第一話 嵐の夜の拾いもの
その晩、カイル・ベルナーは、竜の尻を押していた。
「ほら、もう少しだ。踏ん張れ」
返事の代わりに、赤い尾が彼の頬を打った。
「痛っ。俺に怒っても卵は出ないぞ」
納屋を揺らす雷鳴に、雌の火竜が低く唸る。名はマルタ。翼を広げれば荷馬車三台分はあるが、まだ若く、初めての産卵に怯えていた。
火竜は卵を火口で産む。本来なら、吹き上がる熱と硫黄の匂いに包まれているはずだった。ところがマルタは密猟者に翼を傷つけられ、山へ帰れなくなった。代わりにカイルは納屋の床へ火山灰を敷き、炉を三つ焚き、三日三晩つきっきりで世話をしている。
町の獣医には断られた。
教会の治療師には、討伐したほうが早いと言われた。
だからカイルが預かった。
魔獣養育士というのは、だいたいそういう仕事だった。
「グルル……」
「分かってる。怖いな」
カイルは尾で叩かれた頬をさすり、マルタの腹へ触れた。
意識を集中させる。
【養育対象:火竜・雌】
【状態:産卵中/疲労/軽度の脱水】
【感情:恐怖/警戒/カイルへの信頼】
【必要:水分/保温/静かな声】
彼だけが持つ技能、《養育》。育てている生き物の状態や感情を読み取り、必要な世話を知る力だ。
派手さはない。
剣士のように岩を斬れず、魔術師のように雷を落とせない。冒険者の酒場では「餌やりが少し上手になる技能」と笑われる。
けれど今、世界で一番強い剣士をここへ連れてきても、怯えた火竜の産卵を手伝うことはできない。
「大丈夫だ、マルタ。俺はここにいる」
カイルは水を飲ませ、首筋を撫でた。
やがて火竜が大きく息を吸う。
納屋の床へ、赤い卵が転がった。
殻の内側で炎が明滅している。
「よくやった」
マルタは卵を抱え込み、長い鼻先をカイルの胸へ押しつけた。人ひとりなら簡単に噛み砕く牙が、今は甘える犬のように服の匂いを嗅いでいる。
カイルは壁にもたれ、そのまま座り込んだ。
三日ぶりに眠れる。
そう思った時だった。
玄関の扉を叩く音がした。
三度。
間を置き、もう三度。
「こんな夜に?」
マルタが頭を上げた。隣の獣舎からも、翼や爪が床をこする音が聞こえる。
外は嵐だった。
山から吹き下ろす風が森を曲げ、雨粒が窓を石のように打っている。道はとうに泥の川だ。急患だとしても、飼い主がここまで魔獣を運べる天気ではない。
音がまたした。
三度。
助けを求める者にしては弱い。
いたずらにしては、律儀すぎる。
「今行く」
カイルはマルタの状態をもう一度確かめた。産卵を終えた母竜は落ち着いている。炉へ薪を足し、納屋を出た。
養育所の廊下には、さまざまな鳴き声が満ちていた。
眠れない三つ目梟。
雷を怖がって土へ潜ろうとする鎧猪。
興奮すると分裂する青いスライム。二日前までは一匹だったはずだが、今数えると九匹いる。
「お前ら、静かにしてろよ」
言葉を理解したわけではないだろう。それでも獣たちは、カイルが通ると少しだけ落ち着いた。
彼がこの養育所を始めて五年になる。
町から半日、森の端に建つ古い農場を買い、檻を直し、納屋を増やした。儲かってはいない。客の半分は代金の代わりに野菜や薪を置いていくし、治った魔獣を自然へ返せば何も残らない。
それでよかった。
少なくとも、危険だからという理由だけで殺される命を何頭か減らせる。
玄関へ着いた。
壁に掛けた短剣を取り、片手で鍵を外す。
「誰だ?」
扉を細く開けた途端、風が体当たりしてきた。
雨が廊下へ吹き込む。
外には誰もいなかった。
「……枝か?」
見回しても、人影はない。泥の道にも新しい足跡は見つからない。
扉を閉めようとして、足元から声がした。
「あぅ」
カイルは下を見た。
軒下に、籠が置かれている。
油紙を何枚も重ねた蓋。その隙間から、小さな手が伸びていた。
「待て。まさか」
しゃがんで油紙をめくる。
毛布に包まれた赤ん坊がいた。
生後半年ほどだろうか。柔らかな黒髪が額へ張りつき、大きな瞳がカイルを見上げている。肌は冷えているが、唇の色は悪くない。
泣いていなかった。
嵐の中へ置き去りにされたというのに、カイルと目が合うと笑った。
「人間……だよな?」
「あー」
「角はない。牙もない。尻尾も……ないな」
毛布を少し持ち上げ、念のため確かめる。
「何を確認してるんだ、俺は」
ここは魔獣養育所だ。
捨てる場所を間違えたにしても、間違い方がひどい。
カイルは雨の向こうへ声を張った。
「誰かいるのか! この子の親か!」
返事は雷だけだった。
籠の脇には、銀の鎖が一本落ちている。飾り気のない細い鎖で、切れたのではなく、留め具を外した状態だった。ほかに手紙も名札もない。
「とにかく中だ」
赤ん坊を抱き上げる。
小さい。
マルタの卵よりも軽かった。
赤ん坊はカイルの上着を両手でつかみ、鼻先を胸へ寄せた。
その瞬間、養育所から音が消えた。
鎧猪が床を掘る音も、梟の声も、スライムが跳ねる音もしない。
静かすぎる。
カイルは赤ん坊を抱いたまま、廊下を振り返った。
獣舎の格子の向こうで、すべての魔獣がこちらを見ている。
三つ目梟は翼を畳んでいた。
鎧猪は腹を床につけていた。
九匹のスライムは、なぜか一列に並んでいる。
どの魔獣も赤ん坊から目を離さない。
だが、獲物を狙う目ではなかった。
「お前たち?」
カイルが近づく。
魔獣たちは一斉に頭を下げた。
首を垂れ、鼻先や額を床へつける。
まるで王を迎える家臣のように。
「……人間だよな?」
腕の中の赤ん坊へ、もう一度聞く。
「うー」
「そう言われても分からん」
まず体を温める必要がある。カイルは厨房へ入り、炉へ火を足した。籠に入っていた毛布を外し、乾いた布で赤ん坊を包み直す。
怪我はない。
痣も、呪いの印も見当たらない。
空腹らしく、赤ん坊はカイルの指へ噛みついた。
「それはミルクじゃない」
「んむ」
「歯がないのに意外と痛いな」
山羊乳を人肌まで温める。赤ん坊は瓶へ両手を伸ばし、驚くほどの勢いで飲んだ。
半分ほどで息継ぎを忘れ、むせた。
「ゆっくり飲め。誰も取らない」
背を軽く叩く。
赤ん坊は小さくげっぷをし、満足そうに目を細めた。
その顔を見ていると、先ほどの魔獣たちの反応が夢だったように思える。
普通の赤ん坊だ。
少しばかり肝が据わっていて、食欲が強く、嵐の夜に魔獣養育所へ捨てられていたことを除けば。
十分に普通ではない。
「さて、どうする」
夜が明けたら町の役所へ知らせるしかない。親を捜してもらい、その間は孤児院へ――。
そこでカイルは考え直した。
魔獣が頭を下げた子を、事情も分からず人の多い場所へ移してよいのか。
呪いかもしれない。変身種かもしれない。姿を人間に似せる捕食魔獣もいる。
「悪いが、調べさせてもらうぞ」
カイルは書斎から鑑定板を持ってきた。
手のひら二枚分ほどの黒い石板。銀の縁に古い文字が刻まれ、対象の名、種族、職業、技能を映す。値の張る道具だが、素性の分からない魔獣を預かる仕事には欠かせない。
これまでにも珍しい表示は見た。
【種族:半液状型疑似竜】
【職業:迷子】
【特技:死んだふり。ただし下手】
鑑定板は時々、妙に正直だ。
「手を載せるだけだ。痛くない」
赤ん坊を膝へ乗せ、左手を板へ触れさせる。
石板の中央に光が集まった。
【個体名:未設定】
【種族:人間】
【性別:女】
【年齢:生後二百十二日】
【Lv:1】
そこまでは普通だった。
カイルは少しだけ肩の力を抜いた。
次の一行が浮かぶ。
【職業:世界最終敵】
「…………」
雨が屋根を打っている。
炉の薪が爆ぜた。
赤ん坊は空になったミルク瓶を振っている。
「何だって?」
カイルは板を持ち上げ、目の前まで寄せた。
【職業:世界最終敵】
文字は変わらない。
「壊れたか」
自分の手を載せる。
【個体名:カイル・ベルナー】
【種族:人間】
【Lv:18】
【職業:魔獣養育士】
「正常だな」
嬉しくない確認だった。
赤ん坊へ戻す。
【職業:世界最終敵】
「もう一度」
【職業:世界最終敵】
「最後にもう一度だけ」
【職業:世界最終敵】
「融通が利かない板だな!」
赤ん坊が声を上げて笑った。
「お前も笑うところじゃないぞ。世界最終敵って何だ。魔王より悪そうじゃないか」
鑑定板には、職業に関する詳しい情報を求める機能がある。
見なければよかったと後悔する予感がした。
見ないわけにもいかない。
カイルは表示へ指を置いた。
【危険度:測定不能】
【固有技能:閲覧制限】
【成長条件:閲覧制限】
【特殊条件を確認】
最後の一行だけ、赤い文字だった。
【Lv100到達時、世界終了】
カイルは動かなかった。
動けなかった。
意味は分かる。分かりやすすぎるほど分かる。
この赤ん坊が百レベルになれば、世界が終わる。
何かの比喩だと思いたかった。
この「世界」が、彼女にとっての小さな共同体を意味するのかもしれない。人生観が変わるという意味かもしれない。鑑定板の翻訳が大げさなのかもしれない。
だが危険度は測定不能。
技能には閲覧制限。
魔獣たちは一斉に頭を下げた。
楽観できる材料が、一つもなかった。
「……お前、世界を滅ぼすのか?」
赤ん坊は真剣な顔でカイルを見返した。
しばらく考えるように口を動かし、それから空の瓶を差し出す。
「まんま」
最初の言葉が、たぶんそれだった。
「今は世界よりミルクか」
「まんま」
「そうだよな。腹が減ってるんだよな」
カイルはもう一本、山羊乳を温めた。
手は震えていた。
夜が明けたら、この子をどうするべきか決めなくてはならない。
教会へ知らせれば、世界を救うために殺すだろう。
役所へ渡せば、いずれ鑑定され、同じ結末になる。
黙って育てれば、いつか本当に世界を終わらせるかもしれない。
赤ん坊はそんなことを知らず、二本目の瓶を抱えた。
飲み終わる前に眠り、瓶をつかんだ手から力が抜ける。
カイルはそっと瓶を外した。
小さな指が、代わりに彼の人差し指をつかむ。
嵐は朝まで続いた。
カイルは一睡もせず、世界の終わりを膝に抱いていた。




