1 イントロダクション
歴史を紐解いていけば、何も不思議なことではない。
人類史を語る上で、それは決して外せないものであろう。
神話の時代から、愛というものは語り継がれてきたものだ。
人が何かを愛する性質は、不変のものである。
国や宗教や民族が変わったとしても、『愛』そのものの本質は変わらない。
愛――……といえども、一言で語れるものではない。
意味も様々だ。
例えば神の愛『アガペー』
欲求の愛『エロス
友の愛『フィリア』
家族の愛『ストルゲー』
遊戯の愛『ルーダス』
手段の愛『プラグマ』
自己の愛『フィラウティア』
偏執な愛『アニマ』……と数えたらきりがない。
なら、愛とは何か。
それは人に活力を与え、生きる力を与えるものか。
それは人に慈しみを、優しさを育むものか。
それは人を成長させ、人を強くするものか。
それは人を癒し、安らぎを与えるものか。
それは人に勇気を与え、前を向かせるものか。
それは人を救い、希望を与えるものか。
あるいは――……愛とは、最も人を変えてしまうものか。
恋愛に狂う者、親きょうだいを殺す者、子を捨て身軽な愛を選ぶ者。
それは時に、神をも殺す毒となる。
『愛』とは言葉では語りつくせないほどの『何か』だ。
あまりにも抽象的で、目に見えるようなものではない。
家族、親友、恋人、そして自分自身。心と心が通じ合うのには、言葉ではない何かがある。
人が他者の心を真に理解するには、やはり言葉や文字だけでは足りないのかもしれない。
人は『心』で相手を理解する生き物だ。言葉や文字はその解釈の手助けをする手段にしかならない。
いや、そもそも『理解』などできないのかもしれない。
理解の一つとして、愛があるのかもしれない。
愛が人を変えるのか、人が愛によって変わるのか、あるいは両方か。
答えはきっとないのだろう。
人の数だけ答えがあるのだから――……。
「難しい本を読んでるんだな」
耳朶を震わせた声に、リックス・ティルミは思考の海から意識を浮上させていく。
ぱたん、と読んでいた本を閉じて、リックスは声の方へと顔を上げた。 「そうか? 普通だよ、普通」
声を掛けてきたのは、同じ留学生であるスチュワート・テルモルであった。
図書室の窓から差し込む光は、すでに茜色を帯びており、一日の終わりを告げようとしている。
「で、何か呼び出しでもあったのか?」
リックスは今日一日、この図書室で活字に目を通していた。
「いや、姿が見えたから気になってな」
横に座ったスチュワートが、閉じられた本の表紙の文字を目で追った。
『愛するということ』
「ああ、ちょっと気になることがあってな」
そのタイトルを隠すように、リックスは背表紙を腕で隠した。
「気になること?」
「愛とは何か、だ」
「愛?」
スチュワートが意外そうに繰り返す。
「意外か?」
「まぁな」
硬くなった身体を解すように、リックスは肩と首を軽く手で揉み、腕を伸ばした
持ち込んだ缶コーヒーは。すでに空っぽだ。
喉の渇きを感じながらも、リックスは再び本を開いた。
――少し頭を使いすぎたか……。
夢中になって読んでいた訳ではない。ただ、リックスは『答え』が知りたかったのだ。
スチュワートに構わず、リックスは、再び本を開いてぱらぱらと斜め読みをしていく。
「オレは愛というものがよく分からない。哲学や神学でも学んで理解を深めようと思ったんだ」
「そりゃ、勉強家だなあ。哲学なんてほら、あれだろ?『我思う故に我あり』つうやつ、だっけか?」
「…いや、オレも分からない。難しい言葉の羅列に、理解した気になれるが実際に設計図があるわけではないからな」
「お前でも分からないことがあるんだな」
「人も機械も万能じゃないからな。だから、思考するんだろう」
そう言うと、くすりとスチュワートが小さく笑った音が聞こえた。
「それもそうか」
今度はリックスが、スチュワートが机の上に置いた本に目をやった。
建築についての本であった。
「…意外か?」
「いや別に…。なあ、一つ聞いていいか?」
「なんだ?」
リックスは本を閉じて、窓の外を見やる。
少しばかり開け放たれている窓から、春の温かな風が吹き抜け、夜の匂いを運んでくる。
「お前は自分の目で見たものを疑うことはあるか? それが真実だとすぐに受け入れることは出来るか?」
「あ? どうしたんだよ、急に」
「哲学だ」
リックスのその声は、どこか威圧的でもあった。
「はあ……」
スチュワートの困った声が返ってくる。
「そうだなあ…」
リックスは窓の外から、室内へと目を戻すと、スチュワートは腕を組み、一生懸命に考え込んでいた。
「…多分、オレは理解ができないんだ」
「理解? なんの?」
「だから、『答え』が知りたい」
「……それが哲学か?」
「さあな」
「なんだそれ。自分の目でみたものが真実かどうか…。オレは自分の目で見たものを疑ったことがないが答えかな」
「…なぜ自分の目でみたものが、正しいと言い切れる?」
「正しいとか間違いじゃなくて、オレは自分の目で見たもの『信じたい』んだ」
「ほう、それで」
興味深そうに、スチュワートの言葉の続きを待つ。
「自分の目で見たものを信じられないってことは、オレは自分自身を信じられないことと同じだからな。それに、いちいちこの食事には毒が入ってるかもしれない…って考えながら生きるのって疲れるだろう」
空の缶コーヒーを、スチュワートが軽く持ち上げた。
「…ああ確かにそうだな」
『自分の目で見たものを信じる』至極簡単なことである。が、その簡単なことが、リックスには難しかった。




