第8話「幼き後継者アルフォンス・ルーヴェル」②
季節の庭園となっている皇宮の中庭には、最盛の華やかさを過ぎたバラが、名残を惜しむかのように咲いていた。
中庭の空気は、草木を通る風によってさわやかだった。
バラは夏の風に揺れるたび、香りだけが遅れて残る。
皇宮の庭師によって刈り込まれた緑の木々が、美しい均整の取れた庭を際立たせていた。
アルフォンスは、ラベンダーが列を作るように両側に植えられている白い石畳の上を、グレイスンを伴って歩いていた。
(整然としている)
それがこの場所に対するアルフォンスの「評価」だった。
白いガゼボは、夏の光を薄く切り取るように中庭の中心にあった。
整えられたテーブル、等間隔に置かれた茶器。
その脇にひかえる礼儀正しいメイドたち。
アルフォンスはそれを一度だけ確認する。
(問題はない)
視線の先で、レティシアが立っていた。
すべては決められた通りで、逸脱はない。
それなのに、どこかに誤差がある。
理由を特定する前に、その感覚は一度だけ通り過ぎる。
レティシアの指先に、わずかな緊張の揺れが見える。
いつもの変わらない光景。
「ルーヴェル帝国の光、アルフォンス皇子殿下にご挨拶申し上げます」
磨き抜かれた完璧なカーテシー。
お辞儀の角度。目を伏せて、顔を上げるまでのタイミング。
(問題はない)
そう結論づけることはできる。
できるはずなのに、その結論が少しだけ遅れる。
「よく来たね、レテシィア。元気だったかい?」
アルフォンスはレティシアに微笑みをつくる。
正しく作られた表情。
にっこりと嬉しそうに笑顔を作るレテシィア。
それでも一瞬だけ、レティシアという存在の分類が定まらない。
(婚約者候補)
そこまで思考が進んだところで、とまる。
微笑みをそのままに、アルフォンスはレテシィアから視線をそらし、
「どうぞ、座って。きみの好きなマカロンを用意させたよ」
と着席を促した。
二人はお茶を飲み、お菓子を楽しみながらしばらくお互いの近況を話した。
「最近は、どの書物を読んでいるの?」
アルフォンスの問いは、いつも通り穏やかだった。
レティシアは少し考えてから答える。
「つい先日は、ラウフェル・ド・エルヴァイン子爵の『宮廷制度史講義』について読んでいました」
「良い書物だね、それはぼくも読んだことがあるよ。あれは“血統と統治権が形式によってどのように正当化されるか”について特に勉強になったよ。君はどう感じた?」
レティシアは一瞬だけ視線を落とした。
(わたくしは、そこに描かれていた人々が“正しさの中でしか生きられない”ことが、少し怖いと思いました)
そう言いかけて、その言葉を心の中に戻す。
少しだけ間を置いて、ひかえめに言った。
「はい、わたくしも同じように思いました」
アルフォンスは小さく頷き、口元に笑顔をつくった。
庭の風が、ガゼボの影をわずかに揺らす。
ただそれだけが、静かに時間の流れを示していた。
「本日はお招きいただきまして誠にありがとうございました」
ヴァレンティーヌ家侍女のマリアがレティシアを迎えに来て、お茶会は終わりの刻となった。
レテシィアはアルフォンスに丁寧にお辞儀をした。
「これで最後とは名残惜しいね。きみが初めてここへ来た日のこと、懐かしく思うよ。マカロンを嬉しそうに食べていたね」
アルフォンスはレティシアの肩に手を置いた。
レティシアの頬が熱を帯びたが、それを悟られないようレティシアは視線を落とした。
アルフォンスはレティシアの肩に置いた手を戻した。
レティシアは顔を背けるように、今まで以上に美しく深いカーテシーをとった。
動きは一切の乱れもなく、正確な礼そのものだった。
「次にお会いする日を心待ちにしております」
レティシアは顔を上げる直前、ほんの一瞬だけ息を止めた。
(これで終わりなのですね)
アルフォンスの姿を見たまま、レティシアの視線だけは遠き日々を見ていた。
夏の陽はすでに傾き、アルフォンスの金髪の輪郭だけを縁取っていた。
出会った時より大人びたアイスグレーの瞳。
わずかに開き始めたふたりの身長の差。
幼い頃の記憶が、順序もなく浮かんでは消えた。
初めて会った幼き日のこと。
目を奪われるほどの尊い笑顔。
かけっこやおにごっこ、かくれんぼで過ごす時間が、いつからか会話が中心になったこの時間。
当たり前にこれからも続くと思っていた。
(もう当たり前ではないのだわ)
レティシアの前には、いつも通りのアルフォンスの微笑みがそこにあった。
「また社交界で会おうね」
次の瞬間、アルフォンスはグレイスンに目配せをして、歩き出した。
レティシアはその姿を数刻、見送った。
中庭の石畳の上を歩いていたアルフォンスはふと振り返り、遠くの通路を歩き去るレティシアの姿を追った。
彼女の歩き方に、乱れはない。
いつも通り、正しい所作で歩いてゆくレティシアの後ろ姿。
それでも一つだけ、以前と異なる点に気が付いた。
踏み出した後の“揺れ”が消えている。
まるで、足元が少しだけ強くなったような歩き方だった。
アルフォンスはその違和感をどう評価してよいかわからず、その違和感は、結論に至る前に静かに処理された。




