39 ハマルティア
出掛ける用事も遊ぶ予定もない、なんでもない日。スマホのアラームよりも早く目が覚めたのは、はじめてのことかもしれない。
希亞樹はベッドの上で大きく伸びをして、カーテンを開ける。夏の朝の日差しが、部屋の隅々へと入り込んでくる。目が覚めてしまったのは、やはりシャルロリアの存在が気掛かりだからだろうか。
「……」
階段を下りる前に美亞未の部屋を覗いてみたが、やはりそこに姉の姿はなかった。
リビングへと顔を出すと、そこには母と一緒に和気あいあいとした様子で朝ごはんの準備をしているシャルロリアの姿があった。
「あ、きあきくん! おはよう!」
「はよー……」
「あら、今日は随分と早いのね」
寝坊助な希亞樹がもう起きてきたことに驚きながらも、母がどこか嬉しそうに目を細める。
「…で、シャルロリアはなにしてんだよ……」
当たり前のように、母と一緒にキッチンに立つ少女。
昨日のアルバムといい外堀を急スピードで埋められているような気がしなくもなかった。
「ね、ねっ! きあきくん、ボクね、おにぎり作ったんだっ! あとタコさんウインナーも!」
シャルロリアは、自分の成果を褒めてほしいと言わんばかりに、自慢げにお皿に乗ったおにぎりを見せてきた。
ラップに包まれた、ころころとした丸いおにぎり。海苔が巻かれているもの、ふりかけがまぶされているもの、白米そのままのものと、バリエーションは色々だ。
「きあきくんはどれがいい?」
「んー……これ」
まだ目がシャキとしない中で、希亞樹はたまごふりかけのおにぎりを手に取り、いつもの席に座る。
母がおかずのベーコンエッグとタコさんウインナーの皿、それに麦茶を運んできてくれた。
「んだよこの小学生のフルコースみたいな朝食は……」
「文句言うなら食べなくていいわよ。たまにはいいでしょ。朝のお米も」
美亞未が朝はパン派なせいで、羽衣家の朝は基本的にトーストとコーヒーに、良くてサラダが添えられる程度だ。だからこそ、目の前に並ぶ炊き立てのお米の匂いと、少し焦げた醤油の香ばしい匂いは、どこか新鮮で、実家にいるはずなのに妙な特別感があった。
「にしてもどうしたのよ。アキがこんなに早く起きてくるなんて……明日は槍でも降るかしらねえ」
「別にいいだろ、早起きしたって。早起きはなんちゃらの得って言うし」
希亞樹は「いただきます」と手を合わせてから、おにぎりのラップを剥がして口に運んだ。
「どう? きあきくん、おいしい?」
シャルロリアは席にもつかずに、テーブルの向こうから身を乗り出すようにして希亞樹の顔を覗き込んできた。
「ん……」
絶妙に不揃いな形。少し強めに握られている。
だが、ほんのりとした温かさが、まだ完全に覚醒していない身体にじんわりと染み渡っていく。
もぐもぐとおにぎりを食べる希亞樹を、シャルロリアがワクワクした様子で見つめる。
「おにぎりに美味いも不味いもあるかよ……」
「アキっ! そこはおいしいって言ってあげなきゃダメでしょ」
母に叱られ、希亞樹は「はいはい」と適当に生返事をする。
「ボクね、お米を握る時、きあきくんのこと考えていたんだ」
シャルロリアが、まるでそれが自分の宝物だとでも言うように、おにぎりを見つめた。
「きあきくんはどんな味が好きかなって、どんな顔するかなって考えながら作ったんだよ」
「うっ……」
そんなことを言われてしまえば、希亞樹の出す答えはひとつしかなかった。
「ふふ、シャルちゃん、本当に筋がいいのよ」
「おにぎりの筋ってなんだよ……まあ、おいしいよ、シャルロリアのおにぎり」
「本当!? よかったぁ!」
シャルロリアは嬉しそうに、パッと顔を輝かせて笑う。
そんな子どもたちの様子を、母は微笑ましそうに見つめていた。
朝食を終えると、母は友達に会いに行くと言って出かけてしまい、希亞樹はシャルロリアと二人きりになった。
二人は何をするわけでもなく、ソファに並んで座っていた。
そのシャルロリアも、もうすぐ帰ってしまう。
「あ~あ……もっときあきくんと一緒にいたいなあ……。帰りたくない……」
パタパタと足を動かしながら、名残惜しそうにシャルロリアがぽつりと呟いた。
昼前には迎えの車が、近くの公園まで来ることになっているらしい。
希亞樹は、シャルロリアに言わなければいけないことがあるのを思い出したが、まだ言葉にできないままだった。
「……ねえ、きあきくん。ボクに何か言いたいことがあるんじゃないの?」
シャルロリアの手が、希亞樹の手に重なった。
「……っ、! な、なんで分かったんだ…? シャルロリアってやっぱりエスパーなんじゃ?」
「ふふ、昨日も言ったけどきあきくんのこと見ていれば分かるよ」
大人っぽい微笑を浮かべるシャルロリアの手を、希亞樹はぎゅっと握り締めていた。
気を遣わせてしまって悪いと思ったからだ。すると、シャルロリアも握り返してくれた。
それが嬉しかった。
だから、彼女には素直になろうと思えたのだ。
「あの、あのさ……俺、好きな子いるんだ…」
「…うん」
「だからさ……シャルロリアの気持ちはすげー嬉しいんだけど、その、お前の事可愛いとは思ってるぜっ! でも、やっぱり気持ちには答えられないっていうか……」
「……うん。知ってる」
シャルロリアの双眸が、寂しげに揺らめいた。
「ごめん……」
今は、謝ることしか出来なかった。それが誠実だと思ったからだ。
「……でも、ボクは諦めたくないんだ!」
「えっ?」
思いもよらないシャルロリアの言葉に、希亞樹は驚いたまま固まってしまう。
そんな希亞樹に構わずに、シャルロリアは続ける。
「ボクは、きあきくんのことが大好きだよ! 前にも言ったよねっ! きあきくんに好きになってもらえるように頑張るって! だから、好きでいることはいいよね?」
「シャルロリア…」
シャルロリアの真っ直ぐな気持ちに、希亞樹はなんと答えるべきか迷っていた。
希亞樹が美亞未を想う気持ちも、シャルロリアが希亞樹を想う気持ちも、何も変わりはないのだ。
――やっぱりシャルロリアなら、俺のこと分かってくれる。
そう、直感する。
「でもさ……俺なんかのどこがいいんだよ」
「きあきくんってさ、魚に似てるよね」
「……あ? 魚??」
突拍子もないシャルロリアの言葉と共に、口をパクパクとさせる。
初めて言われた言葉だ。
「……それって、褒めてんのか…?」
希亞樹は微妙な表情で、小さな少女を見つめた。
「褒めてるよ」
と、言われてもいまいちピンと来ない希亞樹であった。
「魚は自由に水の中を泳ぐでしょう? きあきくんはその魚みたいに、自分の好きなことをしている。とっても楽しそうで羨ましいなっていつも思うよ」
「お前だって…自由だろ」
何なら自分よりも、自由に生きていると希亞樹は思うのだ。
「ふふ、ありがとう」
シャルロリアは希亞樹に優しく微笑みかけた。
その笑みには、少し切なさも混じっているように見えた。
翡翠の双眸に、平凡な自分の姿が映っているのが不思議な気持ちにさせる。
「俺さ――」
希亞樹が口を開きかけた時だ。
「きあきくんの好きな子って、どんな子なの?」
「え? あー……、そうだなあ……」
「ボクの知ってる子? 同じクラスだったりして!」
希亞樹は、美亞未の好きなところを思い浮かべていく。
「え、あーそ、そうだな…。なんつうか、俺のことずっと見ていて欲しいって思うんだ。俺が何かする度に笑って、怒ったりしてさ、そういう色んな顔ずっと見ていたんだ。ちょっと弱っちい所もあるけどさ、俺が何をやっても、どんな時でも一緒にいて、それで……俺のことずっと好きでいて欲しいって思う……」
「うん」
シャルロリアは、ただ静かに話を聞いてくれていた。
「でも、最近はさ、俺じゃない別のやつを見てるんだよな……。それがすっげえ嫌で……。だから俺をもっと見て欲しいんだ! 俺のこともっと好きになって欲しい!」
「きあきくんって意外と独占欲が強いんだね?」
「えっ? そ、そうか……?」
「うん、でも、その気持ち分かるよ」
シャルロリアは、今度は希亞樹の手を自分の頬に当てる。
「あ、おい…」
「ボクもね、好きな人のことはやっぱり独り占めしたいって思うから」
シャルロリアの眼差しは優しい。
「その子のこと大好きなんだね」
そんなシャルロリアの言葉に、背中を押されるようにして、希亞樹は秘めていた本音を口にしていた。
「……ああ、好きだよ。姉貴のこと大好きだ。姉貴は太陽みたいなもんかな」
「――は?」
感情のいっさいが消え失せた冷徹な声が、希亞樹の耳朶を打つ。
それまでリビングを満たしていた穏やかで温かい空気が、一瞬にして凍りついた。
「え、ど、どうした…?」
頬に触れていたシャルロリアの手が、まるで汚いものに触れたかのように、バッと拒絶の動きで離れていく。
「今、なんて言ったの……?」
「え? あ、いや……姉貴は太陽みたいだって……」
「違う。その前だよ」
「あ、姉貴のことが大好きだ、って……」
「お姉さん? ねえ、それってどういう意味で?」
シャルロリアの声色は、今や完全に震えていた。それは悲しみではなく、底冷えするような動揺と、フツフツと湧き上がる怒りの震えだ。
「は? 好きに意味なんてねえだろ。俺の好きはお前が俺に好きって言うのと同じだよ」
思っていた反応とあまりに違う。希亞樹の心臓がドクンと嫌な音を立てて跳ねた。
「なに、それ」
シャルロリアなら「そっか、素敵だね! 応援するよ」とでも笑ってくれると思っていた。
だが、目の前の少女の顔からは完全に表情が消え失せている。
俯いた彼女の影が、妙に大きく、不気味に広がって見えた。
不穏すぎる空気に、希亞樹は血の気が引いていくのを感じていた。
「ほんとに言ってるの? きあきくんの好きな人が、お姉さん……?」
シャルロリアが、喉の奥から絞り出すように呟く。
「……なんで?」
「え?」
「なんで……ボクのことは好きにならないのに、そんな、お姉さんのことは好きになるんだよっ!」
「っ――!?」
鼓膜を突き刺すようなシャルロリアの突然の激昂に、希亞樹は呆然と固まる。
立ち上がったシャルロリアの顔は、真っ赤に染まっている。それは怒りなのか悲しみなのか、希亞樹には分からない。
綺麗だった双眸は引きつり、獣のような鋭さで希亞樹を睨みつけていた。あまりの豹変振りに、希亞樹は息をすることさえ忘れてしまう。
「な、なんだよ……どうしたんだよいきなり……ッ」
「どうもしないよ……」
シャルロリアの瞳の奥に、明らかな軽蔑の炎が灯った。
「……許さないよ」
地を這うような呪詛が、鼓膜にへばりつく。
「は? シャルロリア……? お、おい、なんかお前変だぞ!?」
「変? ボクが!? 変なのは、狂ってるのはきあきくんの方だろっ!」
「な、なんだよっ! 俺が何をしたっていうんだっ!」
訳も分からずに急な怒りをぶつけられ、希亞樹の中にも逆上した怒りが湧き上がってきた。
「してるじゃないか!」
「うるせえなッ! さっきからおかしいのはお前だろっ! 文句あるならハッキリ言えよっ!」
「変だよっ! きょうだいで好きになるなんてッ! それは、神さまだって赦さない、絶対にあってはならないことなんだっ……!!」
「そんなこと、お前には関係ないだろ! 大体っ、そんなの誰が決めたんだよっ!」
むき出しの拒絶をぶつけられ、頭にカッと血が昇っていく。
両親と姉が不在なのは、ある意味僥倖だったのかもしれない。
しかし、シャルロリアの眼差しは希亞樹の反論すら哀れむように、冷たく見下ろしてくる。
「きあきくん……きみって本当に最低だ。汚らわしい……」
「はあ!? なんでそうなるんだよ! 意味分かんねえよ! もうお前なんか知らねえっ! 早く出てけよ……!」
売り言葉に買い言葉で叫ぶものの、希亞樹の内心は混乱でしっちゃかめちゃかだった。
目の前にいるのは、昨日まで可愛らしく微笑んでいた少女ではない。
何か得体の知れない怪物に睨まれているような、圧倒的なプレッシャーを感じる。
「関係あるよ……! ボクの大好きな人が、そんな穢れた罪に塗れているなんて……許せない。赦されないよ。ゆるさない、絶対に……!」
「っ、……!」
シャルロリアの鬼気迫る様子に、希亞樹は思わず身構え、身を引く。
だが次の瞬間、シャルロリアの顔からふっと怒りの表情が消えた。
代わりに、ゾッとするほど純粋で、ギラギラとした狂気の輝きがその瞳に宿る。
「あ……そうか、分かった。そのお姉さんが、きあきくんを誑かして、毒しているんだね。可哀想に……。でも、もう大丈夫だよ……。ボクが、きあきくんをあの女から救ってあげるから……ね?」
「はあ? な、なにいってんだよ、お前……っ!」
シャルロリアの言葉の意味が理解できない。いや、理解したくなかった。
彼女の瞳は、狂おしいほどの光を放っている。
そのぎらぎらとした眼差しは、獲物の息の根を止める瞬間を狙う肉食獣そのものだ。
背筋に冷たい汗が伝うが、その妖しい瞳からどうしても目が離せない。
蛇に睨まれた蛙のように、身体がすくんで動かなかった。
「……ほんとうは今すぐにでも、きあきくんをボクだけのものにしたい。……でも、もう時間だ」
シャルロリアが、ぽつりと、掠れた声で呟いた。
「……またね、きあきくん。夏休み……もっと一緒に遊びたかったな……」
先程までの激昂と狂気が嘘のように、いつもの鈴を転がすような穏やかな声色に戻った。
シャルロリアは何事もなかったかのように、上品な足取りで玄関へと向かっていった。
けれども、去り際に振り返ったその顔に、いつもの無邪気な微笑みはなかった。
氷のように冷たく、すべてを支配しようとする傲慢な眼差しが、希亞樹を射抜いた。
バタン、と静かにドアが閉まる音がやけに大きく聞こえた。
静まり返ったリビングで、希亞樹はただ自分の激しい鼓動を聞きながら、立ち尽くすことしか出来なかった。




