25 親の心
玄関を開けた瞬間、慌ただしい母の声が飛び込んできた。
「あ、ミミっ! ちょうどよかった」
落ち着かない様子で、母がバッグを肩にかけ直し、トンっと靴を鳴らした。
「母さんどうしたの? 急いでる?」
「うん……今、おじいちゃんが骨折したって電話があって。右足だって。救急車で病院に運ばれたらしいの。ちょっと様子見て、必要なら泊まりで付き添うかもしれないから」
母の声は早口で、目が忙しなく動いている。
美亞未の頭に祖父の顔が一瞬浮かんで、すぐに消える。
「そうなんだ」
「それで悪いんだけど、夕飯の支度と、洗濯物畳んでおいてくれる? お父さんには後でこっちから連絡するから」
母はそう言いながら、美亞未の肩に軽く手を置いた。
その手の温かさが、妙に重く感じる。
「夕飯はデリバリーでもいいし、ミミが作ってもいいからさ……」
美亞未は小さく頷く。
「んー分かった」
「ありがとう。ミミは本当に手がかからなくて助かるわ。あっ、ケーキ買って帰るからねっ!」
「チーズケーキとモンブラン」
「はいはい。じゃああとは頼んだからっ!」
慌ただし母の背を見送り、美亞未は靴を脱ぎ、いつものように揃えて並べた。
「……手がかからない、か」
何気ない母からの言葉を、口に出す。
希亞樹はまだ帰ってきていないが、朝の玄関を見ると確かに希亞樹だけ靴がいつも脱ぎっぱなしである。
無機質な玄関ドアをじっと見つめる。
かかとをきちんと合わせて、つま先を扉の方へ向ける。幼い頃から染み付いた習慣だ。
――これが、いい子なのかな。
ふと、そんなことを思った。
靴を揃えることと、弟とキスをすることが、同じ普通、当たり前として自分の中に存在している。
どちらも、ごく自然にしていることなのに。
揃えた靴を見つめ、美亞未は土曜日はスニーカーにしようかサンダルにしようか考えていた。
――ってなに悩んでるんだ、わたし。デートするわけじゃないんだからいちいちコーデなんて考えなくても……。
母の言葉は純粋な感謝だった。
昔からそう言われて育ってきた。
「ミミはいい子ね」「手がかからなくて助かる」「お姉ちゃんとして偉いね」
そんな言葉を何度ももらってきた。でも今は、その言葉が胸に重くのしかかる。
リビングに入ると、まだ温かい空気が残っていた。
母が急いで出かけた痕跡があちこちに残っている。テーブルの上には読みかけの雑誌に、夕飯の材料が少し出されたままになっていた。
美亞未は制服のままエプロンを着け、冷蔵庫を開ける。
母の言う通り、デリバリーにしてもいい。だが、何となく今は一人で黙々と家事をしていたい気分だった。
米を研ぎながら、ふと手の甲に視線を落とす。
昨日、希亞樹にキスマークをつけられた場所には、まだ薄い絆創膏が貼ってある。
母に気付かれなくて良かったと思う反面、なぜ罪悪感を抱かなければならないのか、という気持ちもあった。
「はあ……」
小さなため息が漏れる。
母は知らない。
自分がどれだけ「手のかかる」ことを、弟と二人でしているのかを。
「カレーはこの間食べたし、チキンライスにでもしようかなあ」
母が知ったら卒倒しそうなことばかりだ。
「わたし……本当に、手がかからないお姉ちゃんかな? というか……お姉ちゃんってなんだろう」
希亞樹におかずを買ってきてもらおうと、メッセージを送る。
米を炊飯器に入れ、スイッチを押したあと、美亞未は庭に干されたままの洗濯を抱えて、リビングへと戻る。
夕方のニュースを流しながら、洗濯物を畳んでいく。
美亞未はもう一度、母の言葉を胸の中で繰り返した。
『ミミは本当に手がかからなくて助かるわ』
もしも自分が妹で、希亞樹が兄だとしても、きっとこの関係は変わらないだろうと、美亞未は思う。
ぶるっとスマホが通知を鳴らす。
メッセージの返信は、希亞樹からではなくリックスからだった。




