35 プシュケー
七月二十八日。夏休みから一週間。
ついに約束の日になった。
午前四時を過ぎた頃に、ふぁ、と小さなあくびを一つして希亞樹は玄関へと向かう。
「父ちゃん、おはよー」
「おはよう、希亞樹。ちゃんと起きられてえらいぞ」
「まぁな」
自分でもちゃんと起きられたことが意外であった。
「気を付けて行ってきてね」
母の見送りに、希亞樹は「ああ」と小さく頷く。
美亞未の姿はなかった。
この時になって、美亞未にシャルロリアと出掛けることを伝えていないことを思い出していた。
――まあ、いいか……。姉貴だってリックスと会ってたんだし……。
それに、と希亞樹は淡い期待を抱いていた。
こうしてシャルロリアと会うことで、美亞未に嫉妬してもらえるかもしれないという、子どもっぽい動機もある。
靴を履き終えてから、シャルロリアがどんな服を着てくるのか気になった。
「それじゃあ、行ってくるよ」
「忘れものしてない?」
「ん」
母の心配する声を背に、玄関のドアを閉める。
待ち合わせは学校の正門前だった。
父の運転する車の助手席に揺られながら、希亞樹はフロントガラスの向こうを見つめた。
道も空いているせいか、待ち合わせ場所へは二十分足らずで着いた。
「あ、いた」
つい、口にしてしまう。
正門の前には、まるでおとぎ話から飛び出してきたかのような、場違いなほど綺麗な少女がポツンと立っている。
車がゆっくりと停まると、彼女は弾けるような声を上げてパタパタと駆け寄ってきた。
「グーテンモルゲンきあきくん、と、きあきくんのパパ!」
父もシャルロリアの可愛らしさに少し目を見張りながら、窓を開けて「おはよう、君がシャルロリアさんだね」と優しく返した。
「おまえ……何しに行くつもりだよ……」
助手席から降りた希亞樹は、シャルロリアの姿を頭から爪先までを見つめる。
目に映るのは、花の刺繍が入った白のワンピースと、七分袖のピンクのカーディガンである。
足元はスニーカーではなくサンダルで、ブロンドの髪は緑のリボンで、頭の上できゅっと一つ結びにされていた。
「釣りだよ」
「あのなあ……虫に刺されに行くつもりか?」
映画を見てご飯を食べに行くような気軽なデートではなく、アウトドアな釣りである。
誰がどう見てもシャルロリアの格好は、釣りには不適切だ。
「そんなに深いところにはいらなければ大丈夫だろう。さあ、乗りなさい」
父がフォローを入れるが、フォローになっていないと希亞樹は内心突っ込んだ。
「ったく、怪我しても知らねーからなっ」
「大丈夫だよ」
シャルロリアを後部座席へと乗せ、助手席へと戻ろうとした時、「きあきくん」と呼び止められた。
「なんだよ」
「乗らないの?」
「乗るよ」
「希亞樹。女の子のお願い事は叶えてあげるものだぞ」
「……」
結局、後部座席へと座った。
車に揺られて、一時間程で目的の湖に着いた。
到着するなり、早速釣りの準備に取り掛かる。
父は慣れた手つきでトランクから釣り道具を降ろし始めた。
希亞樹も仕方なく手伝いながら、横目でシャルロリアを見やる。
「わあ……すごい、キレイ……!」
シャルロリアは湖面を前にして、目を輝かせていた。
朝の陽光を受けて、淡い金色の髪がきらきらと輝いている。
「おい、勝手に動くなよ。こっち戻って来い」
湖畔に駆けていくシャルロリアの背を、一旦引き止める。
「はぁーい!」
希亞樹は釣り竿を組み立てながら、内心でため息をついていた。
「釣り! 楽しみだねっ」
「希亞樹、シャルロリアさんに簡単な釣り方教えてあげなさい。父さんはボートで釣ってくるから、安全な桟橋で釣ってなさい」
「え、俺が……?」
父に変な気を遣われてしまった。
「やったー! よろしくお願いしますっ、きあき先生っ」
シャルロリアが両手を揃えて軽く頭を下げる。
その無邪気な仕草に、希亞樹は顔をしかめつつも、結局レクチャーすることにした。
♦
「で、お前は釣りしないのか? やりたいんだろう?」
一通りやり方を教えて、湖面に釣り糸を垂らし、シャルロリアに釣り竿を渡そうとするも、手を出そうとはしなかった。
「きあきくんが釣りをしている所を見たいんだ」
「は? 見てても、楽しいもんじゃねえよ」
「ううん、楽しいよ。きあきくんと一緒だから」
「……そうか?」
シャルロリアの考えることは、希亞樹には良く分からない。だが、シャルロリアが楽しいのであればそれでいいや、と思う。
とりあえず、希亞樹は釣竿に集中することにした。
じっ。
「…」
じっーー…。
「……」
じーーーー…………。
「…………あの、さ」
くるっと、希亞樹が振り返る。
「なに?」
「そんなに見られてると逆に落ち着かねえんだけど……」
背中に感じるシャルロリアの真っ直ぐな視線に、希亞樹はやり辛さを感じる。
「ふふ、ごめんね。でも、きあきくんが一生懸命な所見ていたいんだ」
そう言ってシャルロリアは希亞樹の隣に立ち、身を寄せてくる。
「…おい」
風がそよけば、シャルロリアの髪と共にリボンが揺れる。
「きあきくんって、昔のボクみたいでさ」
「魚が逃げるだろ……」
希亞樹の鼻腔に、甘い香りが漂う。
「ボク、小さい頃は身体が弱くて、外で遊ぶのもあまり得意じゃなかったんだ」
「へ、へー……」
希亞樹から身体を離したシャルロリアは、しゃがみ込んで桟橋から湖面を覗き込む。
静かに揺れる水面が、キラキラと太陽の光を浴びて輝いている。
希亞樹は、ちらりと桟橋にしゃがみ込んだままのシャルロリアの横顔を見つめる。
「小さいころはね、窓から外の景色を見るのが日課だった」
彼女は淡い金色の髪を耳にかける仕草をしながら、静かに続けた。
「そんなときはいつもお庭の手入れをしてる庭師さんのこと見てたんだけど、すごく一生懸命で、土を丁寧に掘って、水をあげて、お花を育てて、枯れた葉を一つ一つ取って……。ボクはただ見てるだけだったけど、あの時の庭師さんの姿が、なんだかきあきくんに似てるなって」
シャルロリアはふわりと微笑んだ。
翡翠色の瞳が、朝の陽光の中で優しく細められる。
「きあきくんも、今すごく一生懸命だよ。魚が釣れるかどうかは関係なく、ちゃんとやろうとしてるのが伝わってくる。……それが、すごく素敵だと思う」
「…庭師…」
希亞樹は視線を湖面へと戻し、釣り竿の先を強く見つめた。
「別に、一生懸命とかじゃねえよ。ただ、親父に『適当にやんな』って怒られるのが面倒くさいだけだって」
「そうかなあ?」
シャルロリアはくすくすと笑いながら、ゆっくりと立ち上がった。
「だからさ、ボクきあきくんと一緒に色んなことを経験したいな、って。あ、みて、きあきくん」
「あ?」
「鳥だよ」
「鳥?」
シャルロリアは湖の上を飛ぶ鳥を指さした。
小さな鳥であったので、希亞樹にはどんな鳥であるのかは分からなかった。
「別に珍しいもんでもないだろ」
「そうかな? ボク、鳥は好きだよ」
飛ぶ鳥を目で追いながら、シャルロリアが呟いた。
「ほら、あの鳥。青い鳥」
「ふーん。俺、鳥なんてハトやカラスとかスズメくらいしか見たことねえから分かんねえよ」
「そうなんだ。でも、ボクはあの鳥はきあきくんと同じで好きかな」
「あ…そ、そうか…? 鳥と一緒にされてもなあ……」
シャルロリアのストレートな言葉は、コップになみなみと注がれる水のように、希亞樹の心に注がれていく。
「ふふ」
シャルロリアの笑い声は、小鳥の囀りにも似ていた。
「きあきくんは?」
「あ?」
「きあきくんはボクのこと好き?」
「へっ?」
思いもよらぬ質問に、希亞樹は体温が一気に上昇していくのを感じた。
「す、好きって…な、なんだよ。いきなり……」
「そのままの意味だよ。ボクのこと好きかどうかってこと」
シャルロリアの声色は穏やかで優しいものであった。しかし、どうしてか有無を言わせない力強さもある。
「って言われてもなあ…嫌いじゃねえけど好きとも言えねえよ。普通だよ、ふつー」
「ふふ、そっか。そう……じゃあ、これからボクに夢中になってもらえるように頑張るね」
シャルロリアの笑顔には、自信が満ち溢れているように見えた。
「お、おう…」
湖から吹く風がシャルロリアの髪を揺らしている。
風に揺れる髪も、鳥を見つめる瞳も、シャルロリアのすべてがきらきらとして見えた。
――きれいだな…。
シャルロリアの姿に見蕩れながら、希亞樹は美亞未から「好き」と言われたのがいつだったか思い出せないでいた。
――そういえば、俺ばっかり好きって言ってるような……。
シャルロリアの姿に、美亞未の姿を重ねてしまう。
「あっ、掛かったよっ」
「えっ、あっ…!」
ワンテンポ遅れてしまった希亞樹の釣り竿を、シャルロリアが一緒に握りしめる。
シャルロリアの細い指が、希亞樹の手に重なる。
その感触に、希亞樹はドキっとした。
――な、なんか……これ……。
まるで手を繋いでいるようで、落ち着かない。
「きあきくんっ!」
シャルロリアの声と共に、竿を引くと、糸の先には小魚が掛かっていた。
「わっ、釣れたねっ!」
初めて釣れた魚に、シャルロリアの瞳がキラキラと輝き、小さな魚をまじまじと見つめる。
「あ、ああ…」
「きあきくん、この魚はなんていうの?」
「え、えーと…あーなんだっけな……。サケかアユじゃねえかなぁ…?」
とりあえず知っている魚の名前を適当に言ってみた。
「サケかアユかあ!」
用意したバケツに、小魚を入れて、希亞樹は再び釣り糸を湖へと投げ入れる。
「ねえ、きあきくん。魚って不思議だよね」
「あ? なんだよ、いきなり…」
バケツの中を泳ぐ魚を見つめていたシャルロリアが、不意にそんなことを言うので、ちらりと顔を向ければ、かちりと視線が合う。
緑の双眸が、キラキラと光を湛えている。
その輝きから目を離せないでいると、シャルロリアの唇が小さく動いた。
――好きだよ。
そう、聞こえた気がした。
けれど、その言葉は風の音にかき消されたようで聞き取ることができなかった。
ただ、シャルロリアの唇の動きからして、そう言っている気がした。
同時に、シャルロリアの口の動きが、ひどく官能的に見えてしまった。
「なんで不思議なんだよ」
希亞樹が釣り竿を軽く揺らしながら訊ねると、シャルロリアはバケツの中の小魚をじっと見つめたまま、静かに息をつく。
「魚って……水の中でしか生きられないのに、釣り上げられた瞬間、すべてから解放されるよね」
その声は、いつもより少し低くて、透き通っていた。
「解放……?」
「うん。苦しかった水の中から、急に空気へ連れ出されて……最初は苦しいはずなのに、最後は自由になれる。魂が、身体という狭い器からぽんって飛び出して、鳥みたいにどこへでも行けるようになるみたいな。ボク、思うんだ。小さい頃、身体が弱くてベッドに縛られてたとき……魚みたいだったなって。この世界という水槽の中で、ただ泳いでるだけ。息をするのも、動くのも、全部制限されてる。でも、もし死んだら——魂が自由になるんだと思う」
ふふ、と小さな微笑が聞こえる。
「魚の魂は、きっと水を飛び出して、空を飛んだり、別の川を泳いだり、星の間を旅したりできるよね。もう、誰かに釣られることも、網に掛かることも、酸素が足りなくて苦しむこともない。完全に、自由」
風が湖面を渡り、小さな波が桟橋の下でちゃぷちゃぷと音を立てた。
「きあきくんは、どう思う? 魂が自由になったら、どこに行きたい?」
「……急に重い話すんなよ」
希亞樹には言ってることの半分も理解出来なかった。
「お前はどこに行きたいんだよ」
「うーん、やっぱり神さまに会いに行きたいかなあ」
希亞樹の問いかけに、シャルロリアは天を仰いだ。
日差しはじりっとしているが、湖面は穏やかで、時折吹く風の音が心地良い。
「神さまって空にいるのか?」
希亞樹には、信仰心というものがないので、『神さま』と言われてもいまいちピンと来ない。
「どうだろうね? いると思えばいるし、いないと思えばいないんじゃないかな? ほら、日本だってアニミズムがあるでしょう?」
「アニメ、むず……? よく分かんねえな」
「ボクはいると思うよ。でも、どこに? って聞かれると分からないけど、漠然とした気持ちかなあ?」
シャルロリアは、空に向って手を伸ばす。その仕草がまるで、星を掴むような姿に見えて、希亞樹はドキっとした。
「……じゃあさ、みんな同じなのか?」
「え?」
シャルロリアはきょとんと目を瞬かせた。
また、一匹魚が釣れた。今度は、一人で釣り上げた。
「だってさ、魚も鳥も俺もお前も同じ生き物だろ? 魚だから魂どうこう言うのって変だろ。死んだらお前が言う器から解放されんじゃねえの」
釣り上げた魚を、バケツに入れる。
「確かにそうだね。きあきくんの言う通りかもしれない」
シャルロリアは小さく笑い、新しくバケツに加わった二匹目の小魚を覗き込んだ。
水中で尾鰭をせわしなく振るうその姿は、一匹目と何も変わらないように見える。
「生きているものは、みんな同じ。違いなんてない。……だからね、ボクはきあきくんの魂も、この魚の魂も、ぜんぶ同じ場所から生まれて、同じ場所に還っていくんだと思うんだ」
シャルロリアはバケツの縁から指を離し、今度は自分の胸のあたりにそっと手を当てた。
「そう思うとね、ボクときあきくんがこうして出会えたのって、ものすごい奇跡だと思わない?」
シャルロリアのサンダルが桟橋の木を小さく鳴らす。
「だって、ボクが鳥に生まれていたかもしれないし、きあきくんがこの湖の魚に生まれていたかもしれない。それなのに、ボクたちは同じ人間の男の子と女の子として、いま、ここで一緒に釣りをしているんだもの」
屈託のない、けれどどこか現実離れした笑みを浮かべるシャルロリアに、希亞樹はますます戸惑いを隠せなくなる。
「みんな同じ、か……」
希亞樹はバケツの中で必死にエラを動かしている小魚と、目の前の綺麗な少女を見比べた。
とてもじゃないが、同じものだとは信じられない。けれど、シャルロリアの言う「同じ場所から生まれて、同じ場所に還る」という言葉が、すとんと胸のどこかに落ちるような奇妙な感覚もあった。
「……じゃあさ、もしみんな同じ魂なんだとしたら……」
ぶっきらぼうな声を出して、湖面の浮きを見つめた。
その先の言葉は続かない。
「だから、ボクはボクだし、きあきくんはきあきくんなんだよ。…でも、ボクたちの祖先を辿れば、魂はある意味一緒とも言えるかもね。でも、きあきくんって深いこと言うんだね」
「俺はただ、思ったことを言っただけだっ」
竿がしなる。
糸をピンと張らせて、希亞樹はまた餌を付け直す。
「でもさ、もし同じだったら嬉しいな」
シャルロリアが水面を見つめた。その横顔はどこか儚げで、思わず見とれてしまう。
「だって、みんな同じなら、ボクときあきくんは同じものが好きで、同じ時間を過ごして、同じことを思っているんでしょ? それって、とっても素敵なことだと思うんだ。ボクときあきくんは、きっと出会うべくして出会ったんだよ」
「……良く分かんねえよ。俺、難しい話嫌いだし……急にスピられてもなんて返せばいいか知らねえし……」
――魂が同じか……。
隣にいるのは、シャルロリアであるのに、希亞樹はどうしても美亞未のことを考えてしまう。
シャルロリアのことは嫌いではない。だが、こうしてシャルロリアとともに過ごしていると心の底で、美亞未に対して罪悪感を感じているのだ。
シャルロリアは希亞樹のことを好きだと好意を示し、信頼してくれている。
それはすごく嬉しいことなのに、心の奥をまだ打ち明けられないことで、希亞樹の心は重く沈んでいた。
――早く言わないと……。
『俺は姉貴が好きなんだ』
そう何度も思うのだが、楽しそうなシャルロリアの姿を見てしまうと、何も言えなくなってしまう。
「なあ…そろそろ釣ってみるか?」
「うん、やってみる」
釣竿をシャルロリアに手渡して、ポジションを入れ替わる。
「釣れるかな?」
「 掛かったと思ったらリールを回す、それだけだよ」
「うん」
釣り糸の先をじっと見つめるシャルロリアの表情は真剣で、美亞未とは違った可憐さがある。
「お前って……なんかすごいな……」
「え、どうして?」
シャルロリアの釣り竿が、くんっと反応を示した。




