第三話 「認められない新メンバー」
六月も終わりに近づき、街には湿った夏の匂いが混じり始めていた。
あのライブの日から数日が経ったが、来未の生活はそれ以前とははっきり変わっていた。学校から帰ればギターを抱え、夜遅くまで弾き続けた。だが、一向に上手く鳴らないFコードに何度も苛立ちながらも、それでも指を止める気にはなれなかった。
だからその日の朝も、来未は完全に寝不足だった。
ぼんやりした頭のまま机に突っ伏しかけていたところへ、教室前方の扉が開く音がした。魚澄珪が静かに入ってくると、日直が慌てたように号令をかけた。
「起立! 礼!」
「おはようございます!」
生徒たちの声が揃い、椅子を引く音が一斉に鳴った。
「おはようございます」
魚澄も静かに挨拶を返す。そのまま授業が始まるはずだった。
「木下さん」
「は、はいっ!?」
突然名前を呼ばれ、来未の肩が大きく跳ねた。半分眠りかけていた身体を慌てて起こし、背筋を伸ばす。そんな来未を見て、魚澄は小さく溜め息を吐いた。
「だいぶお疲れのようですが、せめて朝の挨拶くらいはきちんとしなさい」
「す、すみません……」
来未がしゅんと肩を落とすと、魚澄は静かな口調のまま続けた。
「いくら頑張っていても、授業を疎かにするのは頂けませんね」
その言葉に、来未の肩がぴくりと揺れる。まるで全部見透かされているようだった。最近、自分がギター漬けになっていることを、この人はきっと知っている。そんな確信がじわりと広がった。
魚澄はそれ以上何も言わず、何事もなかったように教壇へ向き直った。
「それでは授業を始めます」
◇
その日の放課後、進路相談室の窓には細かな雨粒が静かに張り付き、薄曇りの空をぼんやりと滲ませていた。室内には紙を捲る音だけが淡く響いている。
「イギリスの音楽大学……ですか」
魚澄珪は資料に視線を落としたまま、向かい側に座る雪村いぶきを見た。いぶきは背筋を真っすぐ伸ばしたまま、小さく頷く。
「はい。イギリスって、学生でもライブ活動が盛んらしくて。いろいろバンド音楽とかを学んできたいと思ってます」
「……意志は固いのですね?」
「はい」
迷いのない返答だった。魚澄は静かに頷く。
「あなたなら大丈夫でしょう。学校側としても、その方向で協力していきます」
「よろしくお願いします」
いぶきが小さく頭を下げる。窓の外では、雨が変わらず静かに降り続けていた。面談はそれで終わるはずだった。
だが、魚澄は資料を閉じると、ふと思い出したように口を開いた。
「ところで……」
いぶきが顔を上げる。
「あの子はどうですか?」
「あの子って?」
「木下さんのことです」
一瞬、いぶきの表情が止まった。
「……来未?」
「あなたも気に掛けているのでしょう?」
思わぬ名前に、いぶきは少しだけ目を瞬かせた。そして、どこか困ったように小さく苦笑する。
「まだまだですよ。ギターも全然拙いし。技術だけなら話にならないです」
そう言いながらも、その口調はどこか柔らかかった。
「でも、何か惹かれる気がするんです」
魚澄は静かに頷いた。
「それは私も感じています」
「先生って……」
いぶきは思わず呟く。数学教師とは思えない言葉だった。すると魚澄は、どこか諦めたように小さく笑った。
「あまり知られたくありませんが……昔、洞穴の店主と、バンドを組んでいた事がありました」
いぶきの目が大きく見開かれた。
そう言えば以前、晶から聞いたことがあった。昔、洞穴には「伝説のベーシスト」がいたらしい。確か、その人の名前は――「ケイ」と。
魚澄は窓の外へ視線を向けたまま、小さく呟いた。
「昔の話ですよ」
けれどいぶきの胸には、妙なざわつきだけが残っていた。
◇
数日後の放課後、旧校舎の音楽室には、傾きかけた夕陽が静かに差し込んでいた。
来未は夢中でギターを弾いていた。Fコードを押さえ損ねては顔をしかめ、また押さえ直す。指先はとっくに痛みを通り越して熱を持っていたが、それでも止める気にはなれなかった。あのライブの日から、ずっと頭の中にはいぶきの音が残っている。真っすぐで、強くて、眩しかった。少しでも近づきたかった。
「やってるね」
不意に背後から声が聞こえ、来未の肩がびくりと跳ねた。
「ゆ、雪村先輩!?」
振り返った先には、夕陽を背負ったいぶきが立っていた。その姿を見るだけで、心臓が妙に騒がしくなる。
「あ、あのっ! この前のライブ、本当に凄かったです! なんかもう、音が全部ぶつかってくる感じで……!」
慌てて言葉を並べる来未を見て、いぶきは小さく笑った。
「ありがと」
その一言だけで胸が熱くなるから困る。いぶきは少しだけ視線を泳がせた後、どこか申し訳なさそうに口を開いた。
「あのさ……、今度の週末、時間取れないかな?」
「へっ?」
「私のメンバーに会って欲しいの」
来未はぱちぱちと瞬きを繰り返す。
「メ、メンバー……?」
「うん。あと、ギターも持って来てね」
◇
そして迎えた週末。駅前でいぶきを待っていた来未は、落ち着かない様子で何度もスマホの時間を確認していた。そこへ私服姿のいぶきが現れる。
「ごめん、待った?」
「い、いえっ!」
慌てて首を振る来未へ、いぶきは小さく笑った。
「それじゃ、行こっか」
二人は並んで歩き出した。夕暮れにはまだ早い時間で、街は週末特有のゆるやかな賑わいをたたえていた。
やがて辿り着いたのは、地下へ続く、見慣れた雑居ビルの入口だった。来未にはすぐに分かった。Spinning Dreamsがライブをしている場所。ライブハウス洞穴。来未にとっては、憧れそのものみたいな場所だった。
階段を降りるにつれ、低い重低音が足元から響いてくる。薄暗い通路には機材の匂いと熱気が混ざり合っていて、来未は無意識にギターケースの肩紐を握り直した。心臓が、やけにうるさい。
ステージ脇へ辿り着くと、そこには、既に二人の少女が、アンプを調整しながら何やら話していた。藤代絵梨花と桐島愛だ。カウンター越しからその様子を静かに眺めているのは、洞穴の店主――来生晶だった。
「連れて来たよ」
いぶきの言葉に、二人の視線が改めて来未へ向く。
「この子が?」
最初に口を開いたのはボーイッシュな髪をした少女、桐島愛だった。その声には、隠し切れない戸惑いがはっきりと滲んでいた。いぶきは静かに頷いた。
「うん」
愛は、露骨に眉を寄せた。
「うちのバンド、そんなに甘くないよ?」
愛のつっけんどんな言葉に、来未は思わず息を呑んだ。すると、隣にいたショートボブの髪をした、もう一人の少女――藤代絵梨花が静かに口を開いた。
「あんた、ギター歴は?」
「い、一年ちょっとです……」
一瞬、空気が止まった。
「一年!?」
愛が思わず声を上げる。その反応だけで、自分がどれだけ場違いなのかを思い知らされた。
けれど、いぶきだけは静かだった。
「そう、だから今日、この子の音を聴いて欲しくて呼んだの」
愛は納得のいかない顔のまま大きく溜め息を吐いた。絵梨花はしばらく来未を見つめていたが、やがて、譜面台から一枚の紙を取り上げると、来未の前に差し出した。
「じゃあ、これ」
渡された紙を見て、来未は思わず息を呑んだ。譜面には、見慣れないコード進行がびっしりと書き込まれている。
「今から合わせる曲のコード。付いて来られるか見せて」
これは完全に試験だった。予想もしていなかった展開に、来未は喉を鳴らしながら小さく頷いた。
「……はい」
カウンター越しにその様子を眺めていた晶は、缶コーヒーを片手に、静かに目を細めていた。
◇
演奏が始まった瞬間、来未は理解した。(無理だ)と。
愛のキーボードは鋭く空間を支配し、絵梨花のベースは静かなのに芯が強い。その上をいぶきのギターが真っすぐ突き抜けていく。音の圧が、根本的に違った。ただ演奏しているだけじゃない。三人の呼吸は最初から噛み合っていて、目配せも合図もないのに、次の展開が自然に重なっていく。
来未は、譜面を追うだけで精一杯だった。
それでも、合わせなければと、必死にコードを押さえた。汗で滑りそうになる指先に力を込め、遅れそうになる右手を無理矢理振り下ろす。
ジャカッ――
ほんの一瞬だけ、自分の音がその流れに重なった気がした。いぶきのギター、絵梨花のベース、愛のキーボード――その真ん中へ、自分の音も入り込めたような感覚。胸が熱くなる。
だが次の瞬間、愛のキーボードが鋭くフレーズを切り替えた。絵梨花のベースも、それに呼応するように滑らかにラインを変える。空気が、一瞬で変わった。まるで、これでも付いて来れるかと言わんばかりに。
来未の思考が追い付かない。次の展開を探して視線が止まり、焦るほど指が動かなくなる。コードを押さえ損ね、リズムが崩れ、右手だけが空回っていく。その様子を見て、愛も絵梨花も見限り始めていた。
それでも、いぶきだけは演奏を止めなかった。真っすぐ来未を見ながら、ギターを鳴らし続ける。強く、迷いなく。まるで「合わせて」と言っているみたいに。
けれど、
ジャッ――!!
来未は盛大にコードを外した。耳に痛いほどの不協和音がスタジオ内に鋭く響き渡り、そこで演奏が止まった。
静まり返った空間の中で、来未は俯いた。呼吸だけが浅く乱れている。さっき一瞬だけ見えた場所へ、もう届かない。
「これじゃ……無理」
最初に口を開いたのは愛だった。
「今の実力じゃ、ライブなんて立てないよ」
真っすぐな言葉だった。だからこそ、痛かった。
「ご、ごめんなさい……」
声が情けないほど小さくなる。消えてしまいたかった。逃げ出したかった。
「それでも!私はこの子がいい!」
静まり返ったスタジオへ、いぶきの声が真っすぐ響いた。愛と絵梨花は、同時に驚きの顔を上げた。いぶきは、頑として一歩も引かなかった。
「確かに今は未熟だよ!一年しかやってないんだし」
そう言いながら、来未を見る。
「でもね、この子の音には感情があるの!」
カウンター奥で缶コーヒーを傾けていた晶も、静かにその言葉を聞いていた。
「諦めない音をしてる!」
シーンとスタジオ内に静けさが広がった。愛は未だ納得してない顔をし、絵梨花も腕を組んだまま黙っている。
やがてその沈黙を切るように、晶が口を挟んだ。
「……いぶきがそこまで言うのはさ」
晶は缶コーヒーを傾けながら、静かに来未を見た。
「この子の音に、何か感じたからなんでしょ?」
いぶきは何も言わない。けれど、その沈黙自体が答えのようだった。晶は小さく笑う。
「ほんの一瞬だったけど、この子、ちゃんとあんたらの音へ入ろうとしてたじゃん」
来未が顔を上げる。
「少なくとも、完全に駄目って音じゃなかったよ」
愛はまだ納得していない顔をしていた。絵梨花も腕を組んだまま黙っている。晶は、そんな二人を見ながら続けた。
「だからさ、二週間後にもう一回見てみれば?」
二人は目を丸くした。愛がすかさず晶に問いかける。
「そんな……、二週間で変わる?」
「伸びる奴は変わるよ」
晶は冷静沈着な声で言う。けれど妙な説得力があった。絵梨花はしばらく考え込むように黙っていたが、やがて小さく溜め息を吐く。
「……分かった」
来未の肩が跳ねる。
「二週間後。もう一回だけだからね。それまでに、何とかしときなさいよ!」
「は、はいっ!」
来未は慌てるように頭を下げた。
◇
帰り道、夜風が火照った頬を静かに撫でていく。
来未は俯いたまま歩いた。隣を歩くいぶきの横顔をときおり見上げながら、胸の奥に重く沈んだ悔しさを噛み締める。愛のキーボードも、絵梨花のベースも、自分とはまるで立っている場所が違った。あのスタジオで鳴っていた音を思い返すたびに、自分だけが遥か後ろへ取り残されている気がした。
「……ごめんね」
不意に、いぶきが小さく口を開いた。来未が顔を上げる。
「いきなり試すような事して。でも、愛も絵梨花も悪気は無いの。二人とも、本気でバンドやってるから……」
来未は小さく首を振った。
「分かってます」
本当に、その通りだった。だからこそ悔しい。いぶきは少しだけ安心したように笑った。
やがて、駅前に着くと、別れ際にいぶきは、来未を真っ直ぐ見て言った。
「……二週間後、待ってるから」
来未の心臓が大きく跳ね上がる。
「私も、出来るだけサポートするからさ」
その言葉だけで、胸の奥が熱くなった。怖い。不安もある。でも、逃げたくない。
「……はいっ!」
来未は強く頷いた。
◇
「ただいまぁ〜……」
玄関の扉を開けた瞬間、来未は力の抜けた声を漏らした。するとすぐに、リビングの方から麗美が顔を覗かせる。
「あら、おかえり〜。どうしたの〜?何かあった〜?」
「な、何でもないよ!」
来未は慌ててそう返したが、声が上擦っていた。
「でもなんか元気無――」
「ほんと何でもないからっ!」
言葉を被せ、そのまま逃げるように自室へ駆け込む。こんな情けない顔、見られたくなかった。
部屋へ入り、背中で扉を閉めた。静かな室内に、自分の息づかいだけが聞こえる。来未はその場にヘタヘタと座り込んだ。
「二週間……」
ぽつりと零れた声が、部屋の静寂へ沈んでいく。
愛のキーボード。絵梨花のベース。いぶきのギター。どの音も、自分とはあまりにも違い過ぎた。レベルが違う。その現実を、嫌というほど痛感した。
それなのに、頭の奥では繰り返しいぶきの声が蘇る。
――諦めない音をしてる。
自分の音を、ちゃんと聞いてくれていた。そして。
――二週間後、待ってるから。
来未はぎゅっと唇を噛み締めた。怖い。本当は逃げたい。けれどいぶきも晶も、自分の音に可能性を見てくれた。だったら、その期待に少しでも応えたかった。
来未は立ち上がり、肩に掛けたままだったギターケースを静かに床へ降ろした。ファスナーを開け、ギターを抱える。アンプの電源を入れると、小さなノイズが、静まり返った部屋へじわりと広がった。
深く息を吸い込み、ゆっくりコードを押さえる。指先はまだ痛い。それでも止めたくなかった。愛のキーボードへ、絵梨花のベースへ、そしていぶきのギターへ――少しでも近づきたかった。
不格好な音が、小さく部屋に響いていく。今夜の音は、昨日よりほんの少しだけ強かった。




