38 祈り
「あ、そろそろ時間じゃないかな?」
シャルロリアが立ち上がったので、希亞樹もスマホで時間を確認してから腰を上げた。
「戻るか」
「うん」
車に戻るまでの帰り道、二人ははぐれないようにと再び手を繋いだが、それ以上言葉を交わすことはなかった。
「おかえり、楽しかったかい?」
車に乗り込むなり、父の微笑と共に聞かれた。
「はい、楽しかったです」
希亞樹よりも先に、シャルロリアが答えたので、希亞樹は何も言わないことにする。
「降ろすのは駅前で大丈夫かい?」
「あの…おじさん、ボク今日はきあきくんのお家に泊まりたいです」
「うん? どうしたんだい、いきなり…?」
「実は……寮の門限が二十二時までで、今からだと門限過ぎちゃうから……でもでも今ならメイドに頼んで宿泊届け出せば怒られないからっ! ね、きあきくんいいでしょ!!」
「いいでしょ、じゃねーよ。無理に決まってんだろ。いきなり泊まりだなんて。アホか」
「そうか、分かった」
だが、父はシャルロリアの申し出をすんなりと受け入れてしまう。
「は!? 何言ってんだよ! シャルロリアがちょっとかわいいからって鼻伸ばしてんじゃねえか!?」
「いいじゃないか部屋も一つ余っているんだ。希亞樹、母さんにメッセージ送って聞いてくれないか」
「はあっ!?」
「友達が困っていたら助け合うものだぞ、希亞樹」
友達。
そう、シャルロリアはあくまで友達だ。
泊まりにきたからといって、なにもいかがわしいことが起きるわけでもない。
「きあきくん、お願い!」
心の中で舌打ちをしてから、母へメッセージを送る。
『急に女友達が泊まりたいっていうんだけど平気?』
『ご飯は?』
『食べてきた』
『一泊ならいいわよ』
母の返答も随分とあっさりしていた。
希亞樹は思わずスマホの画面を二度見する。
「マジかよ……いいってさ」
「な、言っただろう」
「やったー! きあきくん、ありがとう! 大好きっ!」
シャルロリアが飛び跳ねるように喜び、腕に再びしがみついてきた。
「……ったく、いい加減に離れろよ。暑苦しい」
「だってうれしいんだもん」
「そうだ。なにか泊まりに必要なものがあれば買っていくかい?」
「あっ、メイドにきあきくんのお家に届けさせるから大丈夫ですっ!」
「届けさせるって、お前……」
呆れた声を出すのと同時に、シャルロリアはすでにスマホを耳に当てていた。
コール音は一回鳴ったか鳴らないか。驚くほどの早さで相手が出たのが、漏れ聞こえるかすかな電子音で分かった。
「あ、ボクだけど。うん、今からきあきくんのお家に泊まることになったから、外泊の手続きといつものお泊まりセット持ってきて。……え? うん大丈夫。よろしくね〜おやすみっ」
流れるような口調で指示を出し、シャルロリアは満足げに通話を切った。
その間、わずか三十秒ほど。
「……おい、シャルロリア」
「ん? なあに、きあきくん」
門限に遅れそうだから焦って泊まりを提案したんじゃない。
最初から、何が何でも自分の家に泊まる流れを計画的に作っていたんじゃないか。
車を運転する父は「ははは、手際がいいねえ」と感心しているが、希亞樹は騙されなかった。腕にしがみついて「大好き!」と無邪気に喜んでみせた姿さえ、計算通りの演出だったのではないかとすら思えてくる。
「お前、本当は最初からこうするつもりだっただろ。門限がどうのってのも、全部タイミングを見計らって――」
「えへへ、なんのことかなー?」
シャルロリアはきゅっと小首を傾げ、人なつっこい笑みを深める。
否定も肯定もしないその態度が、何よりの証拠だった。確信犯特有の、ちょっと悪戯が成功した子供のような、ずる賢くて、それでいて憎めない瞳が希亞樹を捉える。
「あーあ、もう。完全に嵌められたわ……」
希亞樹は天を仰ぎ、深くため息をついた。
今さら断ることもできず、車は夕闇の中、確実に自分の家へと向かっていく。
街灯の光が、時折シャルロリアの金色の髪を照らしては消える。さっきのお祭りで見た笑顔が、まだ網膜に焼き付いていた。
――姉貴は今日は何してたんだろう。
またその思いが胸をよぎる。
今日一日、シャルロリアと一緒にいて楽しかったことに嘘偽りはない。
「ただいまー帰ったぞー」
「おじゃしまーすっ!」
父の声の後に、シャルロリアの溌剌とした声が、玄関に響いた。
最後に玄関に入った希亞樹は、違和感にすぐ気付いた。
美亞未の靴がないのだ。
「おかえりなさい。あら、その子がお泊まりの子? 可愛いわね〜」
リビングから母が顔を出してきた。
「シャルロリアです。今日はありがとうございます。いきなりだったのに泊めていただき……」
行儀よくシャルロリアが頭を下げる。
「ううん、気にしないで。夜も遅いしね……。あ、そういえばさっきお嬢様に、ってメイドさん? が来てわね。これがお泊まりセットかしら?」
玄関に置いてあるバッグを、母が一瞥すると、シャルロリアも「そうです」と頷いた。
「…なあ母ちゃん、姉貴は?」
「んーミミなら夕立ちで濡れちゃったから、そのまま友達の家に泊まるってさ」
父からクーラーボックスを受け取りながら、母が答える。
「いっぱい釣ってきたのねー。甘露煮にでもしようかしら」
「友達……?」
希亞樹は生返事を返す。
シャルロリアが今夜泊まることよりも、美亞未の言う『友達』というワードが妙に胸の奥で引っかかったからだ。
「きあきくんの家は、ドールハウスみたいで可愛いね」
「ドールハウスって……お前ん家はどんだけ規格外なんだよ……」
シャルロリアに用意されたのは、い草の香る和室であった。
夕食も終え、風呂も終え、後はもう寝るだけである。当たり前だが、敷かれている布団は一式のみである。寝る前にシャルロリアが話をしたいと言ったので、希亞樹は八畳の部屋を訪れていた。
シャルロリアが身にまとっているのは、和室には不釣り合いな青を基調としたネグリジェだ。
「……一緒には寝ないからな」
先手必勝で、釘をさす。
「え、なんで?」
「なんでもへったくれもねぇよ! 普通に考えておかしいだろっ!」
シャルロリアはきょとんとして、それからいつものように笑ってみせた。
「でもボクぬいぐるみと一緒じゃないと眠れないんだよね」
シャルロリアがぎゅっと枕を抱きしめる。
「……人をぬいぐるみ代わりにしようとすんな。大体俺寝相悪いし、一緒になんて寝たらシャルロリアのこと蹴っちまうよ」
「ボクは気にしないけど」
「お前にケガさせたらメイドとかがうるせーだろきっと。とにかく、俺は自分の部屋で寝るっ! あっ! 二階には絶対上がってくんなよ! 来たら絶交だからなっ!!」
「行かないよー約束〜」
シャルロリアはそう言って、ネグリジェの袖口から細い小指を突き出してきた。
「ほら、きあきくんも」
「……ガキかよ」
「うん。ガキだよ」
当たり前のように言葉を真似したことに呆れつつも、希亞樹も小指を差し出す。
シャルロリアの肌は、お風呂上がりだからか、ほんのりと温かい。
「指切りげんまん、嘘ついたらハリセンボンだっけ? まあなんでもいいかっ!」
嬉しそうに歌うシャルロリアを見届けてから、希亞樹は絡めていた指を外した。
「よし、約束したからな。じゃあ俺は部屋に戻る――」
「あ、待ってきあきくん。実はさっき、おばさんからこれ借りちゃったんだ」
シャルロリアが布団の脇から引っ張り出してきたのは、ずっしりと厚みのある古い大きなアルバムだった。
表紙の角は少し擦り切れていて、いかにも家庭の歴史が詰まっているといった風情だ。
「おい、それ……」
「お風呂上がりにリビングを通ったらね、おばさんがね『アキの小さい頃の写真、見る?』って貸してくれたの! ボク、すっごく興味あったんだよね〜」
「なっ!? フッ軽すぎだろ……あのバッ……」
出かかった言葉を飲み込むと、希亞樹は思わず頭を抱えた。
しかし、ここでアルバムを強引に奪い取って逃げるのも大人げない。
それに、シャルロリアの目はすでに好奇心でキラキラと輝いている。
「いいでしょ? ちょっとだけ一緒に見ようよ」
シャルロリアは布団にちょこんと座り、アルバムを膝の上に広げた。
ネグリジェの裾から覗く白い足が、い草の緑によく映えている。断りきれず、希亞樹もあぐらをかいて隣に座り込んだ。
「ほら見て、これってきあきくんが赤ちゃんのとき?」
最初のページをめくると、おくるみに包まれて丸々とした赤ん坊の写真があった。
「……そうらしい。覚えてねぇけど」
「ふふ、面影あるかも。ほっぺたがぷにぷにで可愛い。あ、こっちの3歳くらいのは? おもちゃの車持ってるね」
「それは近所の公園だな。確かそのミニカー、お気に入りで風呂にまで持ち込んでたっけなあ」
「へえ、きあきくんにもそんな可愛いこだわりがあったんだ」
ページをめくるたびに、幼い頃の希亞樹の姿が現れる。七五三の慣れない袴姿で引きつった笑顔を浮かべている写真や、泥だらけになって虫取り網を掲げている写真。
シャルロリアはその一つひとつを愛おしそうに眺め、時にはくすくすと笑い声を漏らした。
そんな中、あるページでシャルロリアの指が止まった。
「あ……この隣に写ってる可愛い女の子って……」
「ああ、姉貴だよ」
そこには、小学校に上がる前くらいの希亞樹と、それより少し背の高い美亞未が写っていた。
二人は手を繋ぎ、大きなひまわりの前で満面の笑みを浮かべている。
「へー。これがきあきくんのお姉さんかっ! 会いたかったなあ……小さい頃からきあきくんと仲良しなんだね」
「まあ、昔はな。どこに行くにも後ろをついて回ってた気がする」
『ミミなら夕立ちで濡れちゃったから、そのまま友達の家に泊まるってさ』
母親の言葉が、再び希亞樹の脳裏をよぎる。
美亞未の「友達」。
今まで姉の交友関係について深く考えたことはなかったが、なぜか今日に限って、その言葉の背後にあるものが気になって仕方がなかった。
「ね、きあきくん、寝る前にお祈りしようよ」
アルバムを閉じたシャルロリアが、胸の前で両手を組んだ。
「は?」
突拍子もないシャルロリアの提案に、希亞樹は目をぱちくりとさせる。
「お祈りって、なんのだよ?」
「お祈りはお祈りだよ。おはよう、おやすみの挨拶みたいなものかな。ほら、手を組んで目を閉じて…ボクがアーメンって言ったらきあきくんもアーメンって返してね。ほら、ボクの方ちゃんとみて」
そうして、シャルロリアがゆっくりと目を閉じて――
「『一日の働きをおえたわたしに、やすらかな憩いの時を与えてくださる神よ、あなたに祈り、感謝します。きょう一日、私を支えてくれた多くの人たちにたくさんの恵みをお与え下さい』アーメン」
「あ、あーめん……」
シャルロリアの真似をして、希亞樹も続いた。
「うん、ありがとう」
シャルロリアが満足気に頷くと、途端に妙な気恥ずかしさが募ってきた。
「…こういうのってさ、意味あんのか?」
布団の上で胡座をかいたまま、希亞樹は疑問を投げかける。
流れ星や短冊にお願いごとをするのとは、少し違う気がすると希亞樹は感じていた。
「うーん、そうだなあ。気持ちのありよう、かな?」
「気持ちの?」
「お昼にも言ったけど、ボク昔は身体が弱かったんだ。それでね、おばあ様が毎日祈ってくれていたんだ。だから、ボクも真似してお祈りをするようになったの。その時は、どんなことをお祈りしていたかは、もう覚えてないけど、おばあ様の気持ちは確かにボクに届いたよ。例えば、今日なんかはボクにとってはすごくいい日だった。だって、きあきくんと色んな所に行ったから。楽しいな、幸せだなって気持ちがいっぱい溢れてきた。だから、ボクの大切な人にもこの気持ちを分けてあげたいなって思うんだ。だから、神さまにお祈りして、届けばいいなって」
シャルロリアが、天井に向けて両手をかざす。
「その人が幸せなら、ボクは嬉しい」
「それが祈る意味になるのか?」
「そうかもね。意味があるとかないとか深く考えないでいいと思うよ。自分のために祈るのか、誰かのために祈るのか……。『祈りとは、世界の意義についての思考である。世界の出来事を私の意志によって左右するのは不可能であり、私は完全に無力である』……ねえ、きあきくんの幸せはなに?」
「俺の幸せ?」
唐突な質問に、希亞樹はすぐには答えることは出来なかった。
シャルロリアが何か難しいことを言っていたのは分かったが、理解することすらしようとは思わない。
「幸せか……」
「喜びとも言い換えられるかな」
「喜び…」
シャルロリアの言葉を繰り返す。
腕を組んで、希亞樹は考えてみた。
大きなことから小さなことまで、希亞樹は考えてみるがどれもしっくりこなかった。
ただ一つ、幸せ、喜び、その単語を聞いた時、美亞未の姿が思い浮かんだ。
「うーん、分かんねえ」
しかし、希亞樹にはそれが幸せと結びつくことなのか、分からなかったから、素直に答えた。
「きあきくんにも分かる日がきっと来るよ。きあきくんは自分の力でその日を見つけて来る。きあきくんはそういう子だよ」
大人びた口調で微笑するシャルロリアに、希亞樹はどこかむず痒さを感じてしまう。
「なんだよ、急に…変なこと言って…。じゃあ、シャルロリアの幸せってなんだよ」
「ボク? ボクはね、一日の始まりと終わりにお祈りすることだよ。今日もお祈りすることが出来た、明日も出来るといいなって…」
「へえ、いいんじゃねえの」
希亞樹がそう言うと、シャルロリアは嬉しそうに「うん」と返した。
「ふふ、お祈りも終わったしもう寝ようか。おやすみきあきくん」
シャルロリアの柔らかな唇が、ちゅっと希亞樹の頬へと触れた。
「お、おいっ」
「きあきくんもおやすみのキスしてよ」
ちょん、とシャルロリアが自身の頬を指さす。
「俺も?」
「うん」
――まあ、頬っぺならいいか……。
希亞樹は渋々といった様子であるが、シャルロリアの桃のような頬へと唇を落とすと、ふふ、と可愛らしい声が聞こえた。
「じゃあ、おやすみ」
「うん、また明日ね」
夜の挨拶を交わして、希亞樹は和室の電気を消し、自室へと戻っていった。
――姉貴は、今なにしてるのかなあ……もう寝たのかな。
雨はもうすっかり上がっている。
美亞未は今頃、その「友達」の家で、どんな風に過ごしているのだろうか。
スマホのメッセージを開くが、美亞未からのメッセージは届いてはいない。
『今日シャルロリアと遊んだ』
短い文と、釣りをしているシャルロリアの写真を添付し、送ってみた。
今日一日、美亞未の姿を見ていない。
それだけで、心はどこか落ち着かない。
豆電球のほのかな灯りは、どこか美亞未の温かさを思い出させる。
じっと、天井を見つめながら美亞未からのメッセージを待つが、既読すら付かない。
待っている間に、美亞未とシャルロリアのことを考えていると、いつの間にか眠りに落ちてしまっていた。




