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3 見えるもの

 それを見たのは、この日本の高校にやってきて、わずか二週間ほど経った頃だった。

 まだ校内の地理も満足に把握できず、日本語の授業で使われる独特の敬語に舌を巻いていた時期だ。

 その日、リックスは生徒会室の近くにある屋上――に続く階段へ逃げてきていた。授業の喧騒と、好奇の視線から少しだけ距離を置きたかった。

 踊り場の窓から見える空は、どこから見ても変わることはないはずなのに、異国の地では別の色に見えてくる。

「…ん?」

 屋上はしっかりと施錠されており、立ち入ることは出来なかった。

 リックスは窓から見えた景色に、足を止めていた。

 おそらく空き教室だろう、カーテンも引かれていない無人の教室――に、二つの人影が見えたからだ。

女子生徒と、男子生徒。

 女子生徒には見覚えがあった。聞き慣れない名字に、珍しい髪色をしていたからだ。

 向き合って立つ二人の距離が、ひどく近い。

 リックスが状況を飲み込むより先に、それは起きていた。

 静かに。ごく自然に。まるで何百回も繰り返してきたことのように。

 女子生徒が目を閉じて、男子生徒が少しだけ前に傾く。

 リックスは完全に動けなくなった。立ち去るべきだということは分かっている。なのに足が言うことを聞かなかった。悪趣味だと分かっていながらも、視線が外せなかった。

「…人目のない所でしろよ」  

小さな愚痴を吐いてリックスはゆっくりと、音を立てないように壁に背を張りつかせる。

 冷たいコンクリートの感触が制服越しに伝わってくる。呼吸を整えようとしたが、上手くいかない。

 授業の喧騒と好奇の視線から逃れてきたはずが、今度はまったく別の意味で、身動きが取れなくなっていた。

『ただのキス』を見た、だけならば貰い事故として処理すればいい。

 しかし、リックスは妙な違和感を覚えていた。

恋人同士を見ているはずなのに、二人の間に漂う空気が、リックスの知っている「好き合う二人」とは微妙に違う気がした。うまく言葉にできない。窓越しだから見間違いかもしれない。それに、二人の顔立ちがどこか似ていると思ったのも、おそらく気のせいではないだろ。

 二人が、姉弟だと知ったのはすぐのことだった。

それが意味をすることは、禁忌とされる行為だ。リックスを動かすのは正義感からか、あるいは好奇心からか――……。

 だから、電車の中で美亞未の姿を見たのは、偶然であった。

 駅のホームで交わした会話を思い出しながら、リックスは考える。

「…」

 純粋無垢といえば可愛げはあるが、その関係は決して許されないことだ。

 無知なことは罪ではない。だが、知らないこともまた罪である。

 今はそれで良いのかもしれないが、いずれ時が来れば互いが傷を負うことになるかもしれないのだ。

 親愛の証として頬や手にするキスとは違う、恋人同士が行う口同士のキス――……。

 二人のキスは、ほんの短い瞬間であったが、リックスは確かに見たのだ。

 敬虔な信徒という訳ではない。

 ただ、教養として『それ』については知っている。

 美亞未と別れた後、リックスは学校には向かわないで近くのカフェで時間を潰していた。

 スマートフォンには、スチュワートからの小言がつらつらと表示されていたが、既読だけをつけて返事はつけなかった。

 「禁忌か……」 

 小さく呟いてみる。

 自分の国でも、似たような話は神話や歴史にいくらでもあった。

 しかし、現実に、しかもこんなに身近で起きているのを見ると、胸の奥がざわつく。

 愛とは何か。

 図書室でスチュワートと話したばかりの問いが、再び頭の中で渦を巻いた。

 家族の愛『ストルゲー』と、欲求の愛『エロス』が混じり合い、歪んだ形になったものか。

 それとも、ただの「間違い」なのか。 

 リックスはアイスコーヒーを口に付けた。苦味が舌に広がっていく。

 グラスを置き、目の前に広がる液体をじっと見つめる。

 例えば、カフェオレとカフェラテ。

エスプレッソと牛乳か、ドリップコーヒーと牛乳か。豆の挽き方か、抽出の仕方か。飲む人間の大半は、目隠しをされれば区別もつかないだろう。

だが、メニューに名前が二つある以上、それは「別のもの」として存在している。

 禁忌――誰かが「これは違う」と線を引いたものだ。法律、宗教、慣習――線を引いた主体は時代によって違う。だとすれば、線そのものに絶対の根拠はあるのか。

 カフェラテとカフェオレを分けているのは、製法という外側の違いだ。

 では、愛を分けているのは何か。

 対象か。血縁という外側の条件か。

 リックスは苦味の残る口の中で、その問いを転がしてみる。

 味は同じだ。しかし名前が違う。名前が違えば、許されるものと許されないものが生まれる。

 ――それで納得できるのか?

 できない、とリックスは思う。

 同時に、だからといって同じであると言い切ることも、できなかった。

 コーヒーと牛乳は、混ざり合えば元には戻らない。どちらが先に注がれたかも、もう分からない。

 それが答えなのか、それとも別の問いの始まりなのか――リックスにはまだ、判断がつかなかった。

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