28 フレア
土曜日の午前十時半。駅前広場にて待ち合わせ。
約束の時間の十五分前に、美亞未は着いたつもりだった。
鼓動はいつもより早い。鏡の前で何度も服を着替えた淡いベージュのブラウスに、膝丈のフレアスカート。
これなら頑張りすぎていないはず……と自分に言い聞かせながら、広場に足を踏み入れた瞬間――
「……へ?」
すでにそこには、リックスの姿があった。
背の高いシルエットが、朝の柔らかな陽光の中に浮かんでいる。シンプルな白シャツに、細身のチノパン。洗練された雰囲気はそのままに、制服を着ている時より少し大人びて見えた。
金色の髪が風に軽く揺れている。美亞未の足が一瞬止まる。
――やば……もう来てる!?
慌ててスマホを確認する。
10:15。と、画面に表示されている。
こちらに気づいたリックスか、静かな微笑を浮かべる。
「早いな」
「り、リックスくんこそ……! ごめん、わたしが遅刻したみたいで……!」
「気にするな。オレが早く来ているだけだ」
頬が熱くなる。胸の奥で希亞樹の顔が一瞬過ぎるが、すぐに奥底に閉まっていく。
「それより…」
言いながら、リックスがポケットから二枚のチケットを取り出した。
「なに?」
【星天館プラネタリウム 特別投影「夏の夜空と銀河」】
「……プラネタリウム?」
「進路の相談をするなら、星の話をした方がいいと思った。図書室で話していただろう? 君は星が綺麗だと言っていた」
リックスはあっさりと言った。まるで当然のことのように。美亞未はチケットを受け取りながら、頭の中で突っ込んでいた。
――そういうのに興味があると思われてるのかな?
「嫌か?」
「う、ううん! 全然っ! プラネタリウムなんて小学校の校外学習以来だなあって!」
声が上擦る。
――というか、プラネタリウムってなんかデートっぽい……!
心臓の音がさらに大きくなった。指先がチケットの端を強く握りしめてしまう。
「そうか、良かった。いきなりだから、断られるかと思ったが……」
リックスは軽く頷くと、自然と美亞未の横に並んだ。
「じゃあ行こうか」
美亞未は小さく「うん……」と頷き、リックスの横顔をちらりと見上げる。
――これはやっぱりデートなのでは……??
この数分だけ何度もデートという単語が繰り返されては、消えていく。
♦
プラネタリウムの出口を出た時、美亞未はまだぼんやりとしていた。
暗闇の中で広がった満天の星空。銀河の流れ、流れ星、解説を淡々と読み上げる心地良いナレーション。
ふとした瞬間に、隣に座るリックスの横顔をのぞき見した時、すべてが夢のように美しいと思えた。
「どうだった?」
「うんすごい、キレイだった。今のプラネタリウムってあんな風になってるんだね~っ」
美亞未が素直に答えると、リックスが小さな微笑を返す。
「気に入ってもらえたのなら良かった。腹も減っただろう。そこのカフェで何か食べようか」
「え、あ…、そうだねっ」
流されるように連れられて入ったのは、プラネタリウムと同じ建物内の落ち着いた雰囲気のカフェだった。窓際の席に座ると、ちょうど外の明るい光が差し込んできて、先ほどの星空とのギャップに少し目がくらむ。
メニューを見ながら、美亞未はリックスが何を頼むか気になっていた。
彼は落ち着いた様子でメニューを眺めている。きっとパスタとか、サンドイッチとか、軽やかでスマートなものを頼むんだろうな……と思うと、ハンバーグプレートに釘付けになっている自分が気恥ずかしくなってしまう。
――気にし過ぎかな…。友達となら別に気にならないのに……。いやいや違う…っ! リックスくんは友達だし…っ! 気にする必要なんてなし…っ!!
メニューを何度も往復しながら、空腹と葛藤していく。
「決まったか?」
穏やかな声に、びくっと肩が震えた。
「えっと、お……まだ…かな、ぁ?」
「そうか。オレはハンバーグプレートにでもするよ」
リックスがあっさり言った言葉に、美亞未の目がぱっと輝いた。
「あっ! じゃ、じゃあわたしもそれにしようかなっ!」
思わず嬉しそうな声が出てしまう。注文を終えて待っている間、美亞未は窓の外を眺めながら、指先でスカートの裾を何度も摘まんでいた。
「羽衣」
「な、なにっ!?」
不意に名前を呼ばれる。
「そう緊張するな」
「う、うん……ごめん、なんか変だよね、わたしっ」
美亞未は誤魔化すように笑ってみせた。
それからほどなくしてハンバーグプレートが運ばれてきた。鉄板の上でじゅうじゅうと音を立てるソースの匂いが、食欲を煽っていく。
いただきます、と手を合わせてからナイフとフォークを手に取る。
「それで…進路の話だが……」
リックスがナイフを軽く動かしながら、静かに切り出した。
美亞未はハンバーグを一口運ぼうとしたところで動きを止め、慌ててフォークを置いた。
「う、うん。そうだね……進路」
「食べながらでいい。こういう話は何かしていた方がいいだろう」
「そうかなあ…」
と言いつつ、美亞未は置いたフォークを再び手にして、ハンバーグを口にしていた。
「君は結局、何がしたいんだ? 星が綺麗だと思う気持ちは、ちゃんとあるんだろう?」
「……うん。キレイだと思う。でも、それでどうにかなるかって言うと……」
美亞未は言葉を濁した。
「……そういえば、リックスくんは前に宇宙の本読んでたけど、リックスくんは宇宙に何を感じているの?」
思い出したように、美亞未は問いかけてみた。
「何も感じない。宇宙には何もないと言っただろう。無だ。ナッシング」
「無って……」
「ただ、そこに『有る』だけだ」
抽象的な答えに、美亞未はう~んと首を傾げた。
彼はいつも小難しいことを言う。
「宇宙がどうして出来たか知っているか?」
「うん。確かビッグバンでしょ」
「ああ、正解だ。なら、ビッグバンの前に何があったと思う?」
「宇宙が出来る前ってこと? うーん…… 」
食べていた手を止めて、美亞未は考えてみる。
「なんだろう、闇? とかかなあ?」
「それも解の一つだろう。ビッグバンの前に何があったかは解明されていない。宇宙は何も『無い』ことすら『無い』。無とはすなわち、物質もエネルギー空間も時間も無い。だが、無から有が生まれ、有から宇宙が生まれた。それがビッグバンだ」
「……なにも無いところにいきなりビッグバンが起きたってこと?」
「簡単に言えばそうだな」
「…そっか、難しいね」
「だが、無から有を生み出した存在がいる。なんだと思う?」
「え……うーん……」
「それが『神』だ」
「……神、さま?」
美亞未はぱちくりと目を瞬かせた。
リックスが急に宗教的な話を始めたことに、予想外の驚きが顔に出てしまう。
「そう、神だ。無から有を生み出す、唯一の存在。少なくとも、オレの国では多くの人がそう信じている」
リックスはハンバーグを丁寧に切りながら、淡々と言葉を続けた。青い瞳が窓の外の光を映して、まるで星の欠片を宿しているように思えた。
「……リックスくんって、結構冷めた感じの人だと思ってたけど、神さまとか信じてるんだ?」
「信じてはいない。ただ、概念としては面白いと思っている。無から有を生み出す力……それは愛にも似ていると言わないか?」
「愛……?」
美亞未の心臓が、どくりと大きく跳ねた。
リックスは静かに微笑んだまま、続けた。
「愛は、何もないところから何かを生み出す。気持ち、想い、ときには……人を変えるほどの力だ。それは破滅にも似ている……君はそう思わないか?」
「うーん、どうだろう…わたしにはまだ分からないかも……」
答え終えると、添え物のブロッコリーを口にしていた。
「そうか」
リックスは短く答え、静かにアイスコーヒーを一口飲んだ。
沈黙が落ちる。
美亞未は胸の中で必死に自分を宥めていた。
頭の片隅で、希亞樹の顔がまた浮かんだ。
将来の夢。本当は、希亞樹と一緒にいる未来を想像していたい――だが、そんなことリックスに言えるわけがない。
「わたしは……まだ、愛とかよくわからないんだ。家族として、姉として、ちゃんとしないといけないこともあるし……」
「姉として、か」
リックスが小さく繰り返した。
その声の響きに、美亞未の背筋がぞくりと震える。
青い瞳が、じっと自分を見つめている。まるで心の奥まで見透かそうとしているみたいだ。
「羽衣は、弟のことをとても大事に思っているんだな」
「……え?」
「電車で一緒にいる時、君の顔が少し変わる。弟の話になるとな」
「……」
希亞樹とのことを何も聞かないと言ったはずなのに、こうして静かに、核心に触れてくる。
「リックスくんは……どう思う? 家族って、どこまで近づいていいものなんだろうね」
自分でも意外な言葉を口にしていた。
リックスは少し目を細め、窓の外の光を見つめた。
「どこかの国では、血の繋がりはとても重い。でも、愛というものは、誰にも止められないものだとも思う」
彼の声は低く、穏やかだった。
ハンバーグはもう半分も残っていなかったが、美亞未の食欲はすっかりどこかへ飛んでしまっていた。
「美亞未」
「へ…?」
いきなり下の名前で呼ばれ、心臓が一瞬、大きく跳ねる。
「名字よりも、名前の方が呼びやすい。これからはそう呼んでもいいか?」
「え、あ、うん。いいよ、全然っ!」
「君は今、すごく迷っているように見える」
リックスはナイフとフォークを静かに置き、軽く手を組んだ。
「進路の話だけじゃない。君の中にある、もっと大きな迷いだ。……オレは、君が弟のことをどう思っているのか、ずっと気になっていた」
指先が、わずかに震える。
「……リックスくんは、前に言ったよね。何も聞かないって」
「ああ、ただ、君が自分で話したいと思ったとき、聞く必要はあるだろう。愛は、無から有を生み出すと言っただろう。家族の愛も、男と女の愛も、根源は同じなのかもしれない。でも、線を引くのは人間だ。……君は、その線を、どこまで越えたいと思っている?」
美亞未は息を詰めた。ハンバーグの鉄板が、じゅうじゅうと小さく音を立て続けている。ソースの香りが、急に遠く感じられた。
「越えたい、なんて……わたしはただ……アキのことが、好きなんだよ。姉として、もちろん大事だし……それが普通だと思ってたし、でも、それ以上のこと、考えちゃいけないってわかってる。でも……」
言葉が途切れた。喉の奥が熱い。
リックスは黙ったままだ。きっと次の言葉を待っているのだろう。
美亞未は下唇を軽く噛み、窓の外に視線を逸らした。
「……リックスくんは、こういうの、気持ち悪いって思う?」
「……どうだろうな。ただ、危ういとは思う」
リックスの答えは、予想以上に優しかった。
「危うい、か……」
リックスは静かにアイスコーヒーを一口飲んでから、ゆっくりと言った。
「美亞未。君は、自分を罰したいのか? それとも、ただ誰かに肯定してほしいのか?」
その問いが、胸の奥深くに突き刺さった。
美亞未は答えられず、ただフォークでハンバーグを小さく崩すだけだった。また沈黙が落ちる。
やがてリックスが、穏やかな、けれど確かに熱を帯びた声で続けた。
「オレは、君の全部を知りたいと思っている。禁忌も、罪悪感も、弟への想いも……全部だ。君が、オレの前では、偽らなくていい場所になりたい」
リックスの青い瞳が、まっすぐに自分を見つめている。
その眼差しに、希亞樹の熱とは違う、静かで深い引力が感じられた。
きっと宇宙から見た地球も、こんな青色をしていたのだろうと、美亞未はプラネタリウムの続きを想像していた。
カフェのBGMが、遠くで流れ続けている。




