第一話 「出会い」
「来未〜、朝ごはんはちゃんと食べて行かなきゃダメじゃなぁい」
「時間ないよぉ〜! やばいやばい!」
「もう〜、お寝坊するんならギター取り上げますよ〜?」
「それだけはご勘弁っ! 行ってきまーす!!」
木下来未はギターケースを背負うと、慌ただしく玄関を飛び出した。
五月の朝。爽やかな風を切りながら、来未は駅までの道を猛ダッシュで駆け抜けていく。昨夜も遅くまでギターを弾いていたせいで、盛大に寝坊したのだ。
改札口を抜けて学校までの坂道を駆け上がっていた来未は、校門前の騒ぎに思わず足を止めた。
「うわ、雪村先輩だ」
「今日も綺麗……」
「昨日のライブ見た!? やばかったよね!」
視線の先に、雪村いぶきがいた。その姿に来未は思わず見惚れる。
「また見てる」
「ひゃっ!?」
突然、横から声が飛んできた。振り向くと、麻生怜が呆れたような顔で立っていた。中学時代からの親友だ。
「ほんと好きだよねぇ、雪村先輩」
「し、仕方ないでしょ!」
来未は慌てて言い返した。
「だってギター凄いし、生徒会長だし、ライブ超カッコいいし……! その上、美人で頭も良いとか反則でしょ!」
「はいはい」
怜は苦笑しながら肩を竦めた。
◇
一限目は数学だった。数学教師の魚澄珪は、黒板へ淡々と数式を書き連ねていく。静かな教室へ、カリカリカリと乾いたチョークの音だけが響いていた。
「では次。この問題を――」
「……フゴッ」
後方から、妙に豪快な寝息が聞こえた。一瞬、教室が静まり返る。珪がゆっくり振り返ると、来未が机へ突っ伏したまま完全に眠っていた。
「木下さん」
反応はない。
「木下さん」
隣の怜が慌てて小声で囁く。
「来未! 起きてって!」
「……はぇ……?」
来未は勢いよく立ち上がった。一瞬の静寂。そして次の瞬間、教室中が笑いに包まれた。来未は数秒遅れて現状を理解し、みるみる顔を赤くしていく。
珪は小さく溜息を吐いた。
「若者ですし、夢中になるものがあるのは分かりますが……」
静かな声が教室へ響く。
「今は授業に集中してください」
「……はい。スミマセン」
◇
昼休み。来未と怜は中庭のベンチへ座っていた。
「でも、来未も最近かなりギター頑張ってるじゃん」
「えー、まだまだ全然ダメダメだよぉ〜」
来未は苦笑しながらジュースを口へ運ぶ。
「雪村先輩みたいな音、全然出せないし……」
「そりゃあちらはプロみたいなもんだし、比べること自体、おこがましいでしょ!」
「むぅ……」
唇を尖らせる来未へ、怜が笑う。
「まぁでも、来未って昔からそういうとこあるよね」
「どういう意味よ」
「好きなもの見つけると一直線!」
来未は少しだけ照れ臭そうに笑った。
◇
放課後。生徒会室では、神宮寺彌生が書類を眺めながら小さく息を吐いていた。
「最近、旧校舎からギターの音がするって話、また来てるわよ」
向かい側へ座る雪村いぶきが顔を上げる。
「旧校舎?」
「使ってない音楽室の辺り。何人かの生徒から話が来てるのよ」
彌生は肩を竦めた。
「愛たちじゃないの?」
「どうだろ? 愛はキーボードだしなぁ。絵梨花かなぁ?」
いぶきは小さく首を傾げる。
「けど、旧校舎で音出ししてるなんて聞いてないしな」
「何なら、一度見てきたら?」
「そうする」
そう言うと、いぶきは静かに立ち上がった。
◇
夕暮れの旧校舎は、人の気配がほとんど無いせいか、どことなく埃臭かった。窓から差し込む橙色の光が、静かな廊下を長く染めている。その奥から、ぎこちないギターの音が聞こえていた。
不安定なコードチェンジ。まだ拙いピッキング。正直、上手いとは言えない。けれど何故だろう、その音は妙に耳に残った。
いぶきは旧音楽室の前で足を止めた。僅かに開いた扉の隙間から中を覗くと、そこには一人の女子生徒がいた。一年生だろうか。額へ汗を滲ませながら、必死にギターを弾いている。何度もミスをしては悔しそうに顔を歪め、それでもまた弦を掻き鳴らす。そんなことを繰り返していた。
素人だ。まだまだ全然弾けていない。なのに、何かが引っかかる。胸の奥へ、小さな棘みたいに残っていく。
――何なんだろう、この音。
それからいぶきは、何度か旧音楽室へ足を運ぶようになった。この、妙に心へ残る音の正体が知りたくて。
◇
「違う……」
来未はギターを抱えたまま、小さく唸った。何度弾いても上手くいかない。昨日は出来た気がした。なのに今日は全然弾けない。焦れば焦るほど、指が動かなくなる。
「……こんなんじゃ、雪村先輩みたいになれないよ……」
悔しさ混じりに、小さく呟く。
「……そんなに簡単には、なれないよ」
不意に、後ろから声がした。来未の肩が跳ねる。慌てて振り返ったその瞬間、心臓が止まりかけた。
「ゆ、雪村……先輩……?」
音楽室の入口へ立っていたのは――憧れ続けた、あの雪村いぶきだった。
「それに」
いぶきは来未のギターへ視線を落とした。
「コードを綺麗に鳴らそうとしすぎ」
そう言いながらも、こうも付け加えた。
「でも、あなたの音には……感情がある」




