第7話「雪の果ての目覚め」
『レティシア、次は君が鬼だよ』
優しいアイスグレーの瞳が私に笑いかける。
殿下の笑顔に会うのはずいぶん久しぶりだわ。
ここは、...皇宮の中庭?
きっと梅雨時期ね。
紫陽花がたくさん優しく咲いているもの。
何度も来た場所だからよく覚えてる。
私の、大好きな場所。
このガゼボの周りをぐるぐる回って。
殿下とかけっこしたり、かくれんぼしたり……。
これは、かくれんぼね。
殿下が紫陽花の茂みに隠れようとしている。
『分かりました!いち、に、さん……ご? ろく……よん……きゅう……?』
私ったら、まだ数がちゃんと数えられていないわ。
いやだ、なんて恥ずかしいの...…!
母上も後ろでくすくす笑ってる。
母上の笑顔も、私は大好き…。
『…ちょっとまってー、ちゃんと数えてよ…あっ!さては君、数字がまだ...』
隠れようとされていた殿下が、思わず出てきてしまったわ。...お優しい殿下。
……ずっと昔から変わらない、優しい笑顔。
(―――ズキン)
胸が痛くなる。
ああ……これは、懐かしい夢なのかしら。
『あ!殿下、みーっけ!あはは』
無邪気に笑う私の笑顔が見える。
あんなに口を開けて笑うなんて。
叱られちゃうわ、はしたないって。
私が私を見えるなんて。
やっぱりこれは夢なんだわ。
殿下も笑っている。母上も笑っている。
『あっ!もー、違うよ、あはは』
二人の笑い声がこだまする。
宝物のような思い出の日の、夢。
温かな思い出が夢になって戻って来たような。
(そんな、感覚……が)
眠りから醒めたレティシアは、まだ頭がぼんやりしていた。目をまだ開けたくない。こうして目を閉じていれば、また夢の中に戻れるかもしれないという儚い希望。そんな願いも空しく、現実へと引き戻される。
(ああ。やっぱり、夢だったのね)
覚めてほしくない夢を見ていた。もうあの頃には戻れない。
そしてもうあの場所にも戻れない。
―――この手は血で汚れてしまった。
(私は社交界よりも剣を選んだ)
目を閉じたまま、涙が頬をつたう。
(右足首が痛い……。寒い……。体のあちこちが痛い…)
突然、寒さと全身の痛みが押し寄せた。思うように体が動かない。レティシアはゆっくりと目を開けた。
「気が付いた?」
レティシアを、見知らぬ女性が覗き込んでいた。
(誰……?)
記憶と現実がつながらず、自分に起きていることが把握できない。
(まだ夢を見ているの?)
「……ここは?...貴方は、どなたですか?」
レティシアの問いかけに女性は困ったように笑うと、小さく頷いた。そして静かに部屋を出ていく。
(あれ?聞こえなかったのかしら?)
レティシアは部屋の様子を観察する。見慣れない木の天井。太い梁がむき出しになっている。小さな窓から、冬の柔らかな光が差し込んでいる。ぱち、ぱち、と何かがはぜる音がする。
「いた……」
もっと周りを見ようとして体を動かすと、全身の痛みに襲われる。身体を動かすのはあきらめて、仕方なく視線を動かす。
部屋の隅には石積みの暖炉があり、小さな火が静かに揺れていた。壁も床も、粗く削られた木でできており、ところどころに隙間があった。
壁際には乾燥させた薬草や束ねられた薪が吊るされ、何枚もの毛皮が積み上げられていた。
「……寒い」
声がうまく出ない。誰もいない。何も分からない。それでも何があったかを思い出そうとした。
(辺境地…そして襲撃があって)
(ルシアンと賊を追っていて、それで…)
突然、記憶がよみがえってきた。
(そうだ……!私は……雪にのまれて……!)
雪崩、真っ白な世界。離れていく手。
『ルシアン……!』
(……ルシアン!)
レティシアは息を呑んだ。
(ここはどこ?ルシアンはどうなったの?)
こうして生きているということは、自分は助かったのだ。
しかし一緒にいたはずのルシアンの姿がない。ルシアンは助かったのだろうか。こうして別の場所で寝かされているのだろうか。
(何も分からない...。どうしたらいいの?)
不安に駆られ、ぽろりと涙がこぼれた。
そこへ、さっきの部屋から出て行ってしまった女性と、もう少し若い女性が急いで部屋に入って来た。若い女性はレティシアが泣いていることに気が付き、優しく声をかけた。
「泣いているの?もう大丈夫だよ」
若い女性がレティシアの側に来て、涙を拭いてくれる。
「一人にしてごめんね。母さんは口が聞けないから、私を呼びに来てたんだ」
優しく肩に手を置き、さする。”母さん”と呼ばれた女性は、申し訳なさそうに苦笑いをしている。
(そうだったのね...。そうとは知らずに泣き出してしまって。恥ずかしいわ)
置かれた手の優しさに、思わず言葉が出てくる。
「温かい…」
温かい手を添えられているだけで不安な気持ちが和らぎ、こわばった体の緊張がゆるんでいくようだった。
そのまま少しの時間が経過した。
不安な気持ちが少し和らぐと、今度は疑問が湧き出てきた。
「ここはどこですか?」
あらためて問いかける。
「ここはグランベル鉱山の跡にできた集落だよ。みんなはグランベルって呼んでる」
「グランベル村?」
(ヴァレリア領からの中にある村かしら?)
レティシアはヴァレリア領にある村の名前はあまり知らない。
「ううん。村でも町でもないよ」
若い女性は首を振る。
「ここは―――ただの集落だよ。もうずっと前から、忘れられた場所なんだ」
その言葉は、冬の空気のように冷たく、静かにレティシアの心へ届いてきた。




