31 どこに行く?
太陽の光はさらに勢いを増し、ついに屋上はフライパンのごとく熱せられていた。
さすがに屋上で昼食を取るのは危険だと判断した希亞樹は、屋上へと続く階段をランチスペースにした。
普段は誰も来ない薄暗いコンクリートの空間だが、直射日光が遮られている分、いくらか涼しい。
それでも空気は生温く、置いたハンディファンがヴィィィンと小さな羽の音を響かせている。
隣には、シャルロリアがちょこんと膝を揃えて座り込んでいる。
――なんか、妙な絵面だな。
希亞樹は思わず心の中で呟いた。
ワックスペーパーに包まれた、いつもの高級感あふれるサンドイッチ。それを広げているのは、埃っぽい学校の階段だ。
淡い金色の髪が薄暗い踊り場でそこだけ発光しているように美しく、仕立ての良い制服のスカートが、掃除もされていないような階段に直に触れている。
「なあ」
「ん? なあに、きあきくん」
ハムッとサンドイッチを小さくかじり、シャルロリアがこちらを見つめる。
「そんなとこ直に座って、制服汚れるとか気にしないのかよ。ドイツの超お嬢様サマが、学校の階段で地べたに座って飯食うとか、普通あり得ねえだろ」
すると、シャルロリアは不思議そうにぱちくりと瞬きをした。
「え? だって、きあきくんがここに座るって言ったから。それに、きあきくんだって座っているよ? ボク、こういうの秘密基地みたいで、すっごくワクワクするし、気にしないよ」
クスクスと嬉しそうに笑った。
どうやら、前の学校のドロドロしたお上品さよりも、この埃っぽい階段のほうがシャルロリアにとっては居心地が良いらしい。
その気取らない素直さに、希亞樹はまた少し調子を狂わされそうになる。
「……まぁ、お前が良いならいいけどさ」
「それよりね、きあきくん」
シャルロリアはサンドイッチを一つ食べ終えると、ふぅ、と小さくため息をついて、綺麗な眉をハの字に曲げた。
「ボク、今、すっごく悩んでるの……」
「悩む? お前が?」
世界中の悩み事とは無縁に見えるお嬢様のセリフに、希亞樹は片眉を上げた。
「うん。……夏休みのこと」
シャルロリアが長いまつ毛を伏せた。
「そのことかよ……」
「きあきくんと遊びに行く約束したでしょ? ボク、日本で行きたい場所が多すぎて、どこから行けばいいか分からなくなっちゃったんだ。毎日スマホで色々と調べてるんだけどね、お祭りも、綺麗な海も、見たことない川も、おっきな水族館も、動物園も全部行きたくなっちゃって……」
困ったように「はあぁ……」と息を吐き出すシャルロリアのスマホの画面には、びっしりと観光地のサイトがブックマークされているのが見えた。
「パパの秘書の人にはね、ボクが『ここに行きたい』って言えば、どこでもジェット機とか車を準備してくれるって言われたの。……でも、そういうのじゃなくて、ボクはきあきくんが普段行っているような、普通の場所に行きたいんだ」
翡翠色の瞳が、薄暗い階段の中でまっすぐに希亞樹を見つめる。
「ジェット……?」
聞こえてきた単語に、またド肝を抜かれる希亞樹である。
家柄やお金で用意された完璧なパッケージツアーではなく、ただ、誰かと「どこに行こうか」と悩む時間そのものを、シャルロリアは楽しもうとしている。
「はー贅沢な悩みだな」
ジェット機なんて単語が出るあたり、やっぱり次元が違うお嬢様だが、その目的が「自分との普通の遊び」だと思うと、バカバカしくてしょうがない。
「一気に全部行くのは無理なんだから、一つずつ決めりゃいいだろ。とりあえず、一番暑い時期だし……冷たいとことか、夏っぽいとこから攻めるのが普通じゃないか?」
「冷たいところ……? あ、水族館とか!?」
パッと顔を輝かせるシャルロリア。その距離感が、またぐいっと縮まる。
何度も縮められても、やはり距離感には慣れない。
「水族館だって混むだろ。ガキだって夏休みなんだからよ」
「そっかあ。じゃあ冷たいところなら、やっぱりプールか海かなぁ……?」
シャルロリアは人差し指を顎に当てて、うーん、と本格的に悩み始めた。
「プールなら、あの、すっごくおっきい流れるプールがあるところがいいなっ! でも、日本の綺麗な海でスイカ割りっていうのもやってみたいし……きあきくん、どっちがいいと思う?」
「どっちって言われてもな……。夏休みはどこも混むつうの。海は着替えとか砂の処理が面倒だし、プールはプールで……」
デメリットを並べる希亞樹を、シャルロリアは「もう、きあきくんは現実的だなあ」と唇を少し尖らせて見上げた。
「別に夏に全部行く必要なんてないだろ。水族館も動物園も秋にも冬にもいつだって行けるだろ」
「そうだけどさ……きあきくんと行きたいんだ」
「んーなら川とか空いてんじゃねえの…」
「川かあ。魚とかいるかなあ?」
「そりゃ水の中なんだからいるだろ」
「あ、そうだ!」
何かをアイデアが浮かんだのか、翡翠色の瞳を爛々と輝かせる。
「どこに行くにしても、ボク、新しい水着を買わなきゃ!」
「水着?」
「うんっ! ドイツから持ってきたのは、お家のプールで泳ぐ用の、あんまり可愛くない競泳用のやつしかないから。せっかくきあきくんと遊びに行くんだもん、可愛い水着を選びたいな!」
楽しそうに弾む彼女の声が、狭い階段の踊り場に響く。
ただでさえ、普段の制服姿でさえ至近距離にいられると心臓に悪いというのに、あのお人形みたいなスタイルで水着になられたら、自分の心臓が夏休みを待たずに破裂してしまうのではないか。
そんな希亞樹の内心の動揺など露知らず、シャルロリアの目は、太陽に負けじと輝くばかりだ。
「ねえねえ、きあきくんは、何色が好き?」
「……は?」
唐突すぎる質問に、希亞樹の思考が完全にフリーズした。
「だからね、ボクが着る水着の色! きあきくんは、何色を着てるボクが見たいのかなぁって。白? それともピンク? あ、ボクの目の色に合わせて、エメラルドグリーンとかもいいかも!」
かわいらしく小首を傾げながら、純粋な、本当に純粋な好奇心と期待の眼差しを向けられる。
「んなもん……っ、何でもいいだろ! 自分の好きな色にしとけよ」
「えー、何でもいいじゃつまんないよ。ボク、きあきくんが『これがいい』って言ってくれた色にしたいもん」
「……じゃあ、グリーンでいいんじゃねえの。お前の目に合ってるって、自分で言っただろ」
「エメラルドグリーン! うん、決まりっ! じゃあ、きあきくん好みの最高に可愛い水着、メイドに探してもらおうかなっ!」
「俺好みとか言うな! あとメイドさんに余計なこと吹き込むなよ!?」
「うんっ」
シャルロリアはいたずらっぽくクスリと笑うと、満足したように残りのサンドイッチを口に運んだ。
まだ行く場所すら決まっていないというのに、すでにシャルロリアの頭の中では「きあきくん好みの水着を着てはしゃぐ夏休み」が確定しているらしかった。
ハンディファンの風が虚しく通り過ぎる階段の踊り場で、希亞樹は「やっぱりプールも海も却下して、冷房の効いたデパートとかにするべきだったか……」と、早くも前途多難な夏の始まりに頭を抱えるのだった。




