四席
「僕は、あなたに歌を捧げたい」
その一言が自分に向けて発せられたものではないと分かった瞬間、エレクトラの思考は真っ白に染まり、立ち尽くすことしかできませんでした。
ポメロが「一日待ってほしい」と言ったとき、エレクトラは全身が脱力するほど救われた気持ちになりました。
彼は私のために時間を稼いでくれたのだと、エレクトラという人間を、あの深淵に飲み込ませないために、必死で私への歌を考えてくれるのだと信じて疑いませんでした。
奏鳴荘に帰るなり自室に閉じこもった彼を見て、寂しさはあっても、それが彼の誠実さなのだと自分を納得させていました。
けれど、曲が完成しても、八番舞台へ向かう道中でも、彼は一度もエレクトラと目を合わせようとしませんでした。
エレクトラの胸中に疑念と不安が重なっていきます。
そこで、サイレンに向けたあの言葉です。
「え……私に?」
サイレンは、枯れ木のような指先で自身の喉元を指し、仰天した声を上げました。
隣に座る興行主も、厚い化粧を歪めて絶句しています。
(え……私は?)
エレクトラは、ただ、落胆していました。
奈落の底に突き落とされたような心地を味わっていました。
ポメロの顔は、あまりにも真っすぐにサイレンを見つめていました。
その瞳には、かつてエレクトラを救い上げ、この世界に繋ぎ止めてくれた、熱い情熱が宿っていました。
彼女が最近惹かれだした真っすぐな光が、今は彼女ではない別の、昨日会ったばかりの初老女性に向けられています。
「いいけど……。勝手にしなさいな」
戸惑いながらも受諾したサイレンの声を、エレクトラは遠くで聞いています。
エレクトラにはわかっていました。ポメロは何かをしようとしています。
彼がギターを抱え直し、 もう一度サイレンを射抜くように見つめたとき、その決意の重さに空気の密度が変わりました。
(私の時みたいに……何かを、変えようとしてる?)
「『葬送歌』。聴いてください」
響いたのは、あまりにも静かで、あまりにも凛とした弦の音でした。
かつての熱狂を誘う指捌きではなく、一音一音が重く、冷たく、けれど確かな温もりを宿して、応接室の淀んだ空気を切り拓いていきます。
それは、巡りゆく時の流れを歌う調べでした。
諦観ではなく、達観。
主観ではなく、客観。
眼差すものが眼差されるものに送る言葉。
悲しみがいつか笑い話になるための弔い。
別れが、出会いのための必然であったと告げる、残酷なまでに美しい福音でした。
サイレンは、いつの間にか瞳を閉じ、その旋律に身を委ねていました。
険のあった肩の力が抜け、四十年の摩耗に晒されたその顔に、不思議な安らぎが広がっていきます。
興行主は、声もなく静かに涙を流していました。
あんなに傲慢で、エレクトラを作品としてしか扱わなかった女が、今はただ一人の人間として、自身の過去を洗い流すかのように頬を濡らしています。
エレクトラだけが、ついていけません。
エレクトラはポメロの歌を聞いているうちに、だんだんとわかってきました。
(今の私は、自分ばかりを見ている)
サイレンの四十年の重みに怯える自分。
興行主に逆らえない卑怯な自分。
ポメロ君に振り向いてもらえなくて、子供のように腹を立てている自分。
(「自分」ばかりだ。嫌になるほどに)
そのくせ、人として生きられるか、作品として完成されるか、その身の振り方さえ決めきれず、ただ立ち尽くしています。
そんな未熟なエレクトラには、ポメロ君が奏でるこの音の正体が、芯が、さっぱり理解できないのです。
サイレンさんが薄く微笑んでいます。
何が嬉しいの?
興行主の顔から、毒々しいまでの緊張感が解れています。
何に安心したの?
昨日までの悲しみを、笑える日が来る。
そんなこと、今のエレクトラには想像もつきません。
一度失った光が、別の形で巡ってくるなんて、そんな奇跡のような道理、どこを探しても見当たりません。
ポメロが、最後の一音を消えるように弾き終えました。
エレクトラには、やはり、最後までこの歌の意味がわかりませんでした。
彼女があんなにも愛して、あんなにも求めて止まなかったポメロの音が、理解の範疇を越えていて、一滴も心に届かなかったのです。
───── ♬ ─────
サイレンは、深く、一度だけ深く頭を下げると、音もなく応接室を去っていきました。
『楽譜は好きにしていい』
その言葉は、もはや彼女の執着の終焉を意味していました。
ポメロが奏でた『葬送歌』の旋律によって、四十年の孤独も、摩耗しきった情念も、すべては過去という名の土へと還されたのです。
生まれ変わった彼女にとって、あとに残された譜面の山は、新しく踏み出す明日にはあまりに重く、不要な荷物となったのでしょう。
開かれた扉から滑り込む春の夜風が、主を失った膨大な紙の束をパタパタと虚しく震わせていました。
残された三人は、降り積もるような沈黙の中で、手元の酒を喉に流し込みました。
琥珀色の液体が喉を焼く微かな音と、時折窓を叩く雨音だけが、部屋の静寂を奇妙に際立たせています。
興行主は椅子に深く身を沈め、天井の装飾をぼんやりと見上げていました。
その横顔からは、つい先刻までエレクトラを芸術作品へと作り変えようとしていたぎらついた野心が、潮が引くように消え去っています。
エレクトラは、目の前に積まれた楽譜 の束を、壊れ物を扱うような手つきでなぞり続けていました。
先ほどサイレンが選りすぐって歌い上げたのは、そのうちのわずか五曲に過ぎません。
けれど、ここには彼女の四十年の全容が、夥しい数の音符となって沈殿しています。
グラスの中の氷が溶けきり、カランと小さな音を立てたとき、彼女は一度強く唇を噛み、誰とも目を合わせずに呟きました。
「……怖いの」
独白のようなその声には、逃げ場のない予感が重く滲んでいました。
彼女は震える指先で、紙に刻まれたサイレンの、あるいは自分の情念を押し潰すように握りしめます。
「この楽曲たちは確かに私も宿ってる。今の私。これまでの私。そこに、もしこれが重なれば──私はこの楽曲たちに飲み込まれる。私はここから一歩も動けなくなる。立ち竦むんじゃないわ。固定されるの。芸術作品として──【最果ての灯台】として」
エレクトラは続けます。
「表現者としての自分がどうしても捨てきれなくて、私はここで歌わせてもらっているのに。今、私は……人間としての自分を捨てきれない。その狭間で揺れて、どうしても、決めきれないのよ」
吐露された迷いは、夜の空気に触れて白く霧散していきます。
興行主は、憑き物の落ちた、清々しいほどに執着の取れた顔でエレクトラを見つめ返しました。
かつての彼女なら、ここで迷いを見せる歌手を怒鳴りつけ、無理やりにでも舞台へ引き摺り出したでしょう。
ですが今の彼は、ポメロの歌によって剥き出しになった自身の人間の部分を、持て余すように静かに受け止めていました。
「私も、前のめりに過ぎたわね。あなたの横顔を見ていて、ふと思ったのよ。今のあなたがサイレンさんの呪詛を歌うには、まだ早すぎるって。楽曲に飲み込まれる……ええ、その通りだわ」
興行主はエレクトラに慈愛を以て続けます。
「これを今のあなたが歌うなら、もうエレクトラはそこにいなくなる。あなたに憑りついた亡霊が舞台に立つことになるわね。この呪詛をエレクトラとして歌いこなすには、それ相応の経験と、長い時間を経た円熟が必要になるのよ」
興行主はふう、と深く、長く息を吐き出しました。
プロの目利きとして、目の前の至宝を逃す未練を滲ませながらも、どこか解放されたように肩をすくめてみせます。
「でも、ああ──惜しいわね! 興行主としての本能が、この楽曲の数々に希望を見ちゃう。魔力に飲まれそうになるわ。適したアーティストにバラで渡してしまおうかとも考えたけれど……サイレンは好きにしていいと言ったし。でも、所有権はエレクトラにある。私の一存で決めるわけにもいかないわ」
「じゃあ」
そこで、ポメロが静かに切り出しました。
彼はギターのネックを杖のように握り、視線を落としたまま、低い、けれど通る声で言葉を継ぎました。
「保留にしたらどうですか?」
「「保留?」」
二人の声が重なりました。ポメロは少しだけ照れくさそうに、癖のある髪を乱暴に掻きました。
「聴いていて思ったんですよ。せっかく好きにしていいとお墨付きを貰ったんですから、歌える時まで大切に保管しとけばいいんです。何も今、全部を飲み込む必要なんてない」
「えっ、そんなこと……」
「……アリね!」
興行主が、パンと乾いた音を立てて膝を叩きました。
「興行主さんも言ってたじゃないですか。歌いこなせるだけの経験と円熟が必要だって。その時まで、エレクトラさんの引き出しの中にでも、興行主さんの金庫にでも、ナイナイしちゃいましょう。今すぐ決着をつける必要なんて、どこにもないんですよ」
一見無責任な先延ばし術でした。
ですが、今この瞬間の彼らにとって、それは何よりも深い慈悲に満ちた解決策だったのです。
時間を味方につけ、熟成を待つ。
ポメロの横顔には、そうした緩やかな猶予を許す、大人のような落ち着きが宿っていました。
「それにね。僕も、迷っていたんですよ」
ポメロは申し訳なさそうに、ようやくエレクトラへと真っ直ぐな視線を向けました。
その瞳は、昨夜の作曲中に見せた冷徹な「表現者」のものではなく、一人の少年としての迷いを孕んでいました。
「エレクトラさんを止めたい人間としての僕と、エレクトラさんの背中を押したい表現者としての僕。その狭間で、ずっと」
「……そうだったのね」
エレクトラの表情から、鉄の枷が外れたような開放感が溢れました。
張り詰めていた心の糸が、ポメロの正直な告白によって優しく解けていきます。
「どうも僕、業の深い性質らしいので」
「ふん、あなたみたいな小僧っ子が、孫がいてもおかしくないような女二人の心を浄化するんだから、そりゃ業くらい深いでしょ」
興行主の毒づきに、エレクトラは思わず小さな、けれど確かな笑声を漏らしました。
女二人、という表現にポメロは何か反論しようと口を開きかけましたが、多様性を尊重すべきという常識と、ようやく戻ってきたこの場の平穏を重んじ、そっと口を噤みました。
「私はポメロの案に賛成よ。エレクトラ, あなたはどうする? この呪いのスコア、預けておくかしら」
エレクトラは目の前に広がる膨大な楽譜の山を、今度は愛おしそうに、けれど決然と引き寄せました。
彼女の瞳には、深淵に沈む者の絶望ではなく、いつかその底から這い上がる者の、静かな決意が宿っていました。
「……ええ。いつか必ず、歌ってみせます。エレクトラとして」




