32 初めての
クラスメイトたちが部活動やそれぞれの放課後へと散っていく中、夕方の斜光が差し込む教室には、シャルロリアと希亞樹の二人きりの空間が広がっていた。
運動部の掛け声やブラスバンドの音が、廊下と窓から流れ込んでくる。
希亞樹はシャルロリアに引き止められ、夏休みの計画を一緒に立てることになった。
「ほらほら、きあきくんもスマホ出して~」
シャルロリアは自分のピンクのスマホを机にトンと置く。
「で、結局最初はどこ行くんだ? 海? 水族館? 川? プール?」
「うん。色々調べたんだけどね、湖とかどうかなっ!」
「……湖?」
画面ロックを解除したばかりのスマホを持ったまま、希亞樹は聞き返す。
海、プール、川、水族館ときて、まさかの「湖」。さすがにお嬢様の選択肢は一味違うというか、斜め上をいっているというか、品を感じる選択である。
「そう、湖! 海みたいにベタベタしないし、プールみたいに人混みでぎゅうぎゅうにならないし……水着は着られないけど、すっごく素敵だと思うんだっ!」
シャルロリアは自身のスマホの画面を希亞樹に見せてきた。
画面に映し出されていたのは、新緑が映える、絵の具を溶かしたようなクリアな湖面の写真だった。
「ほら、ここ! ここなら二時間くらいで行けるよっ」
「あー……そこか…」
「あれ? きあきくん、ここ行ったことあるの?」
画面に映る、緑の山々に囲まれた美しい湖の写真を見つめ、記憶の引き出しを手繰り寄せた。
「知ってるっていうか……ここ、何回か父ちゃ…親父と釣りに行ったことあるんだよ」
「つりっ!? お魚を捕まえるやつだよねっ?」
淡い金色の髪が夕日に透けて、教室の古い机の上にきらきらと光の粒を落とした。
「親父の趣味にちょっと付き合わされてさ。四時とかに起こされるから、俺にとっては眠くてしょうがない場所なんだけど……。まぁ、確かに水は綺麗だし、海やプールに比べれば格段に静かだし、悪くはないんじゃないか」
その湖は、都心からそれほど離れていないにもかかわらず、豊かな自然が残されている穴場スポットだった。遊歩道やちょっとしたボート乗り場もあり、人混みを避けてのんびり過ごすにはうってつけの場所だ。
「すごーい! きあきくん、行ったことあるんだ! じゃあ案内してくれる?」
翡翠色の瞳をこれ以上ないほど輝かせるシャルロリアを見て、希亞樹はふと、現実的な移動手段について考えた。
電車とバスを乗り継いでも行けないことはないが、お嬢様を連れて夏の猛暑の中、慣れないローカル路線を歩かせるのは色々とリスクが高い。熱中症にでもなられたら、それこそ彼女の家のメイド長や、見知らぬパパママやらに何を言われるか分かったものではない。
「……なぁ、日程いつにするか決めてるか?」
スマホのカレンダーの画面を開きながら尋ねる。
「えっと、ボクは夏休みならいつでも大丈夫だよ! きあきくんに合わせるよ」
「おっ、じゃあさ、親父に頼めば車出してもらえるかも。聞いてみないと分かんねえけど、そこなら親父もいいぞって言ってくれるだろうし」
希亞樹が何気なくそう提案した瞬間、シャルロリアは小さく息を呑み、驚いたようにぱちくりと瞬きをした。
「……え? きあきくんのお父様が、車を……?」
「まぁ、親父の釣りついでにって感じでさ。……あ、でも、お嬢様的には、狭い車なんて落ち着かないか? メイドの人に高級車でも手配してもらった方が――」
「ううんっ! 違うよっ!」
シャルロリアは慌てて首を振ると、希亞樹の制服の袖をきゅっと掴んだ。いつもより少しだけ力がこもっている。
「ボク、きあきくんのお父様が運転する車に、一緒に乗ってみたい……っ! 家族のお出かけ、みたいで、すっごく楽しそう……!」
夕方の斜光に照らされた彼女の頬が、ほんのりと赤く染まっている。それは暑さのせいだけではなく、心からの純粋な喜びと、少しの緊張が入り混じっているようだった。
「…一応親父にメッセージ入れとくわ。『夏休みに湖行きたいんだけど、車出せる日ある?』って」
「うんっ! ありがとう! ねっ、ぼくも釣りしてみたいんだけど…」
「あ? お前が?」
スマホから目を離し、思わずシャルロリアへと視線を移した。
シャルロリアの瞳は、いつも好奇心に満ちあふれている。
「うんっ! ボク、お魚を釣るのってテレビでしか見たことないんだもん。きあきくんがお父様と一緒にやってたなら、ボクもやってみたいっ!」
「…いやいや、言っとくけどな、釣りなんてそんな綺麗なもんじゃないぞ。生きた虫を針に刺したり、ぬるぬるした魚に触ったりするんだ。お前みたいな……お前みたいな嬢様がやるようなことじゃないって」
一度だけ、美亞未も釣りに連れ出されたことがあったが、その時の姉はギャーギャー騒いで、まともに出来てはいなかった。結局、美亞未は湖畔のカフェで時間を潰していた。
「虫……?」
シャルロリアは一瞬だけピクッと長いまつ毛を揺らしたが、すぐにふにゃっと柔らかく微笑んだ。
「あはは。平気だよ。ボク自然が好きだから」
「へー意外だな」
「うん。だからね、虫くらい全然平気! あ、でも……きあきくんがどうしても『ボクに良いところを見せたいから、エサは俺がつける!』って言うなら、お願いしちゃおうかなぁ?」
「言わねえよ」
そうこう話込んでいるうちに、ぶっとスマホが通知を知らせた。
『おう、湖か! 珍しいな、お前から釣りに誘ってくるなんて。いつでも大歓迎だぞ!』
メッセージを開くと、父の嬉しそうなメッセージが表示される。
「…親父のやつ、めちゃくちゃ乗り気だな……」
「本当っ!? やったぁ!」
シャルロリアは嬉しさのあまり、椅子から少し腰を浮かせてパタパタと小さな手を叩いた。その仕草一つ一つが、やっぱりどこか浮世離れしていて、見ていて飽きない。
「じゃあ決まりだねっ! ボク、今からすっごく楽しみ!」
夕日に照らされたシャルロリアの笑顔は、教室の埃さえもキラキラとした光の粒に変えてしまうような、圧倒的な眩しさだった。
と、パンポーン、と放課後の終わりを告げるチャイムが、静かな教室に鳴り響いた。
『午後六時になりました。教室に残っている生徒は――』
事務的なアナウンスが流れ始める。
「もうこんな時間か」
意外と話込んでいたようだ。
外を見れば、オレンジ色の世界が少しずつ夜の気配に染まり出している。
「あ……もう時間なんだ……」
つい先ほどまで弾んでいた声が、明らかにトークダウンしている。名残惜しそうに机の上のピンクのスマホをカバンへとしまい、それから寂しげに揺れる翡翠色の瞳を向けられる。
「……帰らないとね。……本当はね、きあきくんと一緒に歩いて帰りたかったんだけど……校門の前に、もうお迎えの車が来ちゃってるんだ」
「おーそうか」
「だからね――」
シャルロリアが、机にぴったりとくっついていた上半身を、さらにぐいっとこちら側に乗り出してきた。
驚く隙さえなかった。
ふわ、と鼻先をかすめる、あの甘く柔らかな香り。
不意に柔らかいものが、唇に押し当てられる。
それがなんなのか、希亞樹はすぐに理解出来た。しかし、現実を受け止められずにいる。
「は……え……?」
「あは、奪っちゃった」
悪戯っぽく笑うシャルロリアの頬はほんのりと色付いているように見えた。
――え? なんで俺キスされたんだ?
希亞樹が混乱している間に、シャルロリアの身体が離れていく。
「ファーストキス」
自身の唇を指でなぞりながら、シャルロリアは微笑を浮かべて、踊るような仕草で立ち上がると、教室から飛び出していった。
「今日はありがとうっ! 大好きだよっ」
そんな言葉が聞こえた。
駆けていく姿は舞踏会に向かうシンデレラのようでもあった。
静まり返った教室に一人取り残された希亞樹は、ごし、っと指先で唇を拭う。
「……」
――ファースト、キス…?
「俺、キスするのは初めてじゃないんだけどな…」
夕暮れの教室で、希亞樹は自分の手のひらをぎゅっと握りしめながら、一人呟いていた。
「大好きか……」
シャルロリアとのキスがイヤではなかった自分がいるのも確かである。
唇に触れた柔らかさが蘇るたび、胸の奥がきゅーっと締め付けられる感覚を感じた。
――あれ……もしかして……あいつのこと……。
いや、そんなはずはないと頭を振る。
ただ、美亞未とのキスを思い出してしまっただけだと、希亞樹は自分に言い聞かせる。
美亞未とそういう関係になってから今までの出来事を思い出してみても、シャルロリアとするまでは誰かとキスをしたこともなかったし、する気もなかった。
「俺が好きなのは…姉貴だって……」
それなのに、何故こんなにも心に残ってしまうのだろう。
「女の子ってすげえな……」




