第六話 お父さんは弱い
火は、夜明け前に上がった。
最初に気づいたのは三つ目梟だった。
甲高い警戒音でカイルが目を覚ます。
廊下へ出ると、煙が天井を這っていた。
「火事だ!」
火元は西の獣舎。
乾いた藁へ油をまかれ、炎が壁まで上がっている。
カイルはノアの部屋へ飛び込んだ。
「起きろ!」
「お父さん?」
「火事だ。ポポと外へ出ろ」
寝ぼけていたノアの顔が変わる。
「みんなは?」
「俺が出す」
「私も――」
「外へ行け!」
カイルは彼女を抱き上げ、窓から庭へ下ろした。ポポも続けて投げる。
「セラのところへ走れ!」
確認する暇はない。
カイルは濡らした布を口へ巻き、西棟へ入った。
檻の鍵を順番に開ける。
怯えた魔獣を一度に放せば、出口で詰まる。小型で足の速いものから先へ。次に鳥型。最後に大型種。
「走れ! 庭へ出ろ!」
スライムは水を吸わせ、炎の前へ並べる。
火竜には火を食わせた。火を吐くだけでなく、種類によっては炎を吸収できる。
黒角熊は煙に弱い。頭へ濡れた毛布をかけ、壁を壊して直接外へ出す。
カイルは戦士ではない。
炎を魔法で消せない。
燃える梁を剣で断つこともできない。
それでも、この場所にいる誰より魔獣を知っていた。
最後の檻を開けた時、梁が落ちた。
避けきれず、肩へ受ける。
「ぐっ……!」
床へ膝をついた。
熱い。
服へ火が移る前に転がって消す。
外からノアの声がした。
「お父さん!」
「来るな!」
煙の向こうに、小さな姿が見える。
ノアは戻ってきた。
庭へ出た魔獣たちも後ろにいる。
「お父さんが出てこないから!」
「出る! だから下がれ!」
カイルは立とうとした。
梁が肩へ食い込んでいる。
ノアの顔から血の気が引いた。
次の瞬間、建物全体が揺れた。
「どいて」
ノアが梁へ手を向ける。
重い木材が浮き、横へ投げ出された。
壁が一斉に外側へ倒れる。
炎まで、ノアを避けるように二つへ分かれた。
彼女は燃える廊下を歩き、カイルの前へ来た。
「怪我したの?」
「少し打っただけだ」
肩から流れた血が、指先へ落ちる。
ノアはその赤を見た。
「誰がやったの」
カイルは答える前に、窓の外を見た。
森へ逃げる人影がある。
昨日の聖騎士。油壺を捨て、馬へ乗ろうとしていた。
ノアも見つけた。
魔力が膨れ上がる。
外の魔獣が一斉に男へ向いた。
「あの人?」
ノアの声は静かだった。
「ノア、待て」
「お父さんを傷つけた?」
騎士が馬へ飛び乗る。
逃げようと手綱を引いたが、馬は動かない。《魔物支配》を受け、四本の脚を地面へつけたまま固まっている。
巨大狼が騎士を囲む。
火竜が空から降りる。
黒角熊が、燃え残った柱を前脚で砕いた。
騎士の顔が恐怖に歪む。
「化け物め!」
男は剣を抜いた。
「近づくな!」
ノアが炎の中から歩いて出る。
「お父さんに、ごめんなさいって言って」
「誰が、お前などに!」
騎士は剣を投げた。
刃がノアへ飛ぶ。
空中で止まった。
ノアが見つめると、剣はゆっくり向きを変える。
切っ先が騎士自身へ向いた。
「ノア!」
カイルが呼ぶ。
彼女の肩が震えた。
「俺を見ろ!」
ノアは振り返らない。
「この人、お父さんを殺そうとした」
「俺は生きてる」
「次は、死んじゃうかもしれない」
「そうかもしれない」
カイルは痛む肩を押さえ、彼女へ歩く。
「でも、怒っている時に人の命を決めるな」
「どうして?」
「怒りが収まっても、決めたことは戻らないからだ」
剣先が騎士の喉元まで進んでいる。
男は腰を抜かし、地面へ座った。
「強さは、誰かを怖がらせるために使うものじゃない」
カイルはノアの隣へ立った。
「じゃあ、何のため?」
ノアがようやく父を見る。
「帰る場所を守るためだ」
背後では養育所が燃えている。
帰る場所は半分、なくなりかけていた。
だからこそ、カイルは言った。
「壊すより、残すために使え」
ノアの目に涙がたまる。
「でも、怖かった」
「ああ」
「お父さんが、いなくなると思った」
「俺も怖かった」
カイルは無事な腕で彼女を抱いた。
「怖い時は、怖いと言え。全部一人で何とかしようとするな」
ノアはしばらく動かなかった。
やがて、浮いていた剣が地面へ落ちる。
魔獣たちの殺気も消えた。
ノアは袖で涙を拭き、騎士へ向き直った。
「井戸まで運んで」
巨大狼が騎士の襟をくわえた。
「何をする気だ!」
騎士が暴れる。
「火を消すの、手伝ってもらう」
男は井戸の横へ放り出された。
黒角熊が水桶を渡す。
受け取らないと牙が近づく。
騎士は必死に水を運び始めた。
セラが町の者を連れて戻った。
人と魔獣が列を作り、井戸から水を渡していく。
ノアは《魔物支配》を使わなかった。
一頭ずつ頼んだ。
「手伝って」
魔獣たちは自分の意志で動いた。
火は昼前に消えた。
西棟は焼け落ちたが、魔獣も人間も死ななかった。
放火した騎士は町の兵へ引き渡した。
夕方、ノアは焼け跡へ座っていた。
カイルは治療を終え、肩を布で吊っている。
「お父さん」
「何だ」
「お父さん、弱いの?」
カイルは隣へ腰を下ろした。
「誰から聞いた」
「白い人。弱い男には守れないって、昨日言ってた」
「剣なら、あいつらのほうが強いな」
「じゃあ私が守る」
ノアは小さな拳を握った。
「それは頼もしい。でも、俺ができることまで奪うな」
「お父さんにできること?」
「今日、魔獣を逃がした。お前を止めた。火を消す方法を考えた」
「戦ってないね」
「戦うだけが強さじゃない」
カイルは焼けた柱を指さした。
「一人であれを持ち上げられなくても、火竜に頼めば運べる。俺は火竜が何を嫌い、何を喜ぶか知っている。できないことがあるなら、できる相手と一緒にやればいい」
ノアは庭を見た。
町の大工とゴーレムが、もう新しい柱を立て始めている。
「お父さんは、みんなのこと知ってるから強い?」
「そう思ってくれると助かる」
「じゃあ、私もみんなを知る」
「まずは名前からだな。『そこの大きい子』で済ませるな」
ノアは真剣に頷いた。
焼けた地面から、緑がのぞいている。
カイルは目を細めた。
火に焼かれたばかりの土だ。芽が出るには早すぎる。
「ノア。ここへ何か植えたか?」
「植えてないよ」
新芽は、見ている間にも伸びた。
一つ、二つ、十。焦げた土を覆い、青い花を咲かせる。
花弁には、見たことのない星空の模様が浮かんでいた。
セラが近づき、膝をつく。
「この花、北大陸の図鑑にもなかった」
「壊れたところから生えた」
ノアが花へ触れる。
花々は彼女へ顔を向けた。
カイルは《養育》を使う。
【対象:名称未設定の植物】
【状態:誕生直後】
【原産地:未生成】
「未生成?」
意味を考える前に、森から馬の足音がした。
白銀の騎士が一人、門の前で止まる。
レオニスだった。
「放火の件を謝罪しに来た」
彼は馬を降り、剣を鞘ごと地面へ置く。
「あれは団の命令ではない。だが、私の部下だった。責任はある」
カイルは立ち上がった。
「謝って済むと思うか」
「思わない。修復費用と、負傷した魔獣の治療費は団へ払わせる」
レオニスはノアを見た。
「それでも、私の使命は変わらない」
「また私を殺しに来るの?」
ノアが尋ねる。
「次は一人で来る。命令ではなく、自分の目でお前を確かめる」
彼は地面の青い花へ気づいた。
冷静だった顔が、初めて大きく揺れる。
「この花を、どこで手に入れた」
「今生えた」
カイルが答える。
「そんなはずはない」
レオニスは花へ触れず、刻まれた星の模様を見つめた。
「これは教会の禁書にだけ描かれている。《始まりの庭》の花だ」
彼はノアを見る。
「世界を終わらせる者のそばに、なぜ世界最初の花が咲く?」




