第ニ話 「終わりの足音」
朝の生徒会室は、いつも静かだった。
窓から差し込む柔らかな春の陽射しが、整然と並んだ机の上へ淡く広がっている。壁際の棚にはファイルが几帳面に並び、時計の秒針だけが規則正しく時を刻んでいた。その静寂の中心で、雪村いぶきは淡々と書類へペンを走らせていた。さらさら、と紙を滑る音だけが室内へ響く。
やがて最後の一枚へ判を押すと、いぶきは溜め息を吐きながら苦笑した。
「ふぅ……、これで今日の分は終わり」
向かいの席で書類整理をしていた神宮寺彌生が顔を上げた。
「朝から飛ばすわねぇ、生徒会長」
「溜める方が嫌だから」
その表情に、彌生がふっと目を細める。
「……また溜め息」
「え?」
「最近、多くない?」
いぶきは一瞬だけ視線を逸らした。誤魔化そうとしても無駄だと分かっている。副会長として――いや、それ以前に、小中高とずっと隣で過ごしてきた時間は長い。彌生には昔から、何でも見抜かれてしまう。
いぶきは観念したように肩を竦めた。
「彌生には隠せないなぁ」
「そりゃぁね」
彌生は紅茶へ口を付けながら、小さく肩を竦める。
「長い付き合いだからね」
その言葉に、いぶきは少しだけ笑った。けれど、その笑みはすぐに消えた。その表情に、彌生は静かに聞いた。
「……本当に行くんだ」
その言葉に、生徒会室の空気が少しだけ止まる。いぶきは窓の外へ視線を向けた。校庭に春風が渡り、どこかから笑い声が聞こえてくる。いつもの学校の景色だった。
「うん」
短い返事だった。
「イギリスの音楽大学への留学、ちゃんと目指そうと思ってる」
彌生は何も言わない。知っていた。けれど、実際に聞くと胸の奥が少しだけ重くなる。
「絵梨花たちには?」
「……まだ」
いぶきの声が小さくなる。彌生は静かに目を細めた。
「言えてないんだ」
いぶきは自嘲気味に笑う。
「怖いんだと思う」
「怖い?」
「三人で続けるのが、当たり前になりすぎてて」
その言葉に、彌生はしばらく黙っていた。やがて静かにティーカップを置く。
「だったら」
いぶきが顔を上げる。彌生は小さく微笑んだ。
「ちゃんと最後まで向き合いなさいよ」
その言葉だけが、静かな生徒会室へゆっくり残った。
◇
昼休みになっても、来未の頬はずっと緩みっぱなしだった。
購買で買った焼きそばパンを抱えたまま廊下を歩いていても、気を抜くとすぐ顔がにやけてしまう。昨日の夕焼け、旧校舎の音楽室、雪村いぶきの音。思い出すだけで、胸の奥がむず痒くなった。
「でね、でね!私の音には感情があるって言われたの!!」
隣を歩く麻生怜が、とうとう吹き出した。
「あんた、それ今日何回目?」
「だ、だってぇ……!」
来未は恥ずかしそうに肩を縮める。けれど笑みは隠せなかった。まるで夢みたいだったのだ。憧れの人が、自分のギターを聴いてくれた。しかも、
――あなたの音には感情がある。
あの言葉が、まだ耳の奥に残っている。来未はそっと左手を見た。指先には、赤く残った弦の跡。少し痛む。でも、その痛みさえ嬉しかった。
「もっと上手くなりたいなぁ……」
ぽつりと零れた声は、冗談ではなく本気だった。
◇
週末、来未と怜はSpinning Dreamsのライブを見に来ていた。地下へ続く細い階段からは、重低音が響いてくる。
ライブハウス「洞穴」。来未が中学二年の時、初めてSpinning Dreamsのライブを見た場所だった。薄暗い通路、壁一面に貼られたライブポスター、むき出しの配線。独特の熱気と機材の匂いが混ざり合ったその空間は、来未にとってはずっと特別な景色だった。
「あんた、ライブ見に来るの超久しぶりなんじゃない?」
隣を歩く怜が笑う。
「う、うん……」
来未は少しだけ胸元を押さえた。あの日、この場所で初めてSpinning Dreamsのライブを見た。雪村いぶきのギターに衝撃を受けて、ライブから帰ってすぐに、勢いだけでフリマアプリを開き、必死に安い中古ギターを探した。ギターを始めたのは、全部あのライブがきっかけだった。だからなのか、今日は、あの日とはまた違った見え方がしていた。
◇
ライブが始まった瞬間、洞穴の空気が一変した。
歓声と熱気と爆音が一気に押し寄せ、照明が激しく瞬いてステージを鮮やかに染め上げる。その中心へ、雪村いぶきが静かに現れた。黒いギターを抱え、スポットライトの中へ立つ。それだけで、空気が変わった。
「きゃああああっ!!」
歓声が爆発する。来未は思わず息を呑んだ。藤代絵梨花のベースが空気を震わせ、その上を桐島愛のキーボードが鮮やかに駆け抜ける。そしていぶきのギターだけが、真っ直ぐ前へ突き抜けていた。
ステージの全てが眩しい。憧れの人が奏でる音に、胸が熱くなる。けれどそんな中にも、何故だか少し悔しい――そんな感情が微かに芽生えていた。
その時だった。演奏中、不意にいぶきの視線が客席後方を向く。一瞬だけ、自分を見た気がした。いや、きっと目が合った。来未の心臓が大きく跳ねる。けれど次の瞬間には、もういぶきはステージ中央へ視線を戻していた。
ただ、その一瞬だけで十分だった。「見てろ」、とそんな風に言われた気がした。来未は熱くなる胸を押さえながら、夢中でステージを見続けていた。
◇
ライブが終わった瞬間、洞穴の中は割れんばかりの歓声に包まれていた。鳴り止まない拍手、アンコールを求める声。熱気に満ちた空気が、まだライブの余韻を色濃く残していた。
「……すごかったぁ……」
ようやく絞り出した声に、怜が苦笑する。
「魂抜けてるじゃん」
「だ、だって……!」
来未は胸元を押さえながら、ステージを見つめた。そこにはもう誰もいない。けれど、さっきまで確かにそこにあった熱だけは、まだ消えずに残っている気がした。
「……もっと練習しよ」
ぽつりと零れたその言葉は、無意識だった。怜は少しだけ目を丸くする。
「珍しいね。来未がそんな顔するの」
「え?」
「なんか今、『上手くなってやる!』って顔してる」
来未は慌てて顔を逸らした。
「そ、そんなことないし!」
怜は笑った。けれど来未自身も、少しだけ分かっていた。ただ「凄い」と憧れるだけじゃ、もう足りなくなっていたことを。
◇
一方その頃、ライブ直後の楽屋にはまだ熱気が色濃く残っていた。
「はぁ〜っ!今日めちゃくちゃ盛り上がったねぇ!」
愛がソファへ倒れ込む。絵梨花もタオルで汗を拭きながら笑った。
「後半の客席、かなり熱かったね」
二人の会話を聞きながら、来生晶は壁際で缶コーヒーを傾けていた。短く切り揃えた紫がかった髪が、楽屋の照明を受けて淡く光る。気怠そうな雰囲気と鋭い目付きのせいで近寄り難く見えるが、昔からSpinning Dreamsを見守ってきた晶は、誰よりも彼女たちの変化に敏感だった。
「……まあ、今日の音は悪くなかった」
愛がぱっと顔を上げる。
「えっ、それ褒めてる!?」
「一応、褒めてる」
晶は素っ気なく答える。愛が嬉しそうに笑った。その様子を見ながら、いぶきだけは静かにギターケースへ視線を落としていた。
晶はそんな横顔を見逃さなかった。
「……まだ迷ってる顔してるね」
その言葉に、室内の空気が少し止まる。愛と絵梨花が顔を上げた。いぶきは小さく苦笑する。
「そんなに分かりやすい?」
晶は肩を竦める。
「長い付き合いだからね」
いぶきは小さく笑った。けれど、その笑みはどこか力無かった。やがて静かに息を吐く。
「……話したいことがある」
その一言で、楽屋の空気が変わった。愛の笑顔が消える。絵梨花も静かに視線を向けた。
「私ね……、卒業したらイギリスの音楽大学に留学しようと思ってる」
静寂が落ちた。ほんの数秒。けれど、それは妙に長く感じられた。
「……え?」
最初に声を漏らしたのは愛だった。
「ちょ、待って……何それ」
愛の声が少し震える。
「そんな話、聞いてないんだけど」
いぶきは小さく目を伏せた。
「……ごめん」
少しだけ間を置き、静かに続ける。
「言おう言おうとは思ってたんだけど、なかなか言い出せなくて」
愛は言葉を失ったまま、いぶきを見つめていた。怒りたい訳じゃない。でも、胸の奥がぐちゃぐちゃだった。中学の頃から、ずっと三人でやってきた。ガラガラだった客席。ライブ帰りのコンビニ。三人で笑った夜。どんな時もずっと一緒だった。
「……じゃあ」
愛が小さく呟く。
「スピドリ、終わるの?」
その言葉に、楽屋の空気が静かに張り詰めた。いぶきはすぐには答えなかった。視線を落としたまま、しばらく黙り込む。やがて、小さく息を吐いた。
「……終わらせるつもりはないよ」
愛と絵梨花が同時に顔を上げる。いぶきは静かに続けた。
「私は、Spinning Dreamsを残したい」
その声に迷いは無かった。愛は戸惑ったように眉を寄せる。
「でも、いぶき抜けたらギターどうするのさ?」
今のSpinning Dreamsは、いぶきのギターと歌を軸に成り立っている。それはメンバー自身が、一番よく分かっていた。絵梨花も腕を組みながら小さく息を吐く。
「残したいって言ったって、正直、簡単な話じゃないよ」
「うん」
いぶきも否定はしなかった。だからこそ、ずっと言い出せなかった。自分の夢を選ぶということは、二人から今まで当たり前だったものを奪うことでもある。その重さを、いぶき自身が一番理解していた。
しばらく沈黙が落ちる。その空気を破ったのは、来生晶だった。
「……お前、そこまで考えてるんなら、何か算段があるんだろ?」
いぶきは少しだけ苦笑する。
「晶さんには敵わないなぁ」
晶は気怠そうに肩を竦めた。
「長い付き合いだって言ったろ?」
いぶきは少しだけ視線を伏せる。けれど、やがて静かに口を開いた。
「……気になってる子はいる」
その瞬間、愛が勢い良く顔を上げた。
「えっ!?誰!?」
食い気味だった。絵梨花も驚いたように目を瞬かせる。いぶきは少し困ったように笑う。
「まだ一年生なんだけどね」
「一年!?」
愛の声が裏返る。
「しかも、まだ全然荒削り。ライブ経験も無いし、正直、今は素人に近いと思う」
「じゃあ何で気になるの?」
愛が不思議そうに首を傾げる。その問いに、いぶきは少しだけ黙った。
脳裏に浮かぶのは、夕焼けの旧音楽室だった。傷だらけの中古ギター。上手く鳴らせず悔しそうに顔を歪めながら、それでも必死にコードを押さえていた一年生の姿。そして、あの音。
いぶきは静かに目を細めた。
「……まだ上手く説明できないんだけど」
小さく笑う。
「でも、「もっと聴きたい」って思ったんだよね」
その言葉だけが、静かな楽屋へゆっくりと落ちていった。




