
キスをしている時とは違う、もっと別の感情、高揚感。
希亞樹の指先が、美亞未の太ももへと触れる。
「ン、ふ、はぁっ、ぁ…」
美亞未が僅かに口を開けた瞬間であった。
ぬちゅん。
「~~~~っ!?」
舌同士が触れた刹那、美亞未は声にならない声を上げ、反射的に希亞樹の身体を突き飛ばしていた。
「な、な、な、なっ!? な、に、すんのっ!? えッ…?」
美亞未は自身の口元を押さえて、ベッドの下に転がる希亞樹を睨み付ける。
「イテテ…なにすんだよ姉貴……」
大きな音を立てたせいか、母が慌てた様子で美亞未の部屋へと駆け込んできた。
「ちょっと! 何を騒いでるのッ!」
母の視線は、ベッドの下で転がる希亞樹を見て、次にベッドの上で顔を真っ赤にし口元を押さえている美亞未を捉えた。
「……あんたたちは本当に何をしているのよ。もう高校生でしょうが……」
「あっ、い、いや…あの、ぁ、ガ…っ! 大っきな蛾が入ってきてビックリしただけで…」
訝しげな母の視線に、美亞未が慌てて言いわけをする。
「蛾?」
「う、うん。アキが退治してくれたけど…」
「あっ、そう…? まあ…アキも変なことするんじゃないよ」
「してねえよっ!」
床に転がったまま希亞樹は、母に言い返した。
ぱちりと目を開けてまだ充電器を返していないことを、希亞樹は思い出した。




