15 夜は思い出の中で
階段を駆け上がった美亞未は、自室には戻らずに、希亞樹の部屋へと飛び込んでいた。
「うわっ!? な、なんだよ急に…っ!」
いきなり扉が開いたせいか、弟の声は上擦っていた。
「…アキ」
希亞樹はベッドの上に寝そべりながら、スマホを弄っていた。
「あのさ…」
扉を静かに閉めてから、ベッドまで辿り着くと、美亞未はそのままぼすんっと腰を下ろした。
スプリングの軋む音がする。
「な、なんだよ…姉貴…」
スマホをベッド脇に置いて、希亞樹が身を起こした。
美亞未はすぐに身体を、その胸の中に飛び込ませていく。
「おわ、っ!? ちょ……」
髪が首筋に当たって、くすぐったそうに身を捩っているのが伝わってくる。
「慰めてよ…」
「はあ? 何言ってんだよ、姉貴……」
「なんでも。慰めて。おまじない。いつもしてるじゃん」
希亞樹の胸に、ぐりぐりと額を押し付けていく。
美亞未は目を閉じて、その感触を味わう。
――ああ……アキだ。
安心する匂いと体温に、ナーバスになっていた心が落ち着いていくのが分かる。
だが、同時に不安も込み上げてくるのだ。
もしこの温もりがなくなってしまったら、自分はどうなってしまうのだろうか。そう考えた時、また胸の奥がぎゅっと痛くなった気がした。
沈黙が続く中、小さなため息が聞こえてくると、温かい手が頭に触れたのが分かった。
「何かあったのかよ」
「ん……少しね」
希亞樹の声が直接身体に伝わってくるようで、心地良い。
「……人って難しいよね」
「母ちゃんとケンカでもしたのかよ」
「そうじゃない」
顔を上げると、希亞樹と視線が合う。
希亞樹の瞳の奥には、一体なにがあるのだろう。美亞未はこの時はじめて、弟の目の色が鳶色であることに気が付いた。
唇に柔らかい感触が当たる。
希亞樹の唇が触れたのだ。
一度唇を離した希亞樹は、再び口付けをする。今度は少し長くて深いキスだった。
美亞未も瞳を閉じると、唇を少しだけ開いてそれを受け入れた。
ちゅく、と唾液が絡まる音がする。粘膜同士が触れ合う度に、頭の中に甘い痺れが広がるようだった。
そのまま二人はベッドに倒れ込むように、唇を重ね合ったまま倒れ込んだ。舌を絡ませ合い、互いの体温を分け与えるような熱いキスを続けた。
美亞未は希亞樹の横顔が好きだ。
幼い頃から、隣にいたのは希亞樹であった。
美亞未から見れば希亞樹は、決して器用でも賢くもない。けれども、彼の真っ直ぐで、眩しいくらいの素直さが美亞未には羨ましく、同時にそんな弟を愛したいと思えた。
「ね」
一人用のベッドは今の二人には窮屈だ。
倒れ込んだまま、弟の髪を指に絡ませながら、美亞未は問いかける。
「アキは私のこと好きなの?」
思えば、初めて聞いたかもしれない。
当たり前だと思っていたことが、当たり前じゃないかもしれない。
「は?」
リビングのテレビの音が大きいのか、扉を閉めているのに音が聞こえてくる。
「好きに決まってんだろ」
希亞樹の素直な言葉。
美亞未の心臓は確かに高鳴っていた。
「その、好きってどういう意味?」
「どうって、好きに意味なんてあるのかよ?」
素直過ぎるのも良くないな、と美亞未は苦笑するしかなかった。
「あるよ。……アキは友達に私のことなんて言ってるの?」
「姉貴だけど?」
「それだけ?」
「それ以外にあるのか? 姉貴は姉貴じゃん」
「……恋人とか、言ってない?」
髪を弄っていた指先は、希亞樹の頬へと触れていた。
言いたいことは沢山あるけれど、それを言葉に出来る表現力を美亞未は持っていなかった。
こうして二人きりになれる安堵感。キスをする喜び、語り合う幸せ――。
同時に過ぎる不安にも似た焦燥。
「私もアキのこと好きだよ」
「……最近の姉貴はなんか変だよな。楽しそうにしてたり、急にメンヘラみたいになったりしてさ」
「メンヘラって……もっと言い方あるでしょ……」
「……悪い。でも俺…姉貴を取られたくない…だれにも…渡したくないって思ってる。俺だけを見て欲しい。だから、俺だけのものになって欲しい。これが俺の好きだけど、姉貴は違うの?」
「…アキ」
美亞未はただ静かに弟の名を呼んだ。
そうしてまたキスをしていた。
重ね合わせた唇から、溢れる程の想いが伝わるように、と願いを込めながら。
何度もキスをしている筈なのに、どこか気恥ずかしくて、けれどもその感触が気持ち良くて堪らなかった。
唇を離せば、すぐ目の前には希亞樹がいて、自分だけを見つめている。
その事実が、美亞未には嬉しかった。
どこにも行かないで、自分だけを見つめてくれる鳶色の瞳――……。
「…あのさ、アキ」
「んー?」
生返事と共に、希亞樹の腹の音も聞こえた。
「ここ、撫でて」
美亞未が指さしたのは、自分のお腹である。
「なんで?」
希亞樹はずっと疑問符を浮かべたままだ。
「…生理になるとこの辺りがキリキリして痛いの。もう終わりかけてるから今はそうでもないけど、アキに撫でてもらうと落ち着くと思う…」
「ふーん…女子って大変だな」
「うん」
言われるがまま、希亞樹の手がゆっくりと美亞未の腹をシャツ越しにさすっていく。
「こんな感じでいいか?」
「……ん」
「姉貴って体温高いよな…」
「アキが低いだけ。私は平熱だよ」
希亞樹の手が、シャツ越しに優しく円を描くように腹部を撫で続ける。
最初は少しぎこちなかった動きも、徐々にリズムを掴んで滑らかになっていった。
「ここ? それとももう少し下?」「ん……今、ちょうどいい…かな…」
声が少し掠れている。
色々なことで傷ついた心が、弟の体温と優しい手のひらでゆっくり溶かされていくようだった。
瞼が重くなっていく。
今日の疲れと、緊張で張りつめていた神経が、急に緩んでしまったらしい。
美亞未は小さく息を吐いた。
「アキ……気持ちいい……」
「こういうので落ち着くもんなんだな」
希亞樹の声も少し低く、甘くなっている。
撫でる手はそのままに、もう片方の腕で美亞未の背中をそっと抱き寄せた。
二人して狭いベッドに横たわったまま、密着した体勢になる。
シャツの裾が少し捲れ上がって、素肌に直接手のひらが触れるようになった。
温かい。
少し荒い希亞樹の手のひらが、優しく腹部をさすっていくたび、じんわりとした心地よさが広がる。
「アキ」
「ん?」
「もっと……強く撫でてみて」
「こうか?」
手のひらに少し力を込められ、お腹全体をゆっくりと、でも確かな圧で揉まれるように撫でられる。
生理痛の残りかすが、すうっと引いていくような気がした。
「はぁ……ん」
自然と甘い吐息が漏れた。
美亞未は希亞樹の胸に額を擦りつけながら、ますます身体を預けた。
太ももが自然と絡みつき、互いの体温が混ざり合う。
「あ、あんま変な声だすなよ……! 俺まだ飯食ってないんだし……」
「んん、ごめん……」
希亞樹の息遣いも少し荒くなってきていた。
撫でる手が徐々に範囲を広げ、腰のラインや肋骨の下あたりまで上がってくる。
優しさの中に、抑えきれない欲情が混じり始めていた。
「……あ、ちょ、ちょっと待って! やっぱ撫でるのはお腹だけでいいからッ!」
微睡んでいた意識が、急に現実へと引き戻されていく。
「ぁ、わるい……」
希亞樹の手が引っ込んだ。
一瞬の沈黙が落ちた。
美亞未は自分の声が少し大きかったことに気づき、恥ずかしさで頰が熱くなるのを感じた。
希亞樹も気まずそうに視線を逸らしている。
「……ごめん。なんか、俺、調子乗ってた」
希亞樹がぼそりと謝る。
美亞未は熱を持ちかけた身体を宥めるように深呼吸をしてから、身体を起こした。
「うぅん、こっちも……ごめん。汗かいちゃったし、お風呂入ってこよう、って……あ!」
たまたま目に入った本棚の奥に、それはあった。
表紙は少し色褪せていて、背表紙の端が擦り切れかかっている。
美亞未が小学生の頃に、夢中になって読んでいた本だ。
ページの角が折れていたり、裏表紙に可愛い猫のシールが貼ってあったりして、彼女の物だと一目で分かる。
「これ……アキに貸したまま返してもらってなかったやつだ! 全然見当たらないから捨てちゃったのかと思ってたのにっ!」
美亞未はベッドから降りて本を手に取ると、振り返って希亞樹を見た。希亞樹はベッドの上で肩をすくめていた。
「あー……返してって言って来なかったし……いいかな、って……」
「も〜。こんな所にあったんだ……。ね…覚えてる? アキが一年生の時に遠足に行ってさ、お花持って帰ってきてくれたこと」
「え、そんなことしたか?」
「うん。でも花びらがいくつか散っちゃっててさ。帰ってきた時、アキ大泣きしてたじゃん」
美亞未はくすくすと笑って、パラパラと数年ぶりに手にした本を捲っていく。
「ほら、これ。あの時アキから貰った花、押し花にして取っておいたんだよ」
栞を希亞樹へと見せる。
花びらがいくつか散った、歪な形の白い名前も知らない花。
「嬉しかったな、アキからのプレゼント」
懐かしげに、美亞未は目を細めた。
「…な、なんでそんなつまんねえこと覚えてんだよっ」
だが、美亞未の胸の奥に眠っていた柔らかい記憶の欠片など、希亞樹にはまるで届いていなかった。
まるで腐った果実のように、ただ乾いた一言が投げつけられただけで、すべてが無価値に塗り潰される。
指先が栞を握りしめる。
――何とも思ってないんだ……。
「……つまらなくなんてないっ! もういいっ! バカっ!」
あっ、と希亞樹が何か言いたげに視線を向けたが、美亞未がその視線に応えることはなかった。




