2 朝の出来事
羽衣美亞未は、朝から苛立ちを隠せないでいた。
一つ目は、朝のトースト。毎朝お気に入りのイチゴジャム出食べるのがルーチンであるが、母がジャムを買い忘れてしまい今朝はバターだったこと。
二つ目は、弟である希亞樹を起こしてくれと母に頼まれたこと。普段から家事をしてもらっている以上イヤだとも言えずに起こしに行けば、弟は半裸で寝ていたのだ。
朝から見たくもないものを見てしまい、バターの味も忘れてしまう程に美亞未のテンションは下がっていた。
三つ目は、現在進行形で痴漢をされているということだ。
さわさわとスカートの上から這い回る手に、ゾクゾクと背筋が震えていく。 腕を動かそうにもパック詰めされたように、固まって動けない。
暑いと寒いの感情が美亞未の身体を駆け巡り、じっとりと嫌な汗が額から滲み出ていく。
学校までの最寄りまでは、あと三駅と十五分――。
美亞未は無心でいようとした。
家を出る前にみた占いは一位だった。ラッキーカラーはブルー。
仕事運・恋愛運・金運全部二重丸であった。
――母さんにジャム忘れないでってまた連絡しないと…。アキはもう家出たのかなあ。あ~あ。姉って面倒くさいよなあ、本当。なんでだらしない弟の面倒まで見ないと……。
あれこれ考えていく。だが、ガタンっと電車の揺れに合わせて、スカートの裾が捲り上げられた感覚がした。
「ぎゃっ…!?」
小さな悲鳴のような声が上がる。
このまま、声を出すことが出来ればどれほど良かったか。
美亞未は口を開けたまま固まってしまう。
流れていく景色の中に、自分の間抜け面が窓に映し出されていく。
周囲の乗客たちは誰もこちらを見ていない。座席で眠っている男、イヤホンをした制服の少年、スマホに目を落とす女、網棚に視線を投げたまま揺れているサラリーマン――。
この車両の中で、美亞未だけが、今この瞬間を知っている。
声にならない言葉が、喉の奥で潰れていく。
――ああ、最悪な日になりそう…。なんで私なんだろう。他に可愛い子なんていっぱいいるのにぃ……。
美亞未は窓に映る自分の姿を見つめた。
生まれつき赤茶の髪色に、ウェーブの掛かった長い髪――……。
美亞未という名前は、三時三分に生まれたから付けたそうだ。相性は、ミミ。
次の駅のアナウンスが流れる。あと二駅、いやまだ二駅ある。
美亞未は唇を噛んで、つり革を強く握り締めていた。指の関節が白くなるほど。
その時だった。
「…すみません、ちょっといいですか」
低く、静かな声が聞こえた。怒鳴るでもなく、騒ぐでもない。ただ、妙に通る声。
美亞未の隣に、すっと人が割り込んでくる気配がした。
背が高い。それだけは分かった。
這い回っていた手が、ぴたりと止まって離れていく。
「…顔色が悪い。降りるぞ」
「へ…?」
同じ制服だ、そう思ったのも束の間。
彼に腕を引かれて、ホームに降りていた。
窮屈だった満員電車から解放され、美亞未は安堵と共に深呼吸を何度か繰り返した。
人の流れに逆らうように端へと移動し、電車が去っていくのを二人で見送る。
「…ありがとう。落ち着いたよ」
助けてくれた青年へと微笑みかけた時、ようやく彼が留学生のリックス・ティルミであることに気が付いた。
「あ、ティルミ、くんだっけ…?」
美亞未は目を瞬かせながら、彼の顔をまじまじと見つめる。
外国人らしく背はすらりと高く、それでいて肩幅のしっかりした体つき。短く整えられた金色の髪に、くっきりとした二重の目を彩るのはブルーの虹彩だ。
留学生のリックス・ティルミは、見慣れた制服を着こなしながらも、どこか浮世離れした雰囲気をまとっていた。
美亞未の問いに、リックスが軽く頷く。
「…生徒会の羽衣、だよな。……大丈夫か? 顔が真っ青だったぞ」
低く落ち着いた声。まだ不慣れな日本語が、妙に耳に心地よく響く。
美亞未は慌てて首を横に振った。
「う、うん……大丈夫。ありがとう。助かった。本当に……」
声が少し震えているのは気のせいではない。先ほどまでの嫌な感触が、まだスカートの上でじんわりと残っている気がして、埃を払うようにポンポンっと撫でられた箇所を手で払った。
リックスは何かを察したのか、視線を少し逸らしながら言った。
「電車の中でああいうのは、よくある話だと聞いたが……まさか目の前で起きるとは思わなかったな。警察に届けるか?」
「えっ!? い、いや……大丈夫。証拠もないし、顔も見てないし、面倒くさくなるだけだから……」
美亞未は弱々しく微笑んだ。実際、今日の最悪な朝の積み重ねで、もう何もかも投げ出したくなっていた。占いの「全部二重丸」が嘘みたいだ。
リックスは少し考えてから、ポケットからハンカチを取り出した。真っ白で、アイロンが丁寧にかけられている。
「汗、拭いた方がいい。ほら」
「……ありがとう」
受け取って額を押さえると、ほのかに石鹸のいい匂いがした。なぜかそれで少しだけ胸が落ち着いてきた。
「…座るか?」
リックスの言葉に、小さく頷く。
「はあ…ほんと死ぬかと思った……」
ベンチに腰をかけて、美亞未はまた大きく息を吐き出していく。
煩わしかった心臓の音も、漸く落ち着きを取り戻してきていた。
「あ、学校…平気…?」
まだ次の電車に乗れば、間に合う。だが、リックスは緩やかに首を横に振った。
「君を放っておくほど薄情じゃないさ」
リックスの指先が、頬に掛かった髪を払った。
「え…あ、どうも……?」
――優しいんだなあ…。
美亞未は、ぼんやりとホームを眺めていた。
次々と人が乗り込み、また吐き出され、駅の空気はいつも通り忙しく動いている。なのに、自分だけと隣の男の子だけが、時間の外に切り取られたみたいだった。
リックスは、別段何かを言おうとしている様子もなく、ただ静かにそこにいた。他の子なら、気まずさを埋めるように何か喋り出しそうなものだが、沈黙が、不思議と苦ではなかった。
気まずい、というよりは、どう距離を測ればいいかわからない、という種類の静けさだった。
同じ学校に通っているとはいえ、美亞未とリックスはほとんど接点がない。 留学時に生徒会で顔合わせをして、学校でたまに廊下ですれ違ったり、全校集会で同じ空間にいたりする程度だ。
名前や顔は知っていても、喋ったことはあまりなかった。
「……あの、ごめんね。電車」
「気にするな」
短い返事だった。愛想がないというより、それ以上付け足す気がない、という感じ。美亞未はハンカチを握ったまま、もう少し言葉を探した。
「でも、遅刻したら困るんじゃ……」
「それは、君も同じだろう」
「…そうだけど」
君、という二人称がどこか異国の言葉のように聞こえた。
美亞未はこっそり彼の横顔を盗み見る。整った顔立ちだとは思っていたが、こんなに近くで見たのは初めてだった。くっきりした目元に収まるブルーの虹彩は、ホームの蛍光灯の下でも、どこか違う光を映しているみたいに見える。
――って、何じっと見てんだ私…。
くすり、と笑ったような音が聞こえたが聞こえない振りをする。
「……ところで」
今度はリックスの方から口を開いた。
「羽衣、という名字…印象に残るな」
美亞未は少し目を瞬かせた。
「…ああそうだね、珍しい方だと思うよ」
「こっちに来た時に、生徒会の紹介があっただろう。その時に聞いて、覚えていた。羽衣、という響きが面白かったんだろうな」
淡々と言う。覚えていた、という事実を、特別なことでもないように述べる口調だった。
「へえ……」
美亞未は少し意外な気がして、リックスの横顔を見つめていた。
「それと他には、髪」
「髪?」
美亞未は自分の髪に触れた。朝の湿気でウェーブが少し緩んだ、赤茶の毛先。
「あはは、よく言われるよ。生まれつきで染めてないよ」
「そうか」
それだけ言って、リックスはまた黙った。好奇心を満たしたら終わり、という感じだった。追加の感想も、褒め言葉もない。
なのに美亞未は、なんとなく悪い気がしなかった。
じろじろ見られるのでも、変だと言われるのでもなく、ただ事実として受け取られた感じがしたから。
それから二、三本電車を見送り、リックスにハンカチを返そうとした、その時だった。
「姉貴!」
よく見知った声と同時に、駆けてくる人影が見えた。
希亞樹だ。
息を切らして、美亞未の前で立ち止まる。
「あれ…アキどうしたの?」
アキ。それが弟の愛称だ。
「どうしたもこうしたも…何してんだよ、こんな所で」
もう遅刻は確定であるから、リックスと二人でゆっくり行こうかと談笑していた所だ。
希亞樹はいつも遅刻しないギリギリの電車に乗るのだが、どうやら折り返して来たようだった。
「ああ、ちょっと人酔いして…。そしたら、ティルミくんが介抱してくれたのよ」
美亞未が視線を動かすと、希亞樹の目がピタリとリックスで止まる。
「…誰、こいつ?」
その声は、質問というよりは確認のようでもあった。
「留学生だよ。ほら、この間の全校集会で紹介したじゃん」
「そうだっけ?」
「はー全くバカなんだから…」
「…ブラザーか」
「どぅも」
値踏みするような、それでいてどこか子どもっぽい、むき出しの警戒心に、美亞未は苦笑するしかなかった。
「別に何もないってば」
「ああ。彼女を見かけたのは、偶然だ」
リックスが言葉を返すと、希亞樹は鼻で小さく息を吐いた。
「…姉貴が世話になったなら、まあ」
礼を言っているのか言っていないのか、よく分からない言葉を残して、希亞樹は美亞未の隣に割り込むように立つ。リックスとの間に、自然と体を入れる形で。
「ちょっと…」
「次の電車、もうすぐ来るぞ」
リックスが電光掲示板に目をやったのと同時に、アナウンスが鳴った。
「あれ、ティルミくんは乗らないの?」
階段に向かおうとするリックスの背に、美亞未が声を掛ける。
「用事を思い出した。またな」
ひらりと掲げられた手に、美亞未も小さく手を振り返していた。
希亞樹は最後までリックスの背を見ていた。




