第4話「完璧令嬢 レティシア・ヴァレンティーヌ」③
「カーテシーは、ただ頭を下げればよいものではありません」
「皇帝陛下への礼は三秒静止で視線を上げてはなりません」
「皇后陛下に二秒の静止です。しかし頭を下げる角度は皇后陛下の方が深くなります。スカートを最も美しく広げるように」
「そうです、それこそが完璧なカーテシーです!」
ベアトリスの皇后候補教育が始まって三年が経ち、レティシアは八歳になっていた。
礼儀作法、カーテシー、言葉遣い――レティシアは立派な淑女となるべく、毎日厳しい教育を受けていた。
今レティシアは“笑顔の見せ方”について学んでいた。
「歯を見せすぎずに、目だけ笑うのです。…いえ、それは民衆向けの笑顔です。いまは外交用の笑顔を練習しているのですよ、…そうです、なるべく優しく見えるように…。いえ違います。あなたは今“優しい”ではなく“媚びて”見えましたよ」
(ぜんぜん、分からない。何が違うの?)
8歳になったレティシアは、教育が始まった時に比べて随分と落ち着いた振る舞いになっていた。
時々、弟のノエルが楽しそうに剣術を学んでいるのが窓から見えると、じっと練習を見つめてしまい、ベアトリスに叱られることはあった。
(ノエルはいいな、あんなに剣術をたくさん教えてもらって。私も笑顔の練習なんかよりも剣術を学びたいのに)
弟のノエルはレティシアより一つ年下の7歳で、つい最近、元騎士団長のガレスから剣術を学び始めたばかりだった。
(私のほうがノエルよりぜったい強いのにな。昨日だってこっそりノエルの練習に付き合って、ノエルに勝ったのになぁ。)
「聞いていますか?レティシア様。」
「はっ!はい、先生!もちろん聞いています!」
「…それは、ごまかし取り繕う笑顔です。おおよそノエル様の剣術の練習をご覧になっていたのでしょうね」
心の中で舌を出してみた。
ベアトリスが「淑女は剣など振り回しません」などと言っていたが、レティシアはもう聞いていなかった。
(弟ばっかり、ずるい)
公爵邸は広く、レティシアの部屋は公爵邸の西の棟にあった。
大きな中庭にある石畳を東に歩いてゆくと、人通りの少ない東の中庭があることを知っていた。
幼いころ、ベアトリスの授業が終わると、その中庭で弟のノエルと鬼ごっこや木登りをして遊んだりしていた。
東の中庭はレティシアのお気に入りの場所だった。
たくさんの木や草が茂っており、整然と手入れをされた公爵邸の敷地の中で、ここだけは不思議な場所だった。
「あまり奥に行くと危ないんだよ、姉さま。怖い人が住んでいるんだって」とノエルがよく言っていた。
すっかり日が暮れた冬のある日。
この東の中庭で、少し太めの枝を見つけ、ひとりその枝をぶんぶん振っていた。
「お嬢」
ふと低い声がした。
振り向くと、そこにいるのはガレスだった。
「興味があるのか」
はっと目を見開いて枝を放り投げた。
元騎士団長ガレス・オルディンは、熊のように大柄な男だった。
短く刈った灰色の髪と、頬に走る古い傷跡が歴戦の騎士であることを物語っている。
(こ、怖い…。この人がノエルの言っていた人なのかしら)
返事をしなければ、と思ったが声が出ない。
しかしレティシアを見る目が不思議と穏やかだった。
ガレスはレティシアが放り投げた枝を拾い、レティシアに差し出した。
首を振る。
「……だめなの」
「誰が決めた」
「え?」
「剣は、こう持つのだ」
ガレスは枝を置いた。
そして腰に差していた剣をスッと抜き、レティシアに構えを見せた。
月光を浴びた剣は、冷たく鋭く光っていた。
ガレスが剣を振るうたび、風がびゅっと鳴る。
胸がどきどきと高鳴る。
「かっこいい…」
キラキラと瞳を輝かせるレティシアを見て、ガレスは少し目を細めた。
そして剣を鞘に戻し、静かに言った。
「週に一度、この時間にここを通る。」
「え?」
聞き直したがガレスは何も言わず、立ち去って行った。
後からレティシアは、それが元騎士団長でありノエルの剣術の師匠のガレス・オルディンだと言うことを、ノエルから教えてもらった。
ノエルには、ガレスに会ったことは秘密にしておいた。
「お茶会は、単なるお茶を飲む会ではありません。舞踏会もしかりです。誰が誰の派閥か、誰と踊ると政治的意味があるか、誰を無視すると敵になるか。隣に座るだけで噂になるのが社交界というものです」
ベアトリスの皇后教育は礼儀作法から社交界のデビューに向けて、さらに白熱したものになっていた。
「先生、私は月に一度、皇居のお茶会にお呼ばれしていますが、そこにはいままで皇子殿下しかいらっしゃいませんでした。他の貴族の方々にはお会いしたことはありません。」
レティシアは、初めて皇居でアルフォンスに出会って以来、月に一度、皇居のお茶会に招待され、アルフォンスとお茶やお菓子を楽しんだり、中庭を駆け抜けて遊んだりしていた。
しかし今までそこには執事や侍女が控えてはいるものの、アルフォンス以外の身分の高い者は同席していなかった。
「良い質問です。レティシア様はこれまでその婚約者候補と公爵家のご令嬢というお立場に加え、まだ幼いということから、かなり特別なご配慮を賜っていたということです。」
(なんと!そうだったのね)
「ですが、もうそのようなお茶会は、夏には終わりになるのです。」
「え?」
驚くレティシア。
(あんな楽しい時間が終わってしまうの?)
「どういうことですか?私が何か失礼をしたのですか?…心当たりがありすぎるのですが」
その言葉に、コホンとベアトリスは咳払いをした。
「そういうことではありません。これから、レティシア様の本格的な社交界デビューが待っています。社交界に出たら、そこで皇子殿下とご一緒する機会ができますので、個人的なご交流はもう終わりにするという方向になりました」
信じられなかった。
月に一度のアルフォンスとのお茶会はなによりの楽しみだった。
優しく、美しく、そして誰よりも聡明なアルフォンスは、レティシアのあこがれの人。
そんな楽しみの時間が無くなってしまうなんて、悲しくて仕方なかった。
「皇子殿下ももう十歳となられますので、皇太子教育もさらになおいっそう本格的に厳しくなるのです。すべては民のために、王になるために多くを学ばなければならない御身。ほんのひとときでも、遊んでいる暇などないのです。」
ベアトリスはレティシアの背中を優しくなでながら、諭すように話した。
「レティシア様は、あくまでも皇太子妃候補者。皇子殿下と結ばれ、結婚するためには、皇帝陛下や皇后陛下、宰相や他の公爵家、そして何より民に選ばれなければならないのです。」
はっとした。
「そうです、レティシア様、皇子殿下の隣に立たれるには、完璧でなければならないのです」
寒い冬の夜、東の中庭のお気に入りのベンチに座る。
昼間のベアトリスの言葉が何度も頭をよぎった。
『皇子殿下の隣に立たれるには、完璧でなければならないのです』
(完璧って、なんだろう)
ふと空を見上げると、たくさんの星が目に入った。
その中でもひときわ明るい星が一つ、その傍に少し明るい星が一つあった。
(あの星は、皇子殿下。その隣の星は、わたし…。)
大きな不安が胸いっぱいに広がった。
それは今まで感じたことのない感覚だった。
(こわい)
いつの間にか泣いていた。
その時、ガサッと草を踏む音が聞こえた。
振り向くと、見たことのない子供の姿があった。
夜のように黒い髪に、少しつり気味の琥珀色の瞳の少年が、星の光に照らされて立っていた。
「だ、だれ?」
おそるおそる問いかける。
少年は答えた。
「僕はルシアンだよ」
【主要登場人物です】
■ レティシア・ヴァレンティーヌ
この物語の主人公。絹糸のような淡い銀髪で紫色の大きな瞳をもつ公爵令嬢。
未来の皇后候補として厳しく育てられ全てに秀でた“完璧令嬢”・・・だったが?
■ アルフォンス・ルーヴェル
ルーヴェル帝国の第一皇子で、次代の皇帝として期待される存在。
金髪でアイスグレーの瞳をもつ端正な顔立ちをしている。
■ ルシアン・エヴラール
隣国であり友好国であるラヴィエール公国の小公爵。レティシアの幼なじみ。
軽薄そうで何を考えているかわからない。黒髪の危険な色気があり女性からもてる。
レティシアの本性を知る数少ない人物。
【ルーヴェル帝国 関係者】
■クラウディウス皇帝
ルーヴェル帝国を長年統治している偉大な皇帝。
理性的で威厳があり、民から敬愛されている。
【 ヴァレンティーヌ公爵家】
帝国屈指の名門公爵家であり、代々皇室騎士を輩出している武門の家系でもある。
■ ヴィクトル・ヴァレンティーヌ
ヴァレンティーヌ公爵家当主。厳格で威厳ある人物で皇室からの信頼も厚い。
■ セラフィーナ・ヴァレンティーヌ
ヴィクトルの妻であり知性と品格にあふれる公爵夫人。
■ アレクシス・ヴァレンティーヌ
3歳年上のレティシアのでヴァレンティーヌ家の後継者。聡明で冷静。
■ ノエル・ヴァレンティーヌ
1歳年下のレティシアの弟。剣術好きで明るい性格。
■ベアトリス・ローエン
レティシアの教育係。
帝国最高の淑女を育て上げることに強い誇りを持っている。
■ガレス・オルディン
かつて帝国騎士団を率いていた元騎士団長。
熊のように大柄な体格と、頬に走る古傷のせいで恐れられることも多いが、その剣技は
帝国内でも伝説的と語られている。




