第二話 育てるということ
朝になっても、答えは出なかった。
嵐だけが去った。
雲の切れ間から射した光が、濡れた庭を白く照らしている。折れた枝や飛ばされた桶が散らばり、井戸の脇では青いスライムたちが雨水を吸って二倍に膨らんでいた。
いつもならカイルは、夜明けと同時に餌を配る。
今日は厨房の椅子に座ったまま、眠る赤ん坊を見ていた。
籠の中ではない。
籠は雨が染み込み、使えなくなっていた。赤ん坊はいま、畳んだ毛布を敷いた野菜箱で眠っている。
「世界を終わらせる奴の寝床が、芋の箱か」
口にすると、あまりに馬鹿らしい。
それでも鑑定板の表示は消えてくれなかった。
【Lv100到達時、世界終了】
板を伏せても、文字は頭の裏へ焼きついている。
役所へ届ける。
それが普通の判断だ。
捨て子を拾った者には届け出る義務がある。親を捜し、見つからなければ孤児院が引き取る。カイルが勝手に育ててよい話ではない。
ただ、役所では必ず鑑定する。
職業を見た役人は教会へ知らせる。
教会は神託を求めるだろう。
世界を終わらせる可能性と、名もない赤ん坊の命。彼らがどちらを選ぶか、考えるまでもなかった。
「俺だって、世界は惜しい」
野菜箱へ話しかける。
赤ん坊は眠ったままだ。
「この養育所も、マルタの卵も、町のパン屋もな。昨日まで知らなかったお前一人と取り替えていいとは思わない」
答えはない。
「でもな」
その先が言えなかった。
裏庭から、金属の柵が鳴る。
餌の時間を過ぎた鎧猪が催促しているらしい。
カイルは立ち上がった。
考えても決められない時は、手を動かす。腹を空かせた魔獣は、世界の終わりより待ってくれない。
赤ん坊を一人にするわけにもいかず、野菜箱ごと餌車へ載せた。
「落ちるなよ」
「すぅ」
「いい返事だ」
最初は鎧猪。次に三つ目梟。青スライムには乾燥茸を細かく刻んで与える。水を吸いすぎた日は塩分も少し必要だ。
どの魔獣も、餌より先に赤ん坊を見た。
昨日と同じように頭を下げるものもいれば、怖がって巣へ隠れるものもいる。
だが敵意を示すものはいなかった。
「お前たちには何が見えてる?」
カイルが尋ねると、三つ目梟は中央の目だけを閉じた。
「そうか。分からん」
餌を配り終え、火竜の納屋へ向かう。
マルタは卵へ翼をかぶせていた。カイルを見ると喉を鳴らす。腕の中の赤ん坊へ気づいた途端、その音が止まった。
火竜が身を低くする。
頭を下げたのではない。
卵を守りながら、赤ん坊へ見せようとしている。
「自分の子を紹介してるのか?」
マルタが鼻を鳴らす。
赤ん坊は目を覚ました。赤い卵を見つけ、手を伸ばす。
「触るな。まだ熱い」
カイルは止めたが、指先が一瞬だけ殻へ触れた。
卵の炎が強くなる。
驚いたカイルは、《養育》で状態を確認した。
【養育対象:火竜の卵】
【状態:健康/孵化準備】
【成長方向:攻撃性上昇】
表示が揺れた。
【外部干渉を確認】
【成長方向:親和性上昇】
カイルは息を止めた。
卵の成長が変わった。
赤ん坊が触れただけで。
「今、何をした?」
「あぅ?」
問い詰める相手としては適切でない。
鑑定板を当てても、新しい技能は見つからなかった。
【固有技能:閲覧制限】
世界を終わらせる力が、火竜を穏やかに育てた。
カイルには、その意味が分からなかった。
ただ一つ分かったことがある。
この子の未来は、鑑定板に書かれた一行だけでは決まっていない。
昼前、養育所へ馬車が来た。
町の食料品店を営むハンナだった。五十を過ぎた大柄な女性で、カイルへ山羊乳や穀物を卸している。
「生きてるかい、偏屈男!」
玄関を開ける前から大声が響いた。
「見れば分かるだろ」
カイルが外へ出ると、ハンナは荷台から小麦袋を担いでいた。
「あんたは腕が一本取れても、生きてると言い張りそうだからね。マルタは?」
「無事に産んだ」
「そりゃよかった。卵が孵ったら見せとくれ」
ハンナは袋を下ろし、餌車の野菜箱へ目を向けた。
布の隙間から赤ん坊の足が出ている。
「カイル」
「何だ」
「その芋、足が生えてるよ」
「芋じゃない」
ハンナは布をめくった。
赤ん坊が笑う。
大声で笑うことで知られるハンナが、しばらく言葉を失った。
「……あんたの子かい?」
「どういう計算をしたらそうなる」
「知らないよ。あんたが町へ来なくなった時期に、何かあったのかと」
「拾った。昨夜、玄関に置かれてた」
ハンナの顔から冗談が消えた。
「役所へ知らせたのかい?」
「まだだ」
「早くしな。親が捜してるかもしれない」
「足跡はなかった。あの嵐の中、籠だけが置いてあった」
「だからって――」
ハンナは言葉を切った。赤ん坊が彼女の指を握ったからだ。
「あら」
「人見知りしないらしい」
「あんたより愛想がいいね」
「比べるな」
ハンナは赤ん坊を抱き上げた。抱き方に迷いがない。三人の子と七人の孫を育てた腕だ。
「少し痩せてる。昨日今日、捨てられたんじゃないね。しばらく満足に飲ませてもらってない」
「分かるのか」
「あんたが竜の顔色を読むのと同じさ」
赤ん坊の頬を撫でながら、ハンナは低い声で言った。
「捨てた事情は知らない。でも、この子に罪はないよ」
カイルの胸へ、その言葉が刺さった。
事情を話していないハンナには、何の意図もない。
罪はない。
まだ何もしていないのだから、当然だ。
未来に何をするか分からない。それは誰だって同じだ。
けれど、この子だけは鑑定板に未来を書かれている。
世界を終わらせる、と。
「ハンナ」
「何だい?」
「もし、その子が大きくなったら町を焼くと言われたら、どうする」
ハンナは眉を寄せた。
「誰に?」
「神様でも、鑑定板でもいい」
「焼いたのかい?」
「まだだ」
「なら、焼かないように育てる」
あっさりした答えだった。
「それで失敗したら?」
「その時は、育てた大人も一緒に責任を取る。それが嫌なら、最初から親なんかできないよ」
ハンナは赤ん坊をカイルへ返す。
「変なことを聞くね。寝てないんだろ。顔を洗ってきな」
彼女は荷物を下ろし、昼過ぎに帰った。
カイルは言えなかった。
町ではない。世界だ。
失敗した時には、一緒に責任を取る相手さえ残らないかもしれない。
午後、カイルは物置の奥から剣を出した。
見習い時代に支給された短い剣だ。手入れはしているが、仕事で使うことはない。
赤ん坊は毛布の上で、自分の足をつかんで遊んでいる。
今なら、抵抗されない。
苦しませずに終わらせることもできる。
世界を守るという理由なら、誰もカイルを責めないだろう。
むしろ英雄と呼ばれるかもしれない。
剣を抜く。
鈍い銀色が、窓から入る光を返した。
赤ん坊が剣を見た。
怖がりはしない。
何でも触りたい年頃らしく、手を伸ばした。
カイルの脳裏に、別の幼い獣が浮かぶ。
十五歳の頃。
聖騎士団の魔獣管理所で、彼は見習いをしていた。
捕らえられた雷獣の子がいた。まだ目も開いておらず、鳴くことしかできなかった。
上官は言った。
『成長すれば人を襲う。危険になる前に処分する』
カイルは檻の前に立っていた。
何か言おうとした。
怖くて言えなかった。
剣が振り下ろされた時、雷獣の子は最後まで、近くにいたカイルへ助けを求めていた。
翌日、母親の雷獣が管理所を襲った。
騎士たちは「あの種はやはり危険だ」と言った。
カイルには、子供を奪われた母親が迎えに来ただけだと分かった。
分かっていたのに、何もできなかった。
「同じか」
カイルは剣を見つめた。
「あの時と、何が違う」
赤ん坊は、まだ何もしていない。
鑑定板へそう書かれていた。それだけだ。
カイルは剣を鞘へ戻した。
「できるか」
声が震えた。
「まだ何もしてない子供を、未来の罪で殺せるか」
赤ん坊はカイルの声に驚き、瞬きをした。
「お前は俺が育てる」
言った瞬間、恐怖が消えたわけではない。
むしろ決める前より怖かった。
自分の判断で世界を危険へさらす。正しいと証明してくれる者はいない。
それでも、腕の中の重さだけは確かだった。
「ただし、絶対にレベルは上げない」
現在は一。
百まで九十九ある。
九九までなら世界は終わらない。
「九九なら安全だ」
口に出した途端、相当に危ない理屈だと気づいた。
赤ん坊が「あい」と答える。
「分かってないな」
「あい」
「俺も分かってないから、お互い様か」
次に必要なのは名前だった。
個体名未設定のまま育てるわけにはいかない。
カイルは書斎の本を何冊も開いた。偉大な聖女や女王の名は、世界最終敵につけるには縁起が複雑すぎる。花の名は似合うが、火竜や鎧猪に囲まれて育つ子には少し弱い。
古い地方語の辞書で、一つの言葉を見つけた。
「ノア」
赤ん坊が顔を上げる。
「小さな舟という意味だ。嵐を越えて、ここまで来たから」
「の、あ」
偶然だろう。
それでも、自分の名を口にしたように聞こえた。
カイルは鑑定板へ手を置き、仮登録を行う。
【個体名を設定しますか?】
「ノア」
【個体名:ノア】
空欄だった場所へ名前が刻まれた。
その下の職業は変わらない。
【職業:世界最終敵】
だが、名があるだけで見え方が変わった。
世界最終敵ではない。
ノアという子供が、世界最終敵と呼ばれている。
「まずは寝床だな。芋箱は今日で卒業だ」
カイルは余った木材を集め、小さな寝台を作り始めた。
夕方には形になった。柵の間隔を狭くし、角を削り、毛布を敷く。
「どうだ」
ノアを寝かせる。
彼女は柵を握り、一度転がって、すぐ眠った。
「感想はなしか」
カイルも床へ座った。
眠気が押し寄せる。
目を閉じかけた時、納屋のほうで木が割れる音がした。
マルタではない。
もっと低く、大きな唸り声。
カイルは跳ね起き、壁の短剣を取った。
廊下の格子が外側から歪んでいる。
黒い角を持つ巨大な獣が、窓を破って頭を入れていた。
森の奥に棲む災害級魔獣、黒角熊。
成体なら騎士十人でも止められない。
「どうしてここに」
黒角熊は格子を破り、廊下へ入った。
魔獣たちが怯えて奥へ下がる。
カイルはノアの寝台の前へ立った。
短剣一本で勝てる相手ではない。
逃げ道もない。
黒角熊が前脚を上げる。
「来るなら俺へ来い」
カイルは短剣を構えた。
巨大な前脚が下りる。
床ではなく、黒角熊自身の頭が。
獣はノアの寝台の前へ伏せた。
鼻先を床につけ、目を閉じる。
窓の外で枝が揺れた。
一頭ではない。
狼、鳥、角鹿。森じゅうの魔獣が養育所を囲み、同じように頭を垂れている。
ノアは目を覚まし、黒角熊を見た。
「くま」
小さな手が伸びる。
黒角熊は、その指先へ額を触れさせた。
【《魔獣好感》が発動しました】
【周辺魔獣から、最大級の好意を確認】
カイルは短剣を下ろした。
「育てる前から、懐かれすぎだろ」
そして鑑定板の端に、見覚えのない表示が浮かんだ。
【養育者候補を確認】
【接続を開始します】
接続が何を意味するのか、その夜は分からなかった。
分かったのは、ノアを養育対象として見られるようになったことだけだ。
【養育対象:ノア】
【状態:健康/軽度の空腹/眠気】
【感情:安心/好奇心】
【成長:良好】
【必要:睡眠/適切な栄養/身体接触】
火竜や鎧猪と同じ形式だった。
最後の一項だけが違う。
【養育により、成長方向へ干渉できます】
「成長方向?」
カイルが表示へ触れると、いくつもの候補が開いた。
【魔力感応/身体強化/支配性/共感性/言語理解】
何を選べばよいか分からない。
世界を終わらせる力へ育てないためには、《支配性》を避けるべきだろう。だが《身体強化》も《魔力感応》も、将来の危険につながる可能性がある。
「普通の赤ん坊なら、何を選ぶ」
カイルは自分に問う。
答えは単純だった。
まず、言葉を覚える。
気持ちを伝えられれば、危険な力を持っていても話し合える。
カイルは《言語理解》を選んだ。
【成長方向を設定しました】
【攻撃性へ向かう成長の一部を、言語理解へ転換します】
攻撃性という言葉を見て、背中が冷えた。
何もしなければ、ノアは自然に攻撃的な方向へ育つらしい。
同時に、変えられると分かった。
世界最終敵という職業が、人生のすべてを決めるわけではない。
翌朝から、育児が始まった。
カイルは魔獣を何百頭も世話してきた。
赤ん坊も、小さな生き物という点では似ていると思っていた。
三日で、間違いだと知った。
火竜は腹が減れば、餌入れを叩く。
ノアは泣く。
鎧猪は眠ければ、泥へ潜る。
ノアは泣く。
三つ目梟は体調が悪ければ、中央の目が青くなる。
ノアは泣く。
「全部同じじゃないか!」
夜中、カイルは泣き声を前に頭を抱えた。
【状態:健康】
【空腹:なし】
【眠気:あり】
【不快:なし】
【感情:寂しい】
「俺はここにいる」
寝台の横から声をかける。
ノアは泣き続ける。
「見えてるだろ」
【必要:身体接触】
仕方なく抱き上げる。
泣き声は止まった。
寝台へ戻す。
また泣く。
「これでは何もできないぞ」
抱き上げる。
止まる。
戻す。
泣く。
十回目で諦めた。
カイルはノアを胸へ載せ、椅子へ座ったまま眠った。
朝、首と腰が動かなかった。
ハンナは様子を見に来るたび、大きな声で笑った。
「魔獣養育の専門家が、赤ん坊一人に負けたのかい」
「火竜は夜中に三度も起きない」
「あんただって赤ん坊の時は起きたよ」
「見たことがあるのか?」
「あんたの母親に聞いた」
カイルの母は遠い町で暮らしている。息子が急に子供を育て始めたと知れば、翌日にも押しかけてくるだろう。
「母には言うな」
「いつまで隠す気だい?」
「事情を説明できるようになるまでだ」
「子供は、説明を待って大きくなってくれないよ」
ハンナは布のおむつを洗いながら言った。
その言葉どおり、ノアは毎日変わった。
昨日まで届かなかった玩具へ手が届く。
寝返りができる。
支えがあれば座る。
カイルが餌を作る様子を、飽きずに見つめる。
成長は喜ばしい。
レベルとは別の成長まで怖がりそうになる自分を、カイルは何度も止めた。
「大きくなるな、とは言わない」
離乳食を煮ながら、ノアへ話す。
「ただしレベルは一のままでいろ」
「いー」
「そう。一だ」
ノアは豆の粥を顔へ塗った。
「食べ物だ。化粧じゃない」
生後十か月の冬、ノアが高熱を出した。
《養育》の表示は赤く染まった。
【状態:発熱/魔力循環の過剰反応】
【体温:四十・三度】
【危険:痙攣の可能性】
魔獣なら、種ごとの薬を知っている。
人間の赤ん坊に使える薬は少ない。
カイルは雪の中を走り、町の治療師を連れてきた。
老治療師はノアの胸へ手を置き、魔力を調べる。
「妙な子だね」
彼女は眉を寄せた。
「体の中に、大人の魔術師百人分はありそうな魔力がある。まだ使い方を知らないから、自分で熱へ変えてる」
「治せるか」
「熱を逃がせばいい。ただし普通の解熱術では追いつかない」
カイルは火竜の卵を思い出した。
熱を吸収できる魔獣がいる。
「マルタを使う」
「赤ん坊の熱を竜へ吸わせる気かい?」
「加減は俺が見る」
マルタを寝台の横へ伏せさせた。
ノアの魔力熱を、少しずつ火竜へ移す。
マルタは慎重に鼻先を近づけ、余分な熱だけを吸った。
カイルは一晩中、二人の状態を見続けた。
【ノア:体温三十九・一度】
【火竜マルタ:熱量上昇/問題なし】
【ノア:体温三十八・二度】
【火竜マルタ:満足】
夜明け前、熱は下がった。
ノアは汗で濡れた目を開ける。
「とー」
小さな声だった。
「水か?」
「お、とー」
カイルは動きを止めた。
言語理解へ成長を振った効果なのかもしれない。
ただの音かもしれない。
「もう一度言ってみろ」
ノアは目を閉じた。
すぐ眠る。
カイルはしばらく寝台の横へ座っていた。
治療師が肩を叩く。
「父親と呼ばれたね」
「まだ決まってない」
「顔が笑ってるよ」
カイルは口元を押さえた。
「熱がうつっただけだ」
ノアが初めて立ったのは、春だった。
居間の机から手を離し、カイルへ一歩進む。
「慌てるな」
カイルは両手を広げた。
ノアは二歩目で転びそうになる。
床から青いスライムが盛り上がり、柔らかく受け止めた。
「いー!」
ノアは喜び、もう一度立つ。
三歩目では、黒角熊が背後へ鼻先を差し出した。
四歩目は、マルタが翼で風を止める。
五歩目でカイルの胸へ飛び込んだ。
「歩けたな」
「とー!」
今度は、はっきり聞こえた。
「お父さん、だ」
「お、とー」
「まあ、合格だ」
窓の外では、魔獣たちが一斉に鳴いた。
「お前たちまで喜ぶな。次は走るようになる。今より大変だぞ」
実際、その日から大変になった。
ノアは歩ける場所へ全部行った。
台所の棚。
鎧猪の泥場。
三つ目梟の止まり木。
マルタの卵の上。
「そこは座る場所じゃない!」
カイルが下ろしても、少し目を離せば戻っている。
魔獣たちはノアを止めない。
むしろ足場になり、行きたい場所へ運ぶ。
「甘やかすな」
カイルが黒角熊を叱る。
熊は目をそらした。
二歳になる頃、ノアは言葉をかなり覚えた。
「お父さん。あの子、お腹いたい」
獣舎を通るだけで、魔獣の不調へ気づく。
「どこが痛いと言ってる?」
「こっち」
ノアは自分の右脇腹を押さえる。
診ると、石食い鳥の胃に金属片が詰まっていた。
《魔獣好感》だけではない。
感情と状態を、自分のものに近い形で受け取っている。
カイルは成長方向を《共感性》へ振った。
【支配性へ向かう成長を、共感性へ転換します】
その選択が正しいかは分からない。
他者の痛みを感じすぎれば、ノア自身が苦しむ。
だから同時に、距離の取り方を教えた。
「分かることと、全部背負うことは違う」
「背負っちゃだめ?」
「一人で全部は無理だ。俺へ教えろ。治せる相手へ頼め」
「お父さんが治せない時は?」
「一緒に別の方法を探す」
三歳の夏、ノアは初めて嘘をついた。
蜂蜜の瓶が空になっている。
「食べたか?」
「食べてない」
口の周りが光っていた。
「もう一度聞く。食べたか?」
「ポポが食べた」
まだ養育所へ来たばかりのポポが、驚いて顔を上げる。
「きゅう!?」
「ポポは瓶の蓋を開けられない」
「スライムが開けた」
青いスライムが一斉に震えた。
「誰かへ押しつけるたび、明日の菓子が一個減る」
ノアの顔が青くなる。
「私が食べました」
「最初から言え」
「ごめんなさい」
「腹は痛くないか?」
「ちょっと」
カイルは叱った後、消化薬を飲ませた。
ノアは苦い顔をする。
「悪いことしたら、薬も苦くなる?」
「薬はいつでも苦い」
「お父さん、怒ってる?」
「怒ってる。でも嫌いにはならない」
ノアは少し安心し、薬を飲み切った。
四歳の冬には、魔力を使い始めた。
雪だるまを大きくしたいと願い、庭の雪を全部集めた。
養育所より大きい雪だるまが完成し、春まで日陰を作った。
「大きくしすぎだ!」
「小さいと、みんなで遊べないよ」
「限度を覚えろ!」
五歳の春、壊れた鳥の巣を直そうとして、木を十倍まで育てた。
枝が養育所の屋根を持ち上げた。
「元へ戻せ!」
「戻し方、知らない!」
カイルは一日かけて枝を誘導し、屋根を壊さず木の外へ出した。
木はそのまま、養育所の目印になった。
旅人は遠くから巨大樹を見つけ、「あそこなら魔獣を預けても大丈夫だ」と訪れるようになる。
失敗が、別の役へ変わることもある。
六歳の誕生日。
ハンナと町の者がケーキを持ってきた。
火竜は炎で六本のろうそくへ火をつけ、三つ目梟は昼なのに起きていた。
ノアは目を閉じ、願い事をする。
「何を願った?」
カイルが聞く。
「言ったら叶わないよ」
「誰に教わった」
「ハンナおばちゃん」
「余計なことを」
ノアはろうそくを吹き消した。
願いは後で、ハンナから聞いた。
『お父さんと、みんなで、ずっと一緒にいられますように』
世界を終わらせる子供の望みは、世界を支配することではなかった。
ただ、今ある家族と暮らしたい。
その小さな願いを守るため、カイルはまだ鑑定板の秘密を話さなかった。
いつ伝えるべきか。
毎年考え、まだ早いと言い訳した。
ノアが怖いのではない。
自分を怖がるようになる顔を、見たくなかった。
六年目の春。
その朝、ノアは厨房へ、どう見ても内緒を抱えた顔で入ってきた。




