36 だから
「釣りって楽しいね。あまり興味なかったけど、またしたいな」
木陰にレジャーシートを敷き、その上でシャルロリアが満足そうに微笑んだ。
「またしたい、か……。まぁ、お前が楽しめたならいいんじゃないか」
希亞樹もその隣に座り、首筋の汗を拭いながら、隣のお嬢様を横目で見る。
花の刺繍が入った白いワンピースに、ピンクのカーディガン。どう見ても場違いなデート服。フラットサンダルは、少し汚れてしまっている。
それでもシャルロリアはちっとも気にする様子がなく、むしろ初めての冒険を終えた子供のように瞳を輝かせていた。
『みんな同じなら、ぼくときあきくんは同じものが好きで、同じ時間を過ごして、同じことを思っている』
シャルロリアの語った少し難しくて、けれどどこか途方もなく優しい魂の話が、まだ希亞樹の耳の奥に残っていた。
シャルロリアはすごい。
自分とは住む世界が違う超お嬢様だからというだけではなく、物の見方や、命への感謝の仕方が、他の女子生徒なんかよりずっと深くて、おまけにこんな冴えない生き方をしている男に対しても、真っ直ぐに、眩しいほどの好意を向けてくれる。
『――好きだよ』
風の音に消えたあの唇の動きを思い出すと、希亞樹の胸の奥がチクチクと痛んだ。
――こんなに良い奴なのに……俺は、ずっと嘘をついてるみたいだ…。
隣にいるのはシャルロリアなのに、頭のどこかでいつも、今日ここにはいない美亞未のことを考えてしまっている。
彼女と過ごす時間が楽しいと思えば思うほど、その裏側にある美亞未への特別な感情が、シャルロリアに対する不誠実な罪悪感となって希亞樹の心を重く沈み込ませていく。
信頼してくれているシャルロリアだからこそ、ちゃんと伝えなければならないと思うのだ。
『俺には、好きな人がいるんだ。同じ家にいて、物心ついた時からずっと視界にいる、姉貴のことが』、と――。
けれども、こうして目の前で「またしたいな」と嬉しそうに笑っている無邪気なシャルロリアの顔を見ていると、その一言がどうしても喉の奥に引っかかって出てこない。
このちっぽけな告白が、シャルロリアの純粋な笑顔を曇らせてしまうと思うと、どうしても心が竦んでしまう。
ガラスを割る勇気を、希亞樹は持ち合わせてはいなかった。
「ねえ、きあきくん」
「なんだよ」
「きあきくんっていつもボクのこと『お前』って呼ぶよね」
「あ? あー…別にいいだろ。長いんだよ、お前の名前」
「うん。でもボクはきあきくんに名前で呼んで欲しいな」
柔らかな声色であるが、どこか真剣だった。
翡翠色の瞳が、木漏れ日の中でまっすぐに希亞樹を見つめてくる。
「…まあその内な」
「やだ。今がいい」
少し前に、似たようなやり取りをしたような気がした。
「あー……ったく。シャルロリア…これでいいか?」
小さく、ぼそっと言ってみる。
すると、シャルロリアの顔がぱあっと明るくなる。まるで、花が咲いたように。
「うん! ね、もう一回っ!」
希亞樹は知っている。シャルロリアのもう一回は、一回ではないことを。
「あんまり調子に乗るなよ…」
「お願い。きあきくんの声でもっと聞きたいな」
甘えるような声だった。あの時の美亞未と同じような――。
「……シャルロリア」
今度は少しだけ声を大きくして呼んでみた。
するとシャルロリアは嬉しそうに目を細め、満足げに頷いた。
「あは、ドキドキするね。ボクの名前、きあきくんが呼ぶと特別に聞こえるよ」
「大げさなんだよ、お前は……」
名前で呼ぶという行為が、妙に親密に思えてしまう。距離がまた縮まっていく。
「これからは、できるだけシャルロリアって呼んでね? 『お前』より、ずっと嬉しいから」
汗ばんできたのか、シャルロリアはいつの間にかカーディガンを脱いでいた。
「ねえ。今度はボクがきあきくんを連れて行っていい?」
「ん、いいけどどこに行くんだ? 飛行機や船には乗らないからなっ」
「ふふ、秘密」
「なんだよ、教えろよ」
「ボクの秘密場所だよっ!」
シャルロリアの笑みが深まっていく。
「ね、きあきくん」
シャルロリアの手が希亞樹の手を取り、そのまま自分の胸へと導いていく。
「えっ…!?」
「ボクもね、きあきくんと同じだよ…?」
とくん、とくっと手のひらからシャルロリアの鼓動が確かに伝わってくる。
「…分かる?」
それは、希亞樹と同じかそれ以上に早く、そして熱かった。
「…っ、!」
美亞未の胸と比べてしまえば、小さくてまだ少し柔らかさの足りないシャルロリアの胸――。
むにっと、ついその感触を確かめてしまう。
「ンっ、きあきくんのえっち……」
シャルロリアの唇から漏れる吐息が、くすぐったい。
「あ、わ、悪ぃ…! わざとじゃ…っっ!!」
バっと勢いよくシャルロリアの胸から手を離した。
シャルロリアの頬は桃のようなピンクに染まり、翡翠の瞳はとろんっと蕩けていた。
今まで見たことのない表情だ。
子どもっぽくない、大人の表情――そんな表情もキレイだな、と希亞樹は呑気にも思ってしまう。
「ボクね……きあきくんのこと考えると……ここが熱くなるんだ。だから、ね? もっと仲良くなったら、いっぱい触っていいよ…?」
熱っぽい視線が絡み合う。
「えっ」
「ボクね、きあきくんとならいいよ」
そう言って、シャルロリアがそっと目を閉じる。
まるで、キスをねだるように――……。
「え、あ…は…いいて、なにが、だよ?」
周囲に人はまばらだ。
完全な二人きりというわけではない。
そんな他人の目がある場所でキスなど出来るわけが――。
希亞樹は考える。
もしかしたら、他者から見れば自分たちは恋人同士に見えるのか、と。
キスなんて、美亞未とは何回もしている。初めてのことではない。躊躇う理由なんてない筈だ。
それなのに、どうしてだろうか。
シャルロリアとキスをしてはいけない気がした。
「きーあきくん。どうしたの?」
シャルロリアがまた希亞樹の手を取ると、その手に頬擦りをしだした。
「や、やめろって…。父ちゃん戻って来たら、どうすんだよ…」
シャルロリアの滑らかな頬が、手のひらに吸い付いていく。
「ふふ、きあきくんあったかいね」
まるで猫のように目を細める姿に、希亞樹の胸はうるさいくらいに高鳴りっぱなしだ。
――変だな…俺どうしたんだ……。
「ねぇ、きあきくん……」
「……なんだよ?」
「キス……してよ」
「な、なに言って…っ!」
「だって、さっきボクの胸触ったでしょ?」
手のひらの中で、微笑むシャルロリアの表情はとても艶やかに見えた。
「わざとじゃねえってッ!!」
「ね? ほら、はやく…」
シャルロリアがまた目を閉じる。
「え、いや……」
木漏れ日の中で、長い睫毛が小さく震えている。甘い匂いが、風に乗って希亞樹の鼻先をくすぐった。
心臓が、うるさいくらいに鳴っている。
頭の中では「美亞未」の名前が、警告のように何度も点滅していた。
「……っ」
その時――。
ぐうううう……。
腹の底から、情けなく大きな音が響いた。
希亞樹の胃が、朝からほとんど何も食べていないことを全力で訴え出したのだ。
シャルロリアの目が、ぱちりと開いた。
「わっ、すごい音だったね。きあきくん……お腹、すいてるんだ?」
「う、うるせえ……! 釣りしてたら当然だろ!」
顔が一気に熱くなっていくのは、恥ずかしさからだろうか。
希亞樹は慌てて手を引き、シャルロリアから距離を取った。
「あーあ残念だなあ……。でも、かわいい」
「かわいいとか言うな。俺は男だぞ。嬉しくねえよ」
「キスしたくなったら、いつでもしていいからね」
シャルロリアが耳元で、そっと囁いた。




