16 天使の囁き
雨が続く日が多くなっていた。
空は朝から灰色のベールに覆われ、太陽の気配すら感じさせない。雨は降っていなくとも、厚い雲が低く垂れ込め、街全体が湿った空気に包まれている。
路面はいつもじっとりと濡れ、靴底がアスファルトに吸い付くような感触が続いている。
街灯の下で光る水滴、夜になると聞こえてくる排水溝の音。すべてが重く、淀んだ空気に溶け込んでいる。
そんな日々が、いつまで続くのだろう。
「…で、なんだよ朝から」
日曜日の朝。
リックスはスチュワートに連れられて、市内の教会に訪れていた。
「いいだろう。たまには」
「たまには、か…」
古い教会だった。
街の中心から少し外れた場所にある、市民たちも来ないような小さな礼拝堂だ。ステンドグラスの色は雨曇りの光の中では鈍く、本来の鮮やかさを失っている。
「しかし、スチュワートが教会に来たいと言い出すとは思わなかったな」
「こういうのも恋しくなる時だってあるんだよ」
後方の長椅子に座る。
ぽつ、ぽつと信者たちが席を埋めているが空席の方が目立つ。
リックスたちの前には、同じ年頃くらいの少女が一人座っていた。
ブロンドの髪だった。リックスよりも少し淡い、麦藁のような色。背筋をまっすぐに伸ばし、何かの冊子に目を通しているようだった。
「最近ずっと暗い顔してるからなーお前」
「そうか? 低気圧のせいだろう」
美亞未とはあの一件以来、顔を合わせることはなかった。電車の時間をずらしたのか、いつもの時間、いつもの車両に見慣れた赤茶の髪色はなく、学校では後ろ姿こそ時おり見るくらいで会話を交わすこともない。
こちらからメッセージを送るのは、少々気が引ける。
「なあ、気になってる子とはどうなんだよ?」
思考を読んだかのように、スチュワートがタイミングよく嫌な話題を振ってきた。
「なにもないさ」
静寂の中で、美亞未の逃げていく背中が、また脳裏をよぎっていく。
あの朝の公園、水音と共に立ち去った彼女の足音。追いかけなかったのは、追いかける理由がなかったからだ。正しくはそうなのだが、それだけでもない気がして、リックスは視線をステンドグラスへと移した。
「ねえ」
前に座っていた少女が、こちらを振り返ってきた。
「ああ、すまない。うるさかったか」
くりっとした大きな瞳は、翡翠に彩られている。
「ううん」
振り返った少女は、じっとリックスの顔を見つめた。
「…どうした?」
「きみたちはいつもここに祈りに来ているの?」
「いや、こいつの付き添いだ」
とん、っとスチュワートの肘を小突いた。「おい」と小さな返事が帰って来る。
「そうなんだ。ボクもまだ通い始めたばかりなんだ」
ふふ、っと少女は愛らしい微笑を浮かべる。中世の画家が見れば、きっと絵に残していただろう――少女の笑みは雨曇りの教会の中でひときわ明るく、柔らかかった。まるで一筋の光が厚い雲を突き破って差し込んだかのように。
「悪いが君ほど敬虔な信者ってわけじゃないんだ、オレたちは」
「へえ、そうなんだ。じゃあなんで祈りにきたの?」
麦藁色のブロンドが、わずかな動きで肩の上を滑る様子が、なんだか夢のように儚げだった。
「まっ、気分転換だな」
スチュワートが変わりに答えた。
「へえ…じゃあきみは何を神さまに気になるな」
少女の瞳は、リックスを捉えたままであった。
「さあな」
「ふうん…。じゃあ、ボクが祈ってあげるよ。『新しい朝を迎えさせてくださった神よ、きょう一日わたしを照らし、導いてください。いつもほがらかに――』……」
少女の澄んだ声が、リックスの耳朶を打つ。
「あっ、もう始まるみたい」
さっと少女が十字を切ったのと同時に、オルガンの低い音が教会に響き始め、信者たちの静かな息遣いが広がっていく。リックスは窓の外に目をやった。
――祈りか……。
リックスは考える。
祝福されない愛ほど虚しいものはない。
哀しみだけを生み、他者もふたりも不幸にするだけだ。
ならば、どうすれば祝福される愛になる?
愛とは抽象的なものだ。しかし、言葉を交わしたり、手を繋いだり、抱き合ったり、キスをしたり、それ以上のことをするというのは愛の直接的な表われだ。
男と女、すなわちそれは原初アダムとイヴだ。
二人が産まれ、愛しあい、やがて結婚する。そうして子供の出産という祝福があり、いずれ子供も成長し少年や少女となりて大人になり、父母のように愛を育み生きて、また死んでいく。
そうして残された者はまた他者を求め愛し種を残していく――……。
それが愛の循環だ。魂の輪廻。愛すること、愛されることで人は繁栄し、今日にまで至る。人だけではない、この地球に存在するすべてのものがそうである。
しかし、二人が祝福される場所は、この世界にはない。
禁忌とされているそれを、二人は互いに望んでしまった。
だからこそ、リックスは祝福される愛を与えたいと思うのだ。
「ねぇ」
もう一度、少女がこちらを振り返ってきた。
「…なんだ」
「考え事?」
「ああ、難しいことだ」
「…きみはさ、神さまに何を祈るの?」
少女がもう一度同じ問いかけをしてきた。
「地球は青かった。だが、神は見当たらない。…そうだな。神に祈るなら、今のオレの心の迷いを晴らしたい」
「ふーん…」
少女の瞳がじっとリックスを凝視し、考え込むような仕草をした。
「…キミは何を迷っているの?」
「…違うな。オレは迷っているんじゃない。『答え』が知りたいんだ」
リックスは首を横に振って、先ほどの自分の言葉を否定する。
「…そう。見つかるといいね。『救いの角』は案外すぐ見つかるかもよ? あっ、そうだ。確かこの近くに美味しいパン屋さんがあるって寮長さんが教えてくれたんだ。キミもお腹が空いたら行ってみれば」
じゃあね、とひらっと手を翳して、少女は前を向き、牧師の言葉に耳を傾けていた。
さらっと広がった金の髪に、リックスは少女がドイツ出身の者だろうかと、ぼんやりと思った。
灰色のベールはまだ晴れず、雨は今にも降り出しそうな空を湛えている。




