第十五話 間違った翻訳
「誤訳って何?」
天井石を支えながら、ノアが尋ねた。
「今説明させる気か!」
カイルは石棺から日記を回収した。
崩壊が進んでいる。
床の亀裂は広がり、地下の魔力川がむき出しになった。青かった流れは薄い。川というより、消えかけた光の筋だ。
禁書兵たちも戦いを止めている。
「出口へ戻れ!」
レオニスが彼らへ叫ぶ。
「記録を渡せ!」
先頭の神官はまだ杖を向けていた。
「ここで全員埋まれば、記録も残らんぞ!」
エルドの怒声に、神官が歯を食いしばる。
別の天井石が落ちた。
セラが横へ跳び、下敷きになりかけた禁書兵を引き倒す。石は二人の足元へ落ち、道を塞いだ。
「助ける必要はなかった」
兵士が息を切らしながら言う。
「お礼の代わりに文句?」
セラは立ち上がった。
「敵でも、目の前で潰されるなら手を伸ばす。それだけよ」
ノアが支えていた石に亀裂が入る。
「お父さん、もう無理!」
「横へ投げろ!」
「みんなに当たる!」
カイルは部屋を見回した。
壁の一部に、土が露出している。
「土へ埋めろ! 石を動かすんじゃない。地面の形を変えて受け止める!」
「どうやって?」
「《養育》で成長先を見た時と同じだ! 土がどうなれば安全か、先に思い浮かべろ!」
ノアは片手を床へ向けた。
「柔らかくなって。大きな穴を作って」
地面が波打つ。
硬い岩床が泥のように沈み、深い穴が開いた。
ノアは天井石をそこへ落とす。
地面が再び固まり、石をのみ込んだ。
【大規模崩落を回避しました】
【Lv39 → Lv40】
「今、三十九だったのか?」
カイルが聞く。
「遺跡へ来るまでに、魔物を助けたり、橋を作ったりしたから」
「一つ上がるたび報告しろと言っただろ!」
「お父さん、毎回すごい顔するから」
「だから黙ってたのか!」
【節目レベルへ到達しました】
【新能力《地形改変》を取得しました】
「今のが、その力か」
レオニスが地面を見る。
「山も川も変えられる」
エルドが表示を読む。
「規模の上限が書かれておらん」
ノアは目を輝かせた。
「養育所のお庭、広くできる?」
「絶対にするな」
カイルは即答した。
「どうして?」
「お前の『少し』は信用できない」
揺れがさらに強くなる。
「話は後だ。脱出する!」
カイルは日記を服へ入れ、全員を入口へ走らせた。
通路の半分は崩れている。
ノアが《地形改変》で床を持ち上げ、落ちた岩を壁へ押し込んだ。何もなかった場所へ階段を作り、深い亀裂には石橋を渡す。
強力だった。
強力すぎた。
六歳の子供が手を振るたび、遺跡そのものが粘土のように形を変える。
禁書兵たちは、ノアから距離を取った。
出口近くで、最後の問題が起きた。
門が閉じている。
卵形の輪は光を失い、押しても動かない。
「魔力供給が切れた」
エルドが門の文字を調べる。
「外から開く仕組みも死んでおる」
「壊す」
ノアが拳を握る。
「待て。門の上は谷だ。壊せば土砂が入る」
カイルは門と壁の境目を見る。
古代施設は崩れても、卵形の門だけは傷ついていない。
「門を開けるんじゃない。周りへ新しい出口を作れ」
「どっち?」
「右だ。左には地下の魔力川がある」
ノアが壁へ手を置く。
岩が左右へ分かれ、人ひとり通れる穴が伸びていく。
外の光が見えた。
一行は順番に抜ける。
最後にカイルとノア、ポポが残った。
ポポは卵形の門を振り返り、動かない。
「行くぞ」
カイルが抱き上げようとする。
ポポは門へ向かって鳴いた。
遠い記憶の中にいる誰かを、呼んでいるようだった。
壁に、前の養育者の映像が一瞬だけ映る。
男は幼いアニマを抱き、巨大な白い獣へ手を振っていた。
その獣には、ポポと同じ角がある。
「置いていかれたんじゃない」
カイルはポポへ言った。
「あの人は、お前に次の世界まで生きろと頼んだんだ」
ポポが振り向く。
「今度はノアと行く。そうだろ?」
ノアが両腕を広げた。
「一緒に帰ろう」
ポポは彼女の胸へ飛び込んだ。
三人が穴を抜けた直後、遺跡は完全に崩れた。
谷を渡り、安全な林まで移動する。
禁書兵たちは神官の指示を待っていた。
先頭の神官は、ノアが助けた自分の部下たちを見る。
「記録は、見なかったことにする」
苦い声だった。
「教会へ戻れば、追及されるぞ」
レオニスが言う。
「禁書が崩落で失われたと報告する」
「私たちは?」
ノアが尋ねる。
「見つけられなかった」
神官は杖を下ろした。
「これで借りを返したとは思わない。次に会えば、任務を果たす」
「次も助けるよ」
ノアが答える。
神官は困った顔をして、兵を連れて去った。
日が暮れ、野営地で日記を開く。
エルドは崩落前に写した古代文字と、鑑定表示を何度も見比べた。
「『敵』ではない」
老人は紙へ二つの文字を書く。
形はよく似ている。
違いは中央の小さな点だけだ。
「後世の翻訳者は《最終工程》を《最終敵》と読んだ。古代語では、工程と敵対者が同じ語根を持っておる」
「つまり、ノアは敵ではない?」
セラが尋ねる。
「少なくとも、職業名は《世界最終工程》じゃ」
ノアは自分の鑑定表示を見る。
【職業:世界最終敵】
「まだ変わらないよ」
「現代の鑑定体系そのものが、誤った訳を使っておるからな」
「工程とは、何をするものだ」
レオニスが核心を聞く。
エルドは日記をめくった。
削られた文章の続きは、別の頁へ暗号で残されていた。
『アニマは、世界の最後に必要な工程である』
『古い世界をほどき、そのすべてを次へ渡す』
『破壊者であり、創造者』
『私はこの子へ、何を残すべきか教える』
ノアが難しそうな顔をした。
「世界を壊すの?」
「壊すことは、否定できない」
カイルは正直に答えた。
「ただ、消すためじゃない。次へ渡すためらしい」
「今の人たちは、どうなる?」
日記に答えはなかった。
最後の頁が破られている。
希望は増えた。
恐怖も消えなかった。
翌朝、ミナの黒線を調べると、進行が止まっていた。
遺跡へ入った時からだという。
【古代移行施設との接触により、仮接続を確認】
【完全修復には、世界移行が必要です】
「ミナを治すには、ノアが百になるしかないのか」
答えは、誰も口にできなかった。
一行は遺跡近くの小さな村へ滞在した。
ミナを長旅へ連れ出したのは、古代施設との接続を保てる場所がほかになかったからだ。遺跡自体は崩れたが、谷にはまだ移行用の魔力が残っている。
村には十二軒の家と、一つの井戸しかない。
世界最終敵の噂も、王国の混乱も、ここまでは届いていなかった。
村長は一行を旅の治療師だと思い、空き家を貸した。
「報酬は払う」
カイルが銀貨を出す。
「金より、裏の畑を何とかしてくれんか」
村長は崩れた段々畑を示した。
昨夜の地震で土留めが壊れ、上の土が下へ流れている。
「できるよ」
ノアがすぐ手を上げた。
「小さく直せ」
カイルは念を押す。
「分かってる」
「家一軒分だ」
「畑だから、家より広いよ」
「例えだ。元の形を大きく変えるな」
ノアは畑へ両手を向けた。
流れた土が持ち上がり、石垣の内側へ戻る。
崩れた土留めも組み直された。
そこまではよかった。
「ついでに、畑を少し広くする」
「待て」
カイルが止める前に、山肌が後ろへ下がった。
畑が二倍。
三倍。
十倍へ広がる。
遠くの岩山まで平らな土になった。
村長は口を開けたまま動かない。
「……広げすぎだ!」
カイルの声が山へ響いた。
「村のみんなで使えるよ」
「十二軒で、この広さをどう耕す!」
「魔物に手伝ってもらう?」
「人が管理できる大きさに戻せ!」
「戻し方、まだ練習してない」
ノアは目をそらした。
結局、元の倍まで縮めるのに半日かかった。
残った土地は牧草地として使うことになった。村長は最初こそ驚いていたが、最後には何度も頭を下げた。
「冬に家畜へ食わせる草が足りなかった。これなら皆、春まで越せる」
失敗が、また別の役へ変わった。
ただしカイルは、ノアへ地形図を描かせた。
「変える前と、変えたい後の形を紙へ描く。範囲を数字で決める。それまでは《地形改変》を使わない」
「面倒」
「山を動かす力を、面倒の一言で使うな」
「お父さん、細かい」
「細かくない奴が山を動かすと、世界が迷惑する」
ノアはぶつぶつ言いながら地図を描いた。
ミナは隣で色を塗る。
「ここに花畑がほしい」
ミナが紙の端を指す。
「作る?」
「自然に咲くのを待つ」
ミナは笑った。
「ノアちゃんが作ったら、一瞬で咲きそう。でも、来年も一緒に見たいから」
ノアは鉛筆を止めた。
ミナの黒線は進行を止めている。
治ったわけではない。
来年という言葉を、誰も保証できなかった。
「一緒に見る」
ノアは花畑の場所へ、小さく印をつけた。
力で咲かせず、種だけをまいた。
その夜、ミナは夢を見た。
蘇ってから初めてだった。
「どんな夢?」
ノアが寝台から身を起こす。
二人は同じ部屋で寝ていた。
「卵の中にいた」
ミナは自分の掌を見る。
「暗くなかった。外で誰かが歌ってた」
「誰?」
「分からない。でも、ノアちゃんに似た声」
黒線が淡く光る。
古代施設との仮接続が、夢の形で次世界の記憶を見せているらしい。
カイルは隣室で話を聞き、《養育》を確認した。
【状態:仮接続安定】
【夢:次世界の形成情報を受信】
【危険:現在世界との二重接続】
ミナは二つの世界へ、同時につながりかけている。
「体が二つに裂けたりしない?」
ノアが心配する。
「物理的には裂けない」
カイルは答えた。
「でも、片方だけを選ばせることになるかもしれない」
「今の世界と、次の世界?」
「ああ」
「両方じゃだめ?」
「方法が見つかればな」
ノアはミナの手を握る。
「一緒に探す」
ミナは眠そうに頷いた。
「明日ね」
「今からでもいいよ」
「眠い」
「じゃあ寝よう」
ノアは毛布へ戻った。
世界の謎より、友達の眠気を優先する。
カイルは、その順番でいいと思った。
村に滞在した三日間、エルドは日記の解読を続けた。
レオニスは毎晩、その作業を手伝う。
教会で学んだ古代語が役に立った。
「この一行は何と読む」
エルドが紙を差し出す。
「『神々は、終わりを恐れた』」
レオニスは答えた。
「次は?」
「『変化を損失とみなし、工程を妨害した』」
彼の声が止まる。
「教会では、神々が最終敵から世界を守ったと教えられた」
「記録を書いた者が勝ったからじゃ」
「私も、その記録を疑わなかった」
レオニスは自分の聖印を見る。
「神託へ従えば正しい。命令を果たせば、人を守れる。そう信じていた」
「楽じゃったか?」
「ああ」
意外なほど素直な答えだった。
「自分で考えれば、間違える。命令なら、失敗しても命じた者の責任だと思える」
「今はどうじゃ」
「面倒だ」
レオニスは苦く笑った。
「カイルとノアを見ていると、考えない言い訳ができない」
「よいことではないか」
「毎日、頭が痛い」
「成長痛じゃ」
「子供扱いするな」
エルドは笑い、次の頁を開いた。
そこには、前代の養育者が神々へ送った手紙が写されていた。
『世界を守るとは、形を止めることではない』
『生きるものは変わる。変化を許さない世界は、墓と同じだ』
レオニスは何度も読み返した。
「この記録を公表する」
エルドが言う。
「教会も各国も、隠そうとするぞ」
「だからこそじゃ。一人の学者が持っていれば、わしを消して終わる。写しを百部作り、別々の場所へ送る」
「危険だ」
「年寄りには、危険を理由に黙る時間が残っておらん」
翌朝、村の書記と旅商人を集め、日記の写しを作り始めた。
ノアも手伝おうとした。
「字が違う」
カイルは彼女の紙を見た。
「同じだよ」
「『世界最終工程』が『世界最終行程』になってる。旅へ出る話じゃない」
「似てる」
「誤訳の話を広める紙で、新しい誤字を作るな」
ノアは写す役を外され、封筒へ印を押す係になった。
ポポも肉球で隣へ印をつけた。
「ポポのはいらない」
レオニスが止める。
「本物だって分かるよ」
「何の証明にもならない」
「かわいい証明」
「記録へ、かわいさは必要ない」
完成した写しは、商隊、鳥便、水棲魔族の使者へ分けた。
誰か一人が止められても、別の一部が届く。
真実は、一つの場所へ閉じ込めない。
夕方、村の子供たちがノアを畑へ呼んだ。
地形を直した礼に、簡単な収穫祭をするという。
冬を越すために残す芋を数え、小さすぎるものだけを焼いた。
ノアは焼き芋を五個食べた。
「食べすぎだ」
「今日はいっぱい働いた」
「地面を一回動かしただけだ」
「戻すの大変だったよ」
「自分で広げたんだろ」
村の子供が笑う。
ノアも笑った。
その足元では、ミナがまいた花の種が、まだ土の中で眠っている。
ノアなら、一瞬で咲かせることもできる。それでも力は使わなかった。
水をやり、季節を待ち、いつ芽が出るか楽しみにする。
それも成長だった。
祭りの終わりに、村長がカイルへ木の札を渡した。
「この村の名を変えようと思う」
「なぜだ?」
「昔は『崩れ谷』と呼ばれていた。地震で畑が崩れるからな」
村長は広くなった畑を見る。
「これからは『芽待ち谷』にする。咲くのを待つ花があるから」
ノアが嬉しそうにミナを見る。
世界を変えるとは、大地を動かすことだけではない。
一つの村が、自分たちを呼ぶ名前を選び直すことも変化だった。
カイルは、その小ささを大事にしたいと思った。
大きすぎる力を持つノアが、小さな変化を見落とさないように。
翌朝、空から紙の鳥が降りてきた。
王国軍の伝令魔法だ。
紙が開き、知らない男の声で話し始める。
『カイル・ベルナーを拘束した』
全員がカイルを見る。
「俺はここだ」
伝令は続ける。
『正確には、拘束予定である。王国へ出頭せよ。拒否した場合、養育所と湖畔都市を反逆者の拠点として焼却する』
カイルは紙を握りつぶした。
「先に予告する誘拐があるか」
「二つの街を人質にしたのよ」
セラの顔から笑いが消えた。
選択肢は、ほとんど残されていなかった。




