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17 雨の中で

17 雨の中で


「げっ…マジか」

 希亞樹が外に出たのと同時に、雨粒が顔に当たった。

 予報では夜から雨が降ると言っていたが、大幅に外れたようだ。

 希亞樹は手にしている紙袋をじっと見つめる。

 生憎、家を出る時に雨は降っていなかったせいで傘を持ってきてはいないのだ。

 昨夜寝る前に知った、近頃SNSで評判になっているパン屋。焼き立てのクロワッサンと、ずっしり重いハード系のパンが絶品らしく、画面越しでも伝わる香ばしそうな焼き色にすっかり胃袋を掴まれてしまった。

 幸い、調べてみれば自宅から徒歩でおおよそ三十分ほどだった。

 休日の散歩がてら、ウキウキ気分で家を出たのが完全に裏目に出た。

 ポツ、ポツ、とアスファルトに黒いシミが広がっていく。

 空を見上げれば、いつの間にかどんよりとした灰色の雲が頭上を覆い尽くしていた。

 希亞樹はパン屋の紙袋にもう一度視線を落とした。

 並んでようやく手に入れたお目当てのクロワッサンと、焼き立てのカンパーニュ。そして、もう一つ。クッキー生地がサクサクで美味しいと評判と聞く、美亞未が好きそうなメロンパンも買ってある。この間、怒らせてしまった詫びの気持ちもあった。

 美亞未は朝から出掛けているが、夕方には帰ってくるとは言っていた。美亞未がこれを見たら、きっと目を輝かせて喜ぶに違いない。

 チラリと目に入ったコンビニの看板に、一瞬心が揺れる。しかし、希亞樹はすぐに首を振った。

 評判のパン屋なだけあって、会計は思った以上に跳ね上がっている。予定外の傘は、今の財布にはあまりにも出費が痛すぎる。

「走るか…!」

 希亞樹は紙袋を自分の上着の内側へと滑り込ませ、ジッパーを上まで固く閉めた。大切なパンたちを守るように胸を丸め、前傾姿勢を取る。

 そして、自宅のある方向へ向かって、激しくなり始めた雨の中を勢いよく走り出していた。

 雨はすでに本降りだ。

 冷たい雨粒が顔や首筋に突き刺さるように当たる。濡れた前髪が目に張り付き、視界が悪い。

 スニーカーはすぐに水を吸って重くなり、地面を蹴るたびに水飛沫が跳ね上がった。

「ああ、くそっ…!」 

 上着の中で大事に守っている紙袋が、走る振動で少し潰れそうになるのが心配だった。美亞未が喜ぶ顔を想像しながら、ウキウキで買ってきたのに、雨で台無しになるなんて、情けない。 

 息が上がる。肺が痛い。それでもスピードを落とさない。 

 バシャバシャと水飛沫を上げながら、角を曲がった瞬間――。

「ぉ、わっ!?」

「わっ…!?」 

 激しい衝撃が肩と胸にきた。希亞樹はバランスを崩しそうになるが、なんとか踏ん張り、咄嗟に相手の腕を掴んで転倒を防いでいた。

「悪いっ! 大丈夫かっ…!?」

 目の前にいたのは、同じ年くらいの少女だった。

 手に持っていた小さな折り畳み傘は、骨が曲がって役立たずになっていた。

 希亞樹が慌てて声をかけると、少女は濡れた睫毛を瞬かせて顔を上げた。翡翠のような緑色の瞳が、驚きに大きく見開かれている。

「あ、うん大丈夫だよ。こちらこそごめんなさい。傘壊れちゃったって急いでたから…」

 少女の声は澄んでいて、雨音の中でも不思議とよく通る。

 二人は一瞬、雨の中で見つめ合った。

「ケガとかしてないか?」

 少女の肩に手を添えて、彼女がちゃんと立てていることを確認する。少女の体は雨で冷たくなっており、触れた指先がひやりとした。 

 少女はふっと小さく笑った。

「平気だよ。ありがとう。お互い風邪引かないようにしようね」

 少女は雨に濡れた前髪を指でかき上げながら、柔らかく微笑んだ。

 その笑顔が、灰色の雨の中でも不思議と明るく見えた。

 淡い金色の髪が、雨粒をまとって肩に張り付いている。翡翠のような緑の瞳は、濡れて輝き不思議な透明感を感じられる。

 ――外国人か……。

 ふと、リックスの姿が頭を掠めた。

 近頃は、あの男の名前を美亞未の口から聞くことはなかった。

「じゃあねっ」

 駆けていく少女の背中を見送る。淡い金色の髪が雨に濡れて、まるで溶けていくように視界から遠ざかっていく。希亞樹はまだ肩に残る衝突の感触を確かめるように、自分の上着を押さえた。

「あっ、やべっ…!」

 紙袋は無事だった。



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