終幕後 ――王道楽土 余
大いに観客を沸かせた演武祭は、無事終わった。
トルキアの王都の夜は、祭りの余韻を残しつつも落ち着きを取り戻し、祭りを楽しんだ者達も、そろそろその疲れを癒す刻限を迎えている。
「……さて……今日はこのくらいにしましょうか」
そんな時刻まで針仕事を続けていた乳姉妹は、効率を考えればそろそろ室内を照らす蝋燭がもったいないと考え、作りかけの産着を畳み、道具を裁縫箱にしまった。
「あと三枚は欲しいところですね……赤ん坊は汚しますし」
そう言って大きくなった腹部にそっと手を当てる乳姉妹の表情は、とても穏やかで優しい。
「……ふふ。また動いた。……元気ないい子ね。……お母さんは、早くあなたの顔が見たいわ……」
今や乳姉妹の主であるトルキア王妃に言い寄る有象無象の男達や、仕事を怠ける新人女官達などからは、『鬼嫁の眼光』と恐れられている乳姉妹だったが、愛する我が子に語りかけるその姿は、慈愛に満ちた母親そのものだ。
「……ところで、いつまでそうしていらっしゃるのですか? 旦那様?」
「……うぅ……亭主を膝に縋り付かせつつ、無視して黙々針仕事する乳姉妹ちゃんの鬼嫁ぇ……」
「無視というか、はっきり仕事の邪魔だと嫌がっておりましたが」
「追い打ちっ!!」
――亭主である呂飛刃の扱いはなんら変わりなかったが、それはさておき。
乳姉妹は現在母として、出産支度を調えている真っ最中だ。
そして、その準備の邪魔をしている――自分の膝に顔を埋めてグッタリしている夫にようやく目を向けると、乳姉妹はそれなりに優しい声で、飛刃へと話しかけた。
「――旦那様、お疲れ様でした。そして演武祭初優勝、おめでとうございます」
「ふ……本当にお疲れだったっすよ。なんでかっていうと……」
「というわけで、仕事は果たしたので、膝からどいてくれます?」
「仕事?!!」
「少しは冗談です」
「そこは全部冗談にして乳姉妹ちゃんっ。オイラ今日は、ほんっとぉおおおおおに大変だったんっすからねっ!! 聞いてよっ!! 聞いてよっ!!」
そう言って顔を上げた飛刃は、まさに満身創痍と呼ぶに相応しい状態だった。
幸い命に関わるような傷は負っていないが、身体中――特に顔へと重点的に追わされた打撲傷や擦過傷、裂傷等々は、見るからに痛々しい。
「五体満足でよかったですね」
「感想それだけ?! オイラ最大の長所の一つが、ズタボロっしょ?!!」
自分の顔を指す飛刃をじっくりと見返した乳姉妹は、やがて小首を傾げ、困ったように返す。
「…………長、所?」
「その本気の疑問形やめて?! 乳姉妹ちゃんオイラの顔嫌いなの?! トルキア兵野郎共の同類なの?!」
「……ああ、そのお顔は、やはりトルキアの兵士達にやられたのですか」
なるほど、と、頷いた乳姉妹は、実に納得です、と付け加えた。
さめざめ泣きつつ、飛刃は妻に語る。
「あいつらぁあ~~~っ!! オイラがあのアホ王子をボッコボコにした時は、喜んでたくせにぃいいい~~~っ」
「あらあら、アフジャールのナヴィド王子と当たったのですか」
「あれ、乳姉妹ちゃん知ってるっすか?」
「ええ。トルキアにいらっしゃる度、王妃様の進行方向を妨げようとなさる、喋る不快な障害物様ですね」
「……あ、うん?」
「あまりに迷惑ですので、半年前にも『丁寧に』ご説明差し上げ、王妃様には近づかないよう『誠心誠意』お願い申し上げ、『快く』ご了承いただいたのですが……あの方態度だけでなく、頭も記憶力も悪い方だったのですね」
「……」
あの傲慢王子を一時的にでも退かせた嫁は、一体どんな手をつかったのだろうと飛刃は思った。
「――まぁ、どうでもいいっすけどね。アホ王子の事なんか」
「そうですね」
「それより聞いてくれっす乳姉妹ちゃんっ。一回戦であのアホ王子を倒した後が、オイラとってもとっても大変だったっすよぉおおおおっ」
「アーハイハイ」
思っただけですぐに王子の事を忘れた飛刃は、再び妻の膝に泣きつき訴える。
「オイラその後、『何故か』異国からの参加者とは当たらず、決勝戦まで延々トルキア将兵と当たり続けたんっすけどねっ!!」
「ナンデデショウネ」
「どいつもこいつも、こんな感じで酷かったんっすよぉおおっ!!」
――二回戦―
―呂将軍、先程は我らが君を侮辱する若造をブチのめして下さり、感謝いたします―
―はは、いやまぁ大した事は……―
―だがそれはそれとして幸福者死ねぇえええええええ!!―
―なんでぇええええええええええ?!!―
―三回戦―
―三十路過ぎてもまだ色男死ねぇえええええええええええええええええええ!!―
―あんたは腹出てきましたねひぇえええええええええええええええええええ!!―
―四回戦―
―鈴々と明々と蘭々と華々にフラれた死ねぇええええええええええええええ!!―
―それは単にあんたが好みじゃなかったんでぎゃああああああああああああ!!―
―五回戦―
―乳姉妹ちゃんは俺が狙ってたのに死ねぇえええええええええええええええ!!―
―それはだいたい陛下のせいぎぇえええええええええええええええええええ!!―
―準決勝―
―ガンガン逝コウゼぇええええええええええええええええええええええええ!!―
―イノチダイジニぃいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい!!―
―決勝―
―……だ、大丈夫ですか呂将軍?―
―き……貴公はオイラに何か……言う事はないっすか……ゼィゼィ?―
―え? いいえ別に? 私は優しい妻に、心から愛され大切にされて幸せですから―
―…………―
―…………―
―色々負けた気分っす死ねぇえええええええええええええええええええええ!!―
―えええええええええええええええええええええええええええええええええ?!!―
「――こんな感じでっ!! オイラ極悪非道のトルキア兵に、散々イジメられたっすっ!!」
「……決勝戦の相手は、別にイジメてなかったような……」
「あの凶悪な精神攻撃で、トドメ刺されたようなもんっすよ!!」
「あらあら、それはなんておかわいそうな旦那様」
「棒読みっすよ乳姉妹ちゃんっ!!」
「ソンナコトハゴザイマセン」
「抑揚すら無くなったぁああっ」
「……全く、仕方のない旦那様ですねぇ」
「ふぇええんっ」
――それでも案外優しく飛刃の頭を撫でる妻に甘え、飛刃はしばらくぐずった。
見下ろしていた乳姉妹の表情が、ふと緩む。
「……それでも旦那様、祭り終了後は、近衛の部下や対戦者達を誘って、飲みに行かれたのでしょう? 支払いは優勝賞金で」
「う……ゴメンっす乳姉妹ちゃん。……その、ああいうアブク銭を、みんなでパーッと使うのも、上司の役目っすから……」
「判っております。……旦那様のそういう大らかな所、皆様に嫌われてませんわよ」
「……そうっすか?」
「嫉妬されてもいますから、好かれてもいませんけどね」
「うぅ~~……」
「……ふふ」
膝の上の情けない夫の頭を撫でながら、乳姉妹は微笑む。
――夫の柔らかい金髪の手触りが、小さな頃から大好きだった事は、乳姉妹の小さな秘密だ。
「……この髪が、マルハゲにされなくて、よかったです」
「そこまでされるほど、オイラ憎まれてたっすか?!!」
「サァドウデショウネ」
「やだもうっ!! 嫉妬男怖いっ!!」
「あらあら、嫉妬されているうちが花ですよ旦那様。誰にも相手にされなくなった美女、美丈夫の末路ほど哀れと言いますもの」
「だからオイラ、奥さんは大事にしとくって決めてたっすよっ」
「あらあら……」
「……容色も武術も、老いれば失われるもんっす。……恋愛対象として、誰にも見向きもされない年寄りになった時……オイラに寄り添ってくれるのは、家族である妻女だけっす」
「……」
意外にも真摯な言葉に、乳姉妹は少しだけ驚き、すぐに納得する。
派手な外見や遊び回っていた素行に周囲は誤魔化されがちだが、結婚してからの呂飛刃は、乳姉妹にとって決して不実な夫ではなかった。
「世の中には、古女房は捨てて常に若い妻や妾を侍らす殿方もおりますのに」
「はは、オイラはそういうの、なーんかイヤっすねぇ。性に合わない」
「……別に、そろそろ妾を得ても構わないのですよ?」
「ん?」
「……以前、先輩女官の方々もおっしゃってました。『自分が相手をできなくなる妊娠中が、一番男は浮気したくなる。騒いでも恥をかくだけなので、妾の一人や二人、ドンと構えて迎えてやるべきだ』……と」
「あはは……流石は王城の奥を仕切る、百戦錬磨の姐さん方。……まぁ、それもまた隆武帝国家庭の現実っすけどねぇ。でもオイラは、当分そういうのはいいっす。妾より、女房と産まれてくる子供の方が、今は気になって仕方が無いっす」
「……そうですか」
「あ、今喜んだ? 喜んだっしょ乳姉妹ちゃんっ?」
「ハイハイソウデスネ」
「棒読みに戻った!!」
優しくなぁいっ。と文句を言う飛刃から見えない場所で、乳姉妹は密やかに笑う。
「……それでも旦那様、私は旦那様よりも、我が主である御妃様を、第一に考える女でございますよ?」
――だから決して、貴方だけを愛し、貴方に耽溺するように優しくしたりはしないのだ。
そう言外で伝えた乳姉妹に、飛刃は僅かに肩を揺らして笑い返し、そっと大きくなった妻の腹に頬を当てて内緒話をするように言う。
「……なぁ、我が子よ、だが父は、お前の母が優しくしてくれるようがんばるぞ。ツンツンする娘ほど、優しくなると可愛いのだっ」
まぁ、とおもわず声を上げて笑った乳姉妹の中で、赤ん坊が腹を蹴る感触が伝わった。
「――あら、赤ちゃんが」
「動いたっ。……これは、父への激励っすかねぇ?」
「ソウダトイイデスネー」
「だから棒読みやめて?!」
冗談です、と返し乳姉妹はもう一度笑った。
そして冗談ついでに、今日小耳に挟んだ演武祭の噂を口にする。
「――そういえば、旦那様」
「ん? なんっすか?」
「御妃様に、愛の目線を送っていたとは、本当ですか?」
「ブホォ?!!」
意味が判らない濡れ衣に、飛刃は慌てふためく。
「ななっなんっすかそれは?!!」
「今日の夕刻、演武祭の見物に行ってた弟が、私に教えてくれました」
―ねえさま、あにうえは、おきさきさまからのせーえんにこたえるようにしあいをかちぬき、ことあるごとにチラッチラっとうるらしいおきさきさまにしせんをおくりながら、ゆうしをしめしていたのですっ。ぼくみましたっ。いやらしいっ―
「――と」
「……あんのクソガキ……いつか絞める」
飛刃は、大好きな姉が嫁に行く時散々泣きわめいていた乳姉妹の異父弟(六歳)を思い出し、密かな折檻計画を練った。
「チラッチラなさってたんですか?」
「してたっすけどっ!! それはあくまで警備大丈夫かって心配からっすからねっ?!」
「あら」
「……一旦諦めたとはいえ、御妃様が観戦席を抜け出して演武祭に顔を出す危険性だって、充分あったっすからねっ。今年は部下に任せたとはいえ、間違い無く御妃様が席に在るかどうか、確かめてないと安心できなかったっすっ!! ……今年は、御妃様を制御してくれる乳姉妹ちゃんもいないし……」
「旦那様って、意外と真面目ですものねぇ……」
「というか……あの御妃様をどうこうとか、想像もしたくないっすよ。不貞の疑いなんかかけられたら、間違い無く陛下に斬られるっすっ!!」
どこをだ、とはもはや乳姉妹も言わない。
「……陛下的には、旦那様に跡継ぎが産まれて一安心した辺りが、某所を斬する狙い目でしょうか?」
「ヤメテッ!! オイラの某所が斬られちゃったら、乳姉妹ちゃんだって困るっすよ?!」
「…………」
「何その沈黙?!!」
「冗談です。……ですか」
微かに目を細めて、乳姉妹は顔を上げた夫を見返す。
「……御妃様はあの通り、とてもお美しい方ですし。……少しだけ、妙な噂にならないか心配です」
「オイラが御妃様を? ――ナイナイ、それだけは、ぜーったい無いっす。ありえない。根も葉もない噂は、吐いた奴から抹消してやるっす」
やや真面目な口調の乳姉妹に、飛刃は肩を竦めてはっきりと断言し――そして、じっと妻を見つめる。
「……旦那様?」
「勿論、御妃様の事は可愛いっすよ。妹とか、弟子とか、そんな感じで」
「でしょうね」
「うん。……でも……そうっすね。それだけじゃなく、今の御妃様には……オイラの方が、醜い嫉妬を感じているっすから。個人的な好意を持つ事は、ありえない」
「……嫉妬?」
「そう。……嫉妬」
そう言って乳姉妹の手に指を絡め、やや挑発的に唇を歪める飛刃は――傷だらけでもなお、艶めいて美しい。
「……判らない? 我が妻女?」
「……今まで、存じませんでした」
未だ『トルキア王国一妻姉妹娘孫娘を近づけたくない男』として、トルキア中の男達から警戒されている、呂飛刃渾身の媚態を真正面から受けた乳姉妹は。
「……旦那様が」
ほんのりと顔を赤らめ、恥ずかしそうに視線を逸らしながら――飛刃に返す。
「そんなにも……国王陛下の事を愛してらっしゃったなんて……」
「違うっすよ?!!!!」
渾身の色仕掛けが滑ったトルキア一の色男は、妻の激しく斜めに傾いた解釈に泣いた。
「え……違ったんですか?」
「違うっすよ?!! そっちじゃないっすよっ!! むしろ何がどうなって、その解釈に行き着いたっすか乳姉妹ちゃん?!!!」
「……でも旦那様は、恋人よりも陛下を選び、この国にいらっしゃいましたし……」
「仕事!!! あの時恋人よりも選んだのは、陛下じゃなくて隆武の武将としての仕事っす!!! そりゃ、忠誠心が無いとは言わないっすけどっ!!」
「……と言いつつ、実は……?」
「ねぇっすよ!!! あんな腹黒陰険モヤシと妙な勘ぐりされるくらいなら、実は宰相じーちゃんと超仲良しだって噂された方がまだマシっすっ!!!」
「……だ、旦那様、そういうご趣味も……」
「ねぇっすよ!!! ――オイラが御妃様に嫉妬してるのは、乳姉妹ちゃんを独占するからっすからねっ!!!」
「……っ」
乳姉妹の内心が、微かに喜びで震えた。
「……」
だが顔には出さず、耐える。
乳姉妹は、内外から様々な視線を向けられ危なっかしい、呂飛刃の手綱を取る鬼嫁だ。
――そうなる事で、呂飛刃を支えるため嫁いで来た。その自負がある。
だから乳姉妹は、飛刃を溺愛しない。
「……それはそれは、ありがとうございます」
「あっ信じてないっ。その薄笑い、信じてないっしょ乳姉妹ちゃんっ」
「いいえ、そのような事。……ただ私は、幼い頃から旦那様の武勇伝(夜)を、あちこちから耳に入れていただけにございます」
「子供に何聞かせてるっすか~お城の大人達ぃ~っ!!」
なんとか自分に陥落させ、自分を一番溺愛させようとする夫。
素知らぬ顔で夫の求愛をかわして、夫と主君のため、夫に与えるアメと鞭を調整する妻。
「……それでも、嬉しゅうごさいますよ、旦那様?」
「……ほんとに?」
「ええ、勿論。乳姉妹は大切な旦那様の、妻女にございますから」
「……オイラの奥さん、超カワイイっ」
「アーハイハイ」
「そして棒読みに戻るっ!!」
――様々な思惑が絡まりつつ、それもまた、一組の夫婦の愛の形だった。
トルキアは、今夜も平和だった。
上下話から削っていた余りエピソードでしたが、加筆して短編分の長さになったため付け加えます。以上、御読了ありがとうございました。




