19 黄昏は誰のもの
「げっ…」
「人の顔を見るなり、失礼だな羽衣」
「いや…だって……ああ、もう……」
美亞未は居心地が悪そうに、リックスから視線を逸らした。
放課後のことだ。
図書室に立ち寄った美亞未は、一番会いたくない人物と顔を合わせてしまった。
借りる本を決め、カウンターで手続きをするだけだった。
が、通路から抜け出そうとした瞬間、角から現れた人影と正面衝突しそうになったのだ。
よりによって、この狭い通路の曲がり角で鉢合わせるなんて、どんな悪運だろうか。
いや、先輩後輩とはいえ同じ学校に通っているのだ。ばったり鉢合わせてしまうのはあり得ることだ。
「ちょうどいい、少し話をしないか」
「……な、なにを?」
美亞未は腕に抱えた本をきゅっと抱きしめ直し、リックスを睨むように視線を上げた。
「そう警戒をするな。…この間は失礼なことをしたと思っている。謝りたいんだ、君に」
「……」
「君の…いや君たちのことについては聞かないことにする」
「…………」
美亞未は押し黙るしかなかった。リックスの真意を測りかねていたからだ。
「…分かった。でも、十分だけだからね…」
「ああ。ありがとう」
美亞未が頷いたのは、ただ謝って欲しかっただけなのと、断るとまた鉢合わせた時に同じことを言われると思ったからだ。
決して、リックスと話がしたいわけではなかった。
放課後の図書室は、利用する生徒もまばらで静まり返っている。
リックスを先に座らせてから、美亞未は一つ空席を挟んで美亞未も座った。
不自然な空白に、リックスが苦笑を漏らす。
「随分と…遠いな」
「声は聞こえるでしょ」
一人分の距離なら、大きな声を出さなくとも耳には届く。
「用件、手短にしてね」
抱えていた本は机の上に置き、バリアを張るようにその上に両手を重ねた。 視線はリックスのネクタイの結び目あたりに固定し、極力目を合わることはしないように務める。
これ以上、彼に自分の内へ踏み込まれたくなかった。この一席分の空白は、美亞未にとって絶対に譲れない防衛線でもあるのだ。
リックスは小さく息を吐くと、軽く手を組んだ。
「まずは、先日の無礼を謝らせてくれ。君を追い詰めるような真似をして本当にすまなかった」
低く、落ち着いた声が静かな図書室に響く。
いつも通りの、どこかクールな態度。しかし、その言葉に嘘や誤魔化しが含まれていないことくらいは、美亞未にも分かった。分かってしまうからこそ、余計にどう反応していいか困ってしまうのだ。
「……別に、もういいよ」
美亞未はぽつりと呟いた。
「…そうか」
リックスは美亞未の言葉を遮るように、だが優しく告げた。
「それが、君にとってどれほど重要なことなのか……あの後の君の様子を見て、少しは理解したつもりだ。オレの好奇心や正義感で暴いていい領域ではなかった」
「……」
美亞未の目は、リックスが持っていた本の背表紙を見ていた。
『宇宙の神秘』
シンプルなタイトルだった。
彼が好きそうなジャンルだとも思う。
「ねえ…」
「ん?」
「星、って…宇宙にはさ、何があるの?」
突拍子もない美亞未の問いかけに、リックスは一瞬だけ驚いたように目を瞬かせた。
ネクタイの結び目から、リックスの手元へと落としていた美亞未の視線が、ほんの少しだけ泳ぐ。
「あの……さっき、スマホ見たらさ。もうすぐ七夕だからって、星とか天の川の画像がたくさん流れてきて。だから、ちょっと気になっただけで…深い意味とかないし…なんかそういうの詳しそうだし…?」
リックスに踏み込まれたくないと言っておきながら、自分から話題を振るなんて矛盾している。自分でもそう思ったが、妙な気まずさに耐えかねて、つい目についたものから連想した言葉を口にしてしまった、と素直に言えるわけもなく。
リックスは組んでいた手をゆるめ、静かに微笑んだ。
「…宇宙には何もないさ。重力もない。音もない。神もいない。ただ、暗くて冷たい空間が延々と広がっている。その中に漂っているのが、星だ」
「それだけ?」
美亞未の目が、リックスを一瞥した。
「ああ」
リックスが答えれば、美亞未はくすりと笑った。
「もう少しさ、ロマンチックなこと言ってみたら?」
「言って欲しいのか? 生憎、宇宙にそんな感情を抱いたことはないな」
「あっそ……」
美亞未はつまらなそうに顔を横に向けた。
「星ってキレイだよね。眠れない日とか、窓を開けて空を見ると、星がよく見えるから。いつもキラキラしていて何であの星はあんなに輝いているんだろうって…昔から考えるのが好きだったな」
美亞未は呟くように言った。
「…星空ってキレイだよね」
意味もなく、美亞未はもう一度同じ言葉を繰り返していた。
「ね、リックスくんはどう思ってるの?」
「どう、とは?」
「星の光のこと」
「初めての問いかけだな。だが、そうだな……。光を求めるのは人の本能だ。光は人類史にとって、希望であり続け、導きであった。ゲーテなんかは最期まで光りを求めていたな。オレたちが生きていけるのは光があるからだ。だが、今オレたちがみる星の光はすでに過去のものだ。オレは、星の光はそこに『在る』とだけ思っていた。綺麗だと思ったことはないな」
「…は? はあ…」
予想外の返答に、美亞未は困惑する。
「…リックスくんはよく難しいこと言ったりするけど、リックスくんの夢はなに?」
「夢?」
「そう、夢。今日進路調査の紙もらってさ、進学はするつもりだけど、どの分野にするか迷っててさ……」
リックスが少しだけ視線を上方に彷徨わせ、それからまた美亞未を見た。 その瞳はいつも通り冷静で、けれどどこか遠くを見つめているようにも思えた。
「具体的な職業という意味なら、考えたこともないな。ただ、オレは真理を知りたいと思っている。この世界の仕組みや、宇宙の果てがどうなっているのか。人間の手では届かない領域にあるルールを、解き明かしたい」
「やっぱり難しいこと言うんだね」
美亞未は小さく息を吐き出しながら、苦笑を返す。
先ほどまで頑なにリックスのネクタイの結び目に固定していた視線は、いつの間にか彼の真っ直ぐな瞳へと移っている。
――あ、私、普通に話してるじゃん……。
引いたはずの防衛線が緩んでいることに気がついた。
一席分の空白を開けて座り、あれほど警戒して、これ以上踏み込ませないと心に決めていたはずなのに。気まずさを紛らわせるために振った話題だったが、リックスの少しズレた、けれど彼らしい誠実な答えを聞いているうちに、頑なになっていた心のトゲが少しずつ丸くなっていくのを感じていた。 まあ、いいか。
美亞未は心の中で、そっと小さく呟いた。
今だけだ。この図書室の、夕暮れ時の静けさがそうさせるのだろう。この冷たいようでいてどこか落ち着く空気の中なら、少しだけなら、こうして言葉を交わしていても悪くはないかもしれない。
「君は…夢は持ったことないのか?」
「あるけど…でも、幼稚園とかすごく小さい時のことだし……」
「どんな夢なんだ?」
「え、…は、恥ずかしいな…。でも、ありがちなお花屋さんとかケーキ屋さんとかだよ」
「今は、興味ないのか?」
リックスが美亞未の机の上の手に視線を落とし、それからまたこちらを見た。
「どうだろう。バイトでならやってみてもいいかな?」
「進路か。迷うのは当然だ。こうやって悩むのも自然なことさ。君は自分の心が動くものを選べばいい。星が綺麗だと思うその感性を、活かせる場所がきっとあるはずだ。……オレのような無粋な人間とは違ってな」
自嘲気味に、けれど少しだけ柔らかく微笑むリックスを見て、美亞未もつられて口元を綻ばせてしまった。
「ふふ、自分で無粋って言っちゃうんだ。でも、そうだね。私はリックスくんみたいに『宇宙には何もない』なんて言い切れないな。やっぱり、星はキレイだし、そこには何か素敵なものがあるって信じていたいもん」
美亞未は机の上に重ねていた両手を引き、ほんの少しだけ、体をリックスの方へと傾けた。一席分の空白はまだそこにあるけれど、二人の間の空気は、先ほどよりもずっと温かいものに変わっていた。




