37 夕闇の中で
「ありがとうきあきくん、今日はすごく楽しかったよ」
時間はあっという間に過ぎ去っていった。
「お、おう…」
シャルロリアの笑顔とは対照的に、希亞樹はどこかぎこちなそうに返事をした。
結局、美亞未とのことを打ち明けられないまま、昼を迎え、夕方になり帰り支度をすることになった。
希亞樹は悩んでいた。
美亞未が好きだということを伝えるべきか。隠し通せるものでも、いずれ伝えなければいけないことではあるが、シャルロリアの目を見てしまうと、どうしても言い出すことが出来ないでいた。
――俺、こんなに臆病だったかな…。
「きあきくん」
「え…? あ……どうした?」
「きあきくんがどうしたの? ぼーっとして」
シャルロリアの双眸が、心配げに揺らめいた。
「あ、なんでもねえよっ」
「そう?」
「向こうは夕立ちのようだな。…希亞樹、シャルロリアさん、少し寄り道をしてもいいかな?」
空を見上げていた父が、口を開いた。
希亞樹も父に倣って、空を見上げる。確かに空の一部だけ雲が灰色に変わっていた。
「俺はいいけど、シャルロリアは時間大丈夫か?」
「うん、平気だよ」
「で、どこ行くんだよ?」
「ああ、さっきチラシをもらったんだがこの近くで縁日をしているみたいなんだ。せっかくだから行ってみないか?」
「えん、にち?」
「ああ、お祭りのことだよ」
シャルロリアの疑問に、父が答えた。
「わ、お祭り? 行きたいっ! 行こうよ、きあきくんっ!」
「ん…」
――姉貴、今何してるかな。
ふと、そんなことを考えてしまう。
美亞未と同じ時間を過ごせないことが、何だか寂しく感じてしまう。
「楽しみだねっ、きあきくんっ」
シャルロリアが希亞樹の腕に抱きついてきた。
「わっ、お、おい…引っ付くなよ」
「ふふ、きあきくん顔真っ赤だよ?」
「うるせっ」
「それじゃあ行こうか。…っと、希亞樹このことは母さんには内緒にしておいてくれよ?」
朝と同じく、後部座席に二人して並んだが特に会話はなかった。
心地よい車の揺れが、希亞樹の眠気を誘っていく。
うとうとしては何度も窓に頭をぶつけ、そのたびに目を覚ます。毛布に包まれているような微睡みの中で、小さな笑い声が、優しく耳朶を震わせていた。
「希亞樹ついたぞー。ほら、これ」
「ん、あ……?」
揺られること二十数分。
駐車場に着くなり、父から百円玉を十枚渡された。
「……え、父ちゃん?」
「希亞樹、父さんは車で待っているから、シャルロリアさんと二人で見てきなさい」
「え、でも……」
「シャルロリアさんはお祭りが初めてなんだろう? 希亞樹がちゃんとエスコートしてあげるんだ」
「な、なんだよ父ちゃんまで……。シャルロリアはただの友達だって!」
と言いつつも、手渡された小銭を、手のひらでぎゅっと握り締める希亞樹である。
「そういうことにしておいてやるから、ほら、早く行ってきなさい」
「きあきくん、はやく行こう?」
シャルロリアにクイクイと袖を引っ張られる。
「……ったく」
「楽しんでおいで。あっ、一時間後には戻ってくるんだぞー!」
車の中から、父がひらひらと手を振る。
「うんっ、おじさんどうもありがとうっ!」
シャルロリアも嬉しそうに手を振り返すが、希亞樹は照れ隠しに前を向いたままであった。
「希亞樹のやつ、すっかり男らしくなったな……」
遠ざかる息子の背中に子どもの成長を感じ、父親は感慨深げに呟いた。
昼間の湖畔の静けさとはうって変わり、縁日の会場は連なる屋台の灯りと、見渡す限りの人混みで溢れかえっていた。
「ほら、はぐれるとめんどうだろ」
そう言って、希亞樹はシャルロリアと自然と手を繋いで歩き出していた。
「うん。ありがとう。きあきくん」
人混みをかき分けるように進む中で、自分の右手に伝わる熱に意識を奪われていく。
柔らかくて、少し小さくて、でもしっかりと自分の指を握りしめている温もり。
シャルロリアの手だ。
――というか……なんで当たり前みたいに手を繋いでるんだよ……。
気づいた瞬間、心臓が跳ね上がるようにドクンと鳴った。
はぐれないように、という大義名分があったとはいえ、あまりにも自然に、躊躇いもなくその手を握ってしまっていた。
美亞未への罪悪感と、今まさに手のひらから伝わってくるシャルロリアの体温の間で、希亞樹の脳内はパニック寸前になる。
「わあ……っ! きあきくん、見て! あれ何!?」
そんな希亞樹の動揺など露知らず、シャルロリアは目を輝かせて屋台を指差した。
色とりどりのシロップがかけられた、山盛りの氷――かき氷の屋台である。
「かき氷だよ。氷を削って甘い蜜をかけたやつ」
「かきごおり……! アニメで見たことあるかも! すごい、本当に氷が山みたいになってる……!」
嬉しそうに跳ねるシャルロリア。その拍子に、繋いだ手がまた少し強く握られる。
顔がカッと熱くなるのを感じて、希亞樹は慌てて視線を斜め上に逸らした。夕立ちを免れた夜空に、屋台の電球の明かりが美しく滲んでいる。
意識すればするほど、手の離し方が分からなくなってしまう。
ただの友達、そう父親に言い張った自分の言葉が、ブーメランのように胸に刺さる。
友達同士は、こんな風に自然に手を繋いだりしない。いや、海外育ちの彼女にとっては案外普通のことなのだろうか。
「きあきくん? 顔がまた真っ赤だよ? 暑い?」
ふいに覗き込んできたシャルロリアの双眸に、心配の色が浮かんでいた。
「っ、なんでもねえよ! ほら、かき氷食いたいんだろ? 買ってやるから行くぞ」
誤魔化すようにぶっきらぼうに言うと、希亞樹は繋いだ手を離さないまま、父親から貰った百円玉をポケットの中でジャラリと鳴らした。
「あ、きあきくん、あれはなに?」
次にシャルロリアが興味を示したのは、年季の入った『型抜き』の看板である。
小さな人だかりが、裸電球の下に集まっている。
「あれは型抜きだよ。薄い砂糖菓子の板に描かれた絵柄を、針で綺麗にくり抜くゲームみたいなもんかな。上手くできたら景品や金がもらえるんだ」
「へーすごそう……! ね、きあきくん、やってみせて!」
「は? 俺が?」
驚く間もなく、シャルロリアにぐいぐいと腕を引かれ、気がつけば屋台の低いプラスチック椅子に座らされていた。目の前には、小さな針と長方形のピンク色の板が置かれている。
「……なんで俺がやることになってんだよ。こういう細かい作業、俺は苦手なんだって。姉貴なら手先が器用だから、一瞬でやりそうだけど……」
「きあきくんがやってるのが見たいの! ほら、がんばって!」
シャルロリアが隣で身を乗り出し、翡翠の瞳をキラキラと輝かせている。
「ははっ、いいところを見せてやりなよ、お兄ちゃん。異国の可愛いお嬢さんとデートなんて、羨ましい限りだねえ」
屋台の店主がニヤニヤしながら冷やかしてくる。
「う、うるせえな……! 集中できないだろっ」
顔が熱くなるのを誤魔化すように、希亞樹は手元の針をピンクの板に立てた。だが、元々得意ではない上に、隣からの熱い視線と気恥ずかしさのせいで、指先が微かに震える。
「げーお兄ちゃん、下手くそー!」
隣で別の型抜きをしていた子供が、希亞樹の手元を覗き込んでケラケラと笑った。
「なんだと、ガキ……っ」
「きあきくん、ファイト!」
シャルロリアの無垢な声援が、逆にプレッシャーとなって希亞樹を追い詰めていく。
少しだけ針に力を込めた瞬間、パキッ、と無慈悲な音が響いた。
花の形をした絵柄のちょうど花びらの部分が、真っ二つに割れていた。
「……ほらな。言っただろ、俺は不器用なんだって」
割れた破片をシャルロリアに見せた。
「こんな地味な失敗作業見てても、つまんねえだろ」
「ううん、そんなことないよ。きあきくん、すごくかっこよかった」
「は……っ!?」
予想外の言葉に、希亞樹は思わず声を裏返した。
「だって、カタをくり抜く時、すごく真剣な目をしてた。ボク、それを見てたらなんだかドキドキしちゃった」
シャルロリアはそっと自分の胸元に手を当て、はにかむように微笑む。
「バカかお前は……変なこと言うなよ」
心臓に悪い。調子がどうしても狂ってしまう。
「残念だったな。もう一回やってくか?」
店主の誘いを軽く手を振って断り、椅子から立ち上がる。
「……ボク、喉乾いたかな」
シャルロリアが小さく呟く。
「じゃあ、ラムネでも飲むか。あっちの屋台で売ってたし」
「うん!」
二人はラムネの瓶を手に、賑やかな境内の喧騒から少し離れた神社の石階段に腰を下ろした。
遠くからは楽しげな声が響いてきていた。
「ぷはっ……生き返る」
シュワシュワと弾ける炭酸が、火照った喉を冷やしていく。
ふと視線を感じて横を向くと、シャルロリアが手元にあるラムネ瓶を不思議そうに見つめたまま、じっと固まっていた。
「シャルロリア、ラムネって飲んだことないのか?」
「うん。開け方がわからなくて……」
少しだけ慣れてきたその綺麗な横顔を見つめながら、希亞樹は手を差し出した。
「貸してみな。開けてやるから」
「ありがとう、きあきくん」
受け取った瓶のバネを外し、プラスチックのキャップを親指の付け根で勢いよく押し込む。カラン、と涼やかな音を立ててビー玉が落ち、同時に白い泡が吹き出しそうになった。
希亞樹は慣れた手つきで数秒間飲み口を押さえ、落ち着いたところで「ほら」と瓶を返した。
「わあ……きあきくんはすごいね。なんでもできるんだ」
シャルロリアは宝物でも受け取るように両手で瓶を持つと、小さな唇を恐る恐る飲み口に寄せた。
「……っ! しゅ、シュワシュワする……っ!」
「炭酸、初めてなのか?」
「うん! でも、すごく美味しい……!」
ゴク、ゴク、と喉を鳴らして飲むたびに、ガラス瓶の中でビー玉がカランと涼しい音を立てる。
一息ついて、はふう、と満足そうに息を吐いたシャルロリアが、潤んだ瞳で希亞樹を見つめた。
「きあきくんって、本当に優しいよね」
「そうか? あんまり人に言われたことねえけど」
「だって、ボクの我儘も聞いてくれるし、こうして一緒にいてくれる。……そういう優しいところも、ボクは大好きだよ」
ストレートすぎる言葉が、再び希亞樹の胸を突く。
「……あのさ」
足元に置いた自分のラムネ瓶を見つめながら、希亞樹はかねてからの疑問を口にした。
「シャルロリアは、俺と一緒にいて本当に楽しいのか?」
「え?」
「いや……俺、別に面白いことも言えないし、さっきみたいに不器用だしさ」
「楽しいよ」
シャルロリアは遮るように、まっすぐ答えた。
「きあきくんは、ボクの知らないことをたくさん知ってる。釣りの仕方も、カタヌキのやり方も、ラムネの開け方も……全部、きあきくんが教えてくれたんだよ?」
「そっか……」
「きあきくんは……ボクと一緒にいても楽しくない?」
上目遣いに覗き込んでくる翡翠の瞳が、今にも泣き出しそうに不安げに揺れている。
「そ、そんなことねえよ! 楽しいって!」
「本当……? でもさ、さっきからずっと、どこか遠くを見てる。何か、考え事してるよね?」
「あ、いや……それは……」
希亞樹は言葉に詰まり、思わず視線を泳がせてしまった。
目の前にいるシャルロリアに対して、ずっと別の誰かを──美亞未のことを考えてしまっている。
「きあきくん……。誰か、好きな子がいるよね?」
「っ……! な、なんで……っ、お前、エスパーかよ…!」
心臓が止まるかと思った。
動揺を隠せない希亞樹を見て、シャルロリアはどこか寂しげに、けれども、優しい微笑を浮かべる。
「わかるよ。だって、ボク、ずっときあきくんのことを見てるもん。きあきくんがボクの後ろに、誰かの姿を重ねて見ていることくらい、気づいちゃうよ……」
「シャルロリア……」
「きあきくんが話したくないなら、無理に聞かない。だけど……それでもボクは、きあきくんのことがもっと知りたいの。きあきくんの全部を知りたい。……たとえ片想いだとしても、ボクはきあきくんと一緒にいたいんだ」
そう言って、シャルロリアは小さな肩を落とし、顔を伏せてしまった。
夜の静寂の中に、遠くの祭りの喧騒だけが響く。
どこか切なげなシャルロリアの横顔を見つめながら、ただのひと言も返すことができなかった。自分の不誠実さが、純粋な心を傷つけている。
「……ねえ、きあきくん」
しばらくして、シャルロリアが静かに顔を上げた。その表情は、いつもの無邪気な笑顔だ。
「また、お祭りに行こうね。今度はボク、浴衣を着てみたい。……いいでしょ?」
まっすぐな瞳に見つめられ、希亞樹は喉の奥から溢れそうになるいくつもの言葉を飲み込みながら、ゆっくりと目を逸らした。
「……気が向いたらな。考えとくよ」
それが、今の希亞樹にできる精一杯の答えだった。




